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10月, 2016

  1. いつまで続くんだろう?

    10月 31, 2016 by dolce

    自慢話しのことです。

    どこからそんなに自慢出来る事が湧いてくるのだろうと思うぐらい、毎回自慢ばかりする人がいらっしゃいます。

    どこまでも続ける人もいるので、聞く立場にとっては苦痛に感じることもあるのではないでしょうか。

    これらは

    うんざりするかも…?自慢話をされたときにやるべき5つの対応策

    からの引用です。

    自慢する人の心理についても書いてありました。

    ・自慢話をする人は、実は不安を抱えている?

    自慢ばかりする人は、本当は「バカにされたくない」という不安の人一倍強い人である。

    『不安を抱えているから、他人と自分を格付けして、より高いポジションにつくことにこだわる。そしてそれを、誰かに認めて欲しい』これは、多かれ少なかれ、誰もが持ちうる心理だそう。

    他人と張り合って、つねに自分の優位を確認しておかなければ気がすまないのである。

    ———————————————————————————————————————–

    そんなに自慢したいならやればやればいいと思うのだが、自慢することがウソだったらが逆効果であると思います。
    例えば、「どうしようもない一番荒れたクラスを、私の指導した学生であれば、2時間でまともにします。」

    なんて言う話は実際の話ではなく、架空の話なんです。
    架空の話で大風呂敷を広げても、誰も感心しないと思うのです。
    むしろ反感を買うだけではないでしょうか?

    それより黙って、どうしようもない一番荒れたクラスを密かにまともにしたという事実のほうが、よほど説得力があるのではないでしょうか?
    人に凄いと思わせたかったら、実践で示すことです。

    実践の伴わない自慢はホラです。

    ホラでどんな凄いことを言っても、バカにされるだけです。
    凄いことを言えば、凄いと思ってもらえると思うのは、せいぜい小学生程度の知能だと私は思います。
    「1番荒れたクラス」というのはどうしてわかるんですか?
    また、荒れた状態をどう定義するのですか?

    それより、私が最も不思議に思うのは、どうすると,こういう人が大学の教授になれるのかということです。
    日本はそんな国なのですか?
    大して難しくもないことをたくさん発言して、学生たちはそれで単位がもらえるのですか?


  2. 自画自賛

    10月 27, 2016 by dolce

    ■自画自賛の心理

    人は子どもから大人に成長するに従い、概して自画自賛はなくなるように思う。

    この考えに従えば、いい年をしてまで自画自賛の多い人は、子どもっぽいとも言える。

    人はなぜ自画自賛をしたがるのだろう?

    それは、自分(すること、したこと)を他人に凄いとかすばらしいと言ってもらいたいからなのだろう。
    これは、したことが本当にすばらしいかどうかには関係ない。
    ただ、他人から賞賛を浴びたいという単純な心理からなのだろう(承認の欲求)。

    だから、こういう単純な心理の人とうまくやっていくには「あなたのやっていることは凄いですねえ」を連発すればよい。

    ただ、情けないと思うのは、その行いが少しも凄くないのに、凄いと思っている人(自己顕示欲の強い人)ほど、凄いと言ってもらいたいという欲求は強いし、だれも言ってくれないと、欲求のあまり、自分から言い出す。

    「私の功績です」とか「私の業績で・・・となりました」などがそれです。

    こういう発言は普通の大人にとっては恥ずかしいのだが。

    それははからずも、中身が大人ではないという証拠である。


  3. 教育を受けさせる義務は学校へ行かせる義務ではない

    10月 25, 2016 by dolce

    まさか、教育を専門とする人がこんな間違いをするとは思えないが、
    教育を受けさせる義務は学校へ行かせる義務ではない

    採用試験で間違えないように。


  4. 話の内容がないのはコミュニケーションの薄さ

    10月 20, 2016 by dolce

    「変な記事を書く人(3)」では人と人のコミュニケーションの希薄さが、話の内容の希薄さを表していると説明をした。

    人間の活動は実際にはかなり複雑である。

    子どもが今日は遠足に行くと言う場合、準備から、前日の心のときめきから、遥かに複雑な人間の活動がある。
    平常時、子どもが学校に登校して来る場合、単純に「登校」という言葉で表現してしまうが、その「登校」の2文字だけで実に多様な人間の活動がある。

    ある人は「生きることは戦い」であると言った。
    朝、目が醒めた時から、生きるための戦いが始まるのだ。
    その生きるための戦いが人を育てるわけで、子どもなら大人への自立になるわけである。

    この生きるための何でもないような戦いの様子を、うまく描写した作家が向田邦子だと、私は思うのである。

    「鮒(ふな)」では「父ちゃん鮒獲ってきたよ」という子どもの声に、バケツを覗き込んで、父親はギョッとする。
    めかけを囲っているアパートの水槽の鮒を思い出すからである。
    ここで読者はニヤッとする。

    ここは人の生活を描写したところで、読者の心を現場に引き込むのである。
    リアリティを感じさせるところである。

    子どもと父親の会話は少ないのだが、コミュニケーションを感じさせるところでもあるが、先生でありながら毎日の授業の様子を生々しく語れないのは、目の前に子どもがいるにも関わらず、子どもとのコミュニケーションがないことを表している。

    現実の距離は近くても、心の距離は遠い。
    つまりコミュニケーションが薄いのである。


  5. 変な記事を書く人(3)〜問題はコミュニケーション

    10月 19, 2016 by dolce

    記事に人間臭がない。
    それは人間と付き合っていない。つまりコミュニケーション不足ということ。

    人はごく一部の人を除いて、社会生活に組み込まれているから、全く人との接触がないと言う人はいない。
    問題は接触の程度である。

    人は初対面から始まり、付き合いの程度が変わって行くものだが、それが濃くなってい場合と薄くなって行く場合がある。
    濃くなると言う場合は、プライベートの時間も割いて付き合いたいと思う人と、最低限の時間だけ付き合おうと思う人に分かれる。

    ぶろぐ村の投稿に、さっぱり人間臭を感じられない人は、恐らくコミュニケーションが薄いのだろう。
    親密な話をする人がいない。日頃、社交辞令の程度しか話をしない。
    先生であれば授業はしても、生徒との間柄がなんとなく疎遠で、生徒が先生に親しみを感じないような間がら。

    だから、生々しい実践が感じられないし、そういう話題もない。

    クラス全体を対象に交友関係テストをすると、周辺児とか孤立児といった分類に入る者がいる。
    この者はクラス内では至って無口であり、目立たない。
    問題は誰も相手にしないことである。

    しかし、内面では心の葛藤があり「オレだって」という意識に燃えている。
    社会に出てから「目立たない子でした」と言われるが、社会にインパクトを与える事件を起こしたりして、ニュースになったりする。

    大人の場合、職場で相手にされない分、ブログでエネルギーを消化するのではないかと思われる。
    その場合、孤独な分、特に関係ない大人たちへの恨み節が多い。

    社会に対する批判といえば格好がいいが、批判と言うには口調が汚い。
    批判であれば、人は寄ってくるのだが、人から見たら批判というより、自分の環境に対する、相手にされない不満である。

    口汚い論調のために、コメントを投稿する人もいない。

    実は、私は最近、付き合いを決別した人がいる。社交辞令にとどめておこうと思った人がいるということだ。


  6. 変な記事を書く人(2)

    10月 19, 2016 by dolce

    中身がない人は「言葉の威力」に頼る。

    講演でもそうだが、専門的な研究を行っている学者は意外に使う言葉がやさしい。
    これは「よくわかっているから、易しく語ることができる」からだとも言える。

    また語ることだけに限らず、多くのことにもあてはまる。
    非行少年と言われる少年たちが、派手な服装をしたがるのは、中身に自身がない分服装で威嚇するのもそうである。

    パソコン時代になって、学校の成績が思わしくない少年たちが元気になったのも同じ心理である。
    パソコンで出てくる専門用語をちらつかせると、他人を威嚇できると思って、特に知らなさそうな人の前でやたらと、専門用語を披露する。

    「マウントするって知ってますか?」「ファイルシステムって知ってますか?」・・・・
    ・・・・「ファイルシステムって、フォーマット形式のことですよ・・・」

    (本人はファイル形式とファイルシステムを混同している・・・こんな時は黙っている・・・間違っているよなんて言えばプライドを傷つけられたと興奮するから)

    「ショーペンハウエルのね・・・」
    ショーペンハウエルの名前を出したかっただけ。

    「ショーペンハウエルののどこが気に入ったのかね?」と質問をしてはいけない。先生に恥をかかせる。

    「言葉の威力の人」は単発的に単語が出てくるだけで、一つ一つの単語について、言及することはない。
    これが、かえって物を言う人の底の浅さを露呈してしまう

    こんな他人の態度を見ると、脳ある鷹は爪を隠すを思い出す。


  7. 変な記事を書く人(1)

    10月 15, 2016 by dolce

    100人に1人の割合で存在するという、あの病気の人です。
    変な記事になる理由は「持続性がない」からです。
    つまり、常に思考がバラバラというか、因果関係がないので説得性のないものになる。

    中学校の数学で、証明を学びます。
    三角形の合同では、三辺が等しい、二辺とその間の角が等しい、一辺と両端の角が等しい、この3つしかありません。

    しかし「3つだけではない」と言ったりします。
    「では、他にどういう条件がある?」
    と言うと返事がありません。

    また、証明の仕方も「辺ABと辺DEは等しい、辺CAと辺DFは等しい、角BACと角EDFは等しい、二辺とその間が等しい、故に三角形ABCとDEFは合同である」という風な説明ができません。

    例えば「ABCとDEFは三角形である。だから2つの三角形は合同である」なんていい方になってしまう。
    あるいは「この2つの三角形は合同であることが証明されています」で終わってしまう(根拠が言えない)。

    だから、まともに相手をしても話が続きません。
    これは「コミュニケーション不全」になります。

    こんな風で次第に相手になる人は少なくなります。
    だから、交友関係は薄くなります。

    そして具体的な実践の場は少なくなります。
    これは発表が妄想ばかりになるもとです。

    人によっては自己顕示欲の強い人がいます。
    ソシオメトリー(人間関係図)を作ると、ポツンと集団から離れた人が現れることがあります。
    孤立児とか周辺児と言われる人です。

    つまり、集団の意識下にない人たちです。
    こういう人たちは、自己顕示欲が強いと「いつかオレだって」という意識がありますから、時にみんなをビックリさせて、注目を集めようとします。

    それで、目立つ言葉を意識的に使おうとします。
    あるいは、自己宣伝をしたりします。

    100人に1人とはかなりの確率です。
    だから精神科の専門も「あなたの友だちの中にもいますよ」と言います。


  8. 概念と具体物の混在〜支離滅裂

    10月 8, 2016 by dolce

    三十人以上の子どもを一人一人理解したとしても(絶対に出来ませんが)、その総和は子どもたちではありません。
    相互作用がありますから。だから、個々人の子どもを追い求めても意味がありません。

    「子ども」とは概念です。
    だから「子どもという集合体」を考えた時「一人ひとりを理解すること」はできません。
    (「集合体の中の一人ひとりの理解」と言うのならわかります)
    もっとも、この場合「理解する」とは何を理解するのでしょう?
    「理解する具体的な対象」を挙げなければここで言う「理解」は意味不明であるし無意味です。
    作者は自身が意味もわからず、言葉遊びをしているだけと思われます。

    また「その総和」とは何を指すのでしょう?
    もともと「三十人以上の子ども」とは複数です。

    「三十人以上の子ども」と言っておきながら「子どもたちではありません」とは何なのでしょう?

    中央教育委員会の委員という委員は一人もいません。文部科学省の役員という役人は一人もいません。
    一人一人の思いがあります。だから、その個々人を追跡しても無意味です。

    これも奇妙な文です。
    「中央教育委員会の委員という委員」がひとりもいなくて、なぜ「中央教育委員会の委員」という名称を使うのでしょう?
    (「文部科学省の役員という役人は一人もいません。」の記述に関しても同じです)

    我々は、ネコという動物がいるから「ネコ」という言葉使うと思うのですが「ネコ」という動物がいなかったら、そもそも
    ネコという言葉も生まれなかったでしょう。

    始めにも言ったように、概念と具体物が混在し、同列に語ろうとするから変になるのです。
    「一人一人の思いがあります」とは具体的に人の存在を表した文です。だったら「その個々人を追跡しても無意味」ではありません。

    こういう調子で、ダラダラと意味不明な文章が連続する本を出版してもらっても、いったい何が言いたいのかさっぱりわかりません。

    具体的に実践したことを具体的に記述すれば、こんなことはないでしょうが、これでは何にもならないゴミ箱行きの文章です。


  9. 混乱〜頭の中はどうなっている?

    10月 7, 2016 by dolce

    「子どもという子どもは一人もいません。」

    これはどう意味ですか?

    「子ども」と言えば「子ども」「大人」という用語は巷にあふれています。
    例えば服のサイズ、料金の区別、スポーツの用具などたくさんあります。

    ここで「子どもという子どもは一人もいません。」と言ったらどうなるでしょう?

    私たちは言葉を使う時、ここでは「集合という概念」を想像します。
    日常生活では、それで差し支えないわけです。

    つまり、常識的な集合というイメージを描くわけです。
    しかし、時には子どもを厳密に定義しなければならない時もあります。

    そういう時は「身長◯◯cm〜◯◯cmまでの子ども」などと定義するわけです。

    だから、だいたい、こういう(「子どもという子どもは一人もいません。」とか言う人は思考が混乱しています。
    もっとはっきり言えば分裂しているのでしょう。

    学者が論文を書く時は、論文で使う用語を厳密に解釈してもらうために、定義します。

    「子どもという子どもは一人もいません」と「子ども」を否定してしまったら、この場合の「子ども」と言っている人の「子ども像」はどんなものなのでしょうか?
    我々が想像する「子ども」とは違うのかも知れませんね。

    言葉を定義しないで、子ども論を展開するのですから、学者ではないんでしょう。

    [参考]

    文科省、「こども」表記を漢字に統一 公用文書で

    2013/9/19

    文部科学省はこのほど省内の公用文書の「こども」の表記を漢字書きの「子供」に統一することを決めた。

    「子供」の表記は1973年の内閣訓令で、漢字表記とされた。ただ「漢字より柔らかい印象がある」として、各省庁とも漢字と平仮名の交ぜ書きの「子ども」を使う例が増えていた。

    文科省は、子供と表記しても大人の「お供」のような否定的な意味はないと判断し、公用文書は漢字表記との原則を再確認。7月刊行の文部科学白書では語句を「子供」に統一した。

    文化庁国語課によると「こども」という言葉は「子」の複数形として古くから使われ、江戸時代に「供」が当て字として使われるようになったという。

    「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は、子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められた条約です。 18歳未満を「児童(子ども)」と定義し、国際人権規約(第21回国連総会で採択・1976年発効)が定める基本的人権を、その生存、成長、発達の過程で特別な保護と援助を必要とする子どもの視点から詳説。


  10. 日本の教育のガンは教育系大学のバカ教授にあり

    10月 1, 2016 by dolce

    日本の教育の批判には、とかく小中学校が話題になる。
    学校が話題になると言っても、児童・生徒が悪いわけではない。

    教育の問題は教師の問題と言ってよい。
    もちろん行政側にも問題があるが、最も影響があるのは前線の教師である。
    どう見ても「頭のおかしい教師」病院で治療してもらわねばならないが、これには学校を統括する校長の英断が必要である。
    もっとも、頭のおかしい校長もいるので、その辺は事実上の賄賂でなれてしまうところにメスを入れる必要がある。

    ところで、私が思う最大の問題は、教育に関して最も専門的であるはずの大学教授である。
    教授という肩書にも関わらず、小学生程度の知能と、世間知らずがその地位にいるのは不思議である。
    もちろん、全ての大学教授がそうだと言うわけではない。

    だが、あの程度の頭脳で大学教授になれてしまうというのが、不思議と言わざるを得ない者がいることだ。
    これも、金の力やコネがモノを言っているからか。

    大学教授は学生に単位を与える立場にある。
    そこで非常に問題と思うのは、まるきり間違ったことを教える講義によって単位を与えることである。
    そういう単位に、意味や価値があるのかと思う。

    日本では一度取得した資格は滅多なことがない限り、剥奪されない。
    アメリカでは、学校の先生になってからも資格試験があり、合格しないと失職する。
    校長も例外ではない。

    日本でもアメリカから来た資格、例えばファインナンシャル・プランナーは2年毎に所定の単位、もしくは試験に受からなければ資格を失う。
    大学も在任中でも、資格認定の試験や論文提出を行い、結果を公開し地位の存続の可否を行うべきと思う。
    そうでもしなければ大学の権威は落ちるし、子どもからもバカにされかねない。

    ブログ村にも登場するバカ教授の文章をよく吟味してもらいたい。