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9月, 2016

  1. 教師の理解の深さと生徒の理解の深さは比例する

    9月 30, 2016 by dolce

    指揮者は楽譜に書かれている拍子を正確に指揮していれば、演奏の責任は演奏者にあると思っていた頃があった。

    そこで、かなり難しい楽譜を拍子を間違えないことだけ注意して指揮をしていた。
    しかし思ったほど、演奏がうまくいかないので、どうしたもんかと思案にくれた。

    自分としては、自分がそんなに楽譜が読めていないのに、生徒に怠けているというような叱責をすることもあった。
    こういう言葉を吐いている時は、正直、やましい気持ちでいた。

    それは、どうみても生徒が怠けているとは思えなかったからだ。
    怠けているどころか、生徒たちはまじめで優秀だった。

    「恥ずかしいのは自分だ」

    という声が、もうひとりの自分から聞こえてくる。

    「子どもはいいぞ、ちゃんとやってくれるで(悪いのは先生の指揮だ)]

    となき恩師の声も聞こえて来るようだった。

    そういうわけで、人にやれやれとけしかけるのではなく、人前で恥ずかしくない練習をしていこうと決心した。

    こういう経過を経て気がついたのは、先生(指導者)が読めるほど生徒も読めるようになるのだと言うこと。
    そして、生徒の方もその曲が好きになる。

    改めて「子どもはいいぞ」と言った恩師の言葉が響いてきた。

    以上は演奏の話(音楽の話)だが、これは音楽に限らないのではと思うようになった。
    そう思って、いろいろな指導の場面を眺めてみると、よくないのは先生であって、子どもは悪くないというのが真実だと思うようになった。

    例えば、悪い授業の代表のように言われる一斉授業も、いい悪いは教師(先生)の問題である。

    小学校の国語に「物語を読む」という単元がある。
    この授業を行う時、時には生徒に読ませるということもあるが、先生がすべて朗読して一時間を終えても、先生の朗読次第で子どもの心には大きな影響を与える。

    最近は流行語のように「アクティブ・ラーニング」と叫ぶ人がいるのだが、外見的に子どもが活動している授業が「アクティブ・ラーニング」ではない。
    内面が活性化している授業でなければ、真の意味でのアクティブ・ラーニングにはならない。

    だから、朗読の仕方で、静かな授業でも子どもの心に活性化を与えている授業もある。
    ベテランと言われる先生は、そういうところに味が出ると思うのだが、マンネリズムに陥っている先生の朗読では、生徒に退屈、老化を感じさせるものにもなりかねない。


  2. ひとりの存在

    9月 27, 2016 by dolce

    スーパーへ行くと、たくさんリンゴが並んでいるけれど、一つとして同じリンゴはない。
    一山のリンゴの一つ一つはみな違うのだけれど、我々はそれらたくさんのリンゴを一つの言葉、すなわち「リンゴ」と呼ぶ。

    だから、いくら「ひとりも見捨てない」と言っても、リンゴ一山のように見ている限り「ひとりも見捨てない」はウソである。

    教員はいつも大勢の生徒を相手にしているせいか、つい、一山のリンゴのような見方をしていることが多い。
    大数学者ガウスは10歳の時、担任の先生に非凡さを見出され、後に歴史上に名を残す大数学者ガウスが誕生したのである、

    大勢の部員を抱える部活の指導者も「一人ひとり」をよく見ていなければならない。
    一人ひとりの個性を掌握し、それぞれが個性に合った伸び方をするようにしなければならない。
    それだけに、指導者の観察力は大切である。

    観察力は指導者の専門性が発揮されるところである。
    だから、観察を子どもに丸投げするなどは問題外であり、それは教師としての専門性を捨てているのと同じである。

    毎年学年が上がっていく生徒たちも、単なる集団(リンゴ一山)としか見ていないのであれば、一人ひとりの生徒は救われない。

    一人として同じ人間はいないのであるから、当然、活動状態も違うし、表面上はうまく行っているように見えても、メンバーの誰かが犠牲になってうまく行っているように見えているだけかも知れない。

    常に人は変数であるし、環境も流動的である。
    昨年うまく行ったとしても今年はわからない。

    教師(指導者)を長く続けていると、感覚がマヒし他人の心に鈍感になることがまずい。
    だから、教師(指導者)は毎年「初心忘るべからず」をモットーに挑戦しなければならない。

    個人個人は違うのだから、個人の段階まで一般化することはできない。


  3. 行動を具体化できないから所詮妄想から抜け出せない

    9月 26, 2016 by dolce

    成果と呼べるものは、実践して結果が良くなければならない。
    それには行動の形を描き、それを具体化にまで練ることが必要だ。

    構想を設計図にすること大変なことだが、設計図からどう具体化するかという職人が必要だ。
    さらに、職人はどういう技を駆使して実現までもって言っているかが肝である。

    「教師は実践者である」と行った時、教師は実践を通して描いたことを具現化する職人であると言える。

    例えば大工は木材をカンナがけして、美しい木肌を実現する。
    この時、大工はどのようなカンナの使い方をしているのかを知ることが大切である。

    しかし、その使い方を知っただけでは、目的は達せられない。

    まず「知ること」は大切で、その後知ったことを「具現する技を磨くこと」が大切である。

    ベテランを自負するなら、当然に「知っているはず」であり、ベテランが「さすが」と思われれるのは「具現化する技を」持っていなければならない。

    言葉にすると、難しくなってしまうが、騒がしい小学生を、特に何をするでもないのに静かにさせるというようなものである。

    結果は単純なことであるが、そこには深くかつ様々な技が込められている。

    私が教育ブログに求めたいのは「オレは先生だ。偉いんだ」という空いばりではなく、技を感じる実践である。

    妄想を語り、次第に煙の如く雲散するような話には反吐が出る。

    調理番組が、食材の選び方、何何を何グラム、何分間焼くと説明するように、レシピから具体的な調理を示すような文章を書いて欲しい。


  4. 原理を学ばないから応用がきかない

    9月 24, 2016 by dolce

    普通に使われているコンピューター(パソコン)は、プログラムが「人工頭脳」と呼ばれる。
    それに対して「人工知能」と呼ばれるものがある。

    プログラミング言語として、古くからPrologとかLISPと呼ばれるものがそれである。
    ここでは、それらのことについては深入りしないが、人工頭脳と人工知能の違いは、人工知能では推論ができることである。

    人工頭脳ではただ命令されたことを、教えられたように順番に実行していくだけだが、人工知能では教えられた知識をもとにして、新たな判断をする。

    なぜ、今こんなことを言うかといえば、人間が人工頭脳と変わりなくなってきたとつくづく感じるからである。

    ある会社に問いあわせをしたところ、受付がまるでロボットのようだった。

    私:「◯◯について疑問なところがあるので、回答がいただきたい」
    受付:「あいにく、私は受付の仕事が担当で、専門がいませんので専門に伝えます」
    私:「専門に伝えると先日も言ったけど、回答がないので再度聞いているのだけれど、あなたは専門に確実に伝えたのか?」
    受付:「はい、確実に伝えております」
    私:「確実に伝えたという裏づけはあるのかね?」
    受付:「はい、私が確実に伝えたと保証していますから確かです」
    私:「それじゃあ保証にならないんだよ。専門が私に返事をくれて、あなたが確実に伝えたとこちらは理解するんだよ。専門が私に伝えたかどうか確認してよ」
    受付:「当社のきまりとしては、私が専門に伝えることが仕事ですからそれ以上のことは、きまり上できません」

    と、こんな風である。

    もっとも、いわゆる一流企業と言われる会社ではこんなことはない。
    しかし「伝えろと言われたから、その後のサポートは任務外だからしない(会社のきまりですから)」という対応の会社は二流のイメージのする会社である。

    「お茶持ってきて」

    と言われたら、お茶の葉だけ持ってくるようなものである。

    「君、お茶の葉だけ持って来てどうするんだよ」

    「課長は『お茶』とだけ言われたでしょう?」

    課長:「・・・・・・・」

    こんな人材でも「君、学校卒業したの?」と聞けば、得意そうに「はい、大学を卒業しています」と何のためらいもなく答える。

    これじゃあ、人間の仕事がロボットに代わるというのも納得した次第である。

    調理の番組は多いが、ただ順序を機械的に説明するだけでなく「ここでは、煮崩れしないように、後から鍋に入れます・・・」など「なぜそうするのか?」という説明をする。
    この「なぜ」を勉強するので、応用がきくのである。

    パソコンも、いつからか目的を達するための操作だけを覚えるだけだから、環境が変わるとお手上げになってしまう。
    本体より周辺機器の電源を入れる。なぜいきなり電源を切ってはいけないかなど「ただそう言われたから」そうしているという覚え方が多い。


  5. パソコンは慣れで上達するものではない

    9月 24, 2016 by dolce

    キーボードのタイプなどは慣れで上達するだろう。
    つまり「操作」慣れによって上達すると言える。

    しかし、ここで言う「パソコンの上達」とはそういう意味ではない。
    パソコンを使いこなすということは、理科や数学を学んでいくようなところがあり、パソコンはハード(ウエア)とソフト(ウエア)の2つに分けられるのだが、この両者をバランスよく学んでいく必要がある。

    現在はWindowsというOSが主流だが、Windowsが一体何をやっているのか?
    CPUは何をやっているのか?
    WindowsとCPUの関係はどうなっているのかが理解できていなければ、ただパソコンをいじっているだけに過ぎず。

    長年いじっているだけでパソコンに強くなった(強い)と勘違いすることになる。

    プログラミング教育は、指導者である先生はこのことを理解している必要がある。

    そのうち、プログラミングが教育課程に取り入れられると言うが、文部科学省がGO(ゴー)サインを出したところで、指導する教員が不足するという事態が予想される。

    例によって文部科学省の「にわか講習」で進めることになるかも知れない。

    昔、DOSを扱ったことがあると自慢してみても、一体DOSはどんな役目をしていたのかがわかっていないのであれば、それは「いじっていた」というだけであって。子どもを指導するレベルにはない。

    とかく、子どもはパソコンに強いと言う人がいるが、何を根拠にそういうのか?
    子どもは新しもの好きで、大胆にいじりまわすので、それを見て子どもは覚えが早い。パソコンに強いと思っているだけではないのか?


  6. 長靴で批判された政務官の気持ちを察する

    9月 21, 2016 by dolce

    台風10号で被災した岩手県の視察に訪れた際に、現場の水たまりを職員におんぶされて渡ったことを明らかにした。松本純防災担当相が2日に口頭で注意し、菅長官も緊張感を持って引き続き職務に当たるよう指示した。
    菅氏は「政府調査団の団長だから被災地に長靴を用意していくのは当然だ。被災地や被災者の心情への配慮に欠けた行為だった」と指摘した。

    それぞれの立場として、政務官を叱責をしたのは理解できるのだけれど、このニュースを聞いて寂しいものを感じた。

    もちろん、政務官の立場を私は擁護するものではないが、おつきの者で誰も配慮するものがいなかったのだろうかと思ったのである。
    もし側近として私がいたなら、直ちに自分の長靴を脱いで「政務官どうぞ」と差し出したと思う。

    少なくとも私は親からそういう教育を受けて育った。
    断っておくが、上司が長靴に困ったら自分のを差し出せなんてことを直接教わったことはない。

    そうやって点数を稼ぐと教わったわけでもない。
    いい悪いを云々する前に「他人の立場を感じて、どうすべきか瞬時に行動に移す」ということを以心伝心で教わったのだ。

    このニュースで「最近はこういう世の中なんだ」と思った。

    忠臣蔵の松の廊下での刃傷事件は吉良による嫌がらせを原因として描かれ、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が服装で恥をかかされたと伝わっている。
    その時、自分の殿がもしも恥をかくといけないと、密かに装束を(服装)を用意してきた者がいた。
    浅野は家来の配慮に感激する場面がある。

    私はこれを思い出した。

    このような心が失われている現代を寂しく感じる。

    そういえば、側近は何をやっているんだろう。上司が失脚するのを待っているんだろうか?とさえ思ってしまう。
    舛添氏にしても、天ぷら代ぐらいで評判が落ちないように配慮する部下はいなかったのか?

    とにかく、他人の立場を考えて行動しない世の中を感じる。


  7. 放送大学へ行こう

    9月 17, 2016 by dolce

    最近は大学へ進学しても学費に苦労している学生が多いらしい。親の仕送りも少なくなって、足りない分はアルhuman_abcバイトをするのだが、それも二つ三つと掛け持ちをしている者もいて、肝心な勉強に差し支えている。
    さらに、奨学金をもらっている場合は卒業後数百万円ものお金を返していかねばならない。

    最近の学生事情は悲惨である。
    大学はタダという国もあるのに、経済大国と言われる日本が恥ずかしい。

    いったい、国は何をやっているんだと腹が立ってくる。
    一方ではオリンピックの資金に、だれやらの一声で一千億、二千億と簡単に予算が増えてしまう。
    そんなオリンピックならやめて、学生に金を出してやったらと、真剣に思う。

    しかし、そう力んでいても解決にならない。
    そこで、私の提案は放送大学へ行こうというものだ。

    実際、私自身、放送大学の扉をたたいてみた。
    一応、大学は卒業したので、大学院の課程を勉強することにした。

    私の第一の目的は高校に指導に行ったとき「先生の言うことは何でも正しいんですか?」と言われたことが、胸に突き刺さっていたこともある。

    そうなのだ。先生と呼ばれても「なんでも先生であるはずがない」のだ。
    私はクラリネットという楽器を演奏するのだが、あるコンクールで奏法にについて全く間違った説明をしていた審査員がいた。
    「よく、あんな間違いを子どもに堂々と言えるものだ」と思い、腹が立ってきた。

    間違いを教える先生なら教わらない方がいい。
    間違いを教えて給料をもらっているのは、とんでもないことだ。

    放送大学(大学院)は、その名の通りテレビ(BS放送)、ラジオ、インターネットを通じて行われる。
    最近はスマホで受講できる科目もある。
    この場合は電車の中でも受講できる。
    もっとも、最近では電車の中でスマホを見ていると、ゲームをやっていると思われるかも知れない。

    開講にあたっては、入学式(のような)が行われるが、10人ぐらいの教授が招かれる。
    この教授の話が素晴らしかった。
    さすが専門と感じたし、話の中身が素晴らしい。
    放送大学の教授はレベルが高い。

    下手な大学へ行くより中身が濃い。
    放送で授業を行うということもあって、授業時間は1分の誤差もない。

    教科書が送られてくると、試験日までの途中にレポート提出の課題がある。
    その課題を出して、合格のレベルにないと試験が受けられない。

    試験は「学習センター」というところで行われる。
    私のもよりの学習センターは某私立大学と建物がひとつづきになっていた。建物はたいそう立派で食堂などは大学といっしょだ。

    私のような年配者が歩いていくと、現役の学生たちは教授と思ったかも知れない。

    学費は普通の大学と比べたらぐんと安いし、決められた課題をこなし、試験に受かれば単位が取得できて、卒業すれば普通の大学となんら変わりない。
    時間に余裕があるので、アルバイトをしながらとか会社に勤めながらでもできる。
    会社員の中には、仕事そのものと大学(院)の勉強が同じだが、専門性を高めるために勉強している人もいる。

    同好会というかクラブ活動のようなものもあって、孤独ということはない。

    試験日に気がついたのだが、臨床検査士の単位をとっている人が多いように感じた。
    女性が多く、どうも現役の看護士が多いように感じた。

    臨床検査士は単位取得後国家試験に合格しなければならないが、放送大学出身者の合格率は80%と高いのが印象的だった。

    私が受講したのは、情報学という分野で、その一端を紹介すると、右上の図に示すように、人の脳は三つの部分に区分できるとあった。
    コンピューターと比較すると、人として(生物)として共通の、コンピューターではCPUに相当する部分。
    その上に、CD-Rのようにライトワンスという一度書き込んだら訂正できない部分。さらにその上に書き込んでも訂正可能なRAMの部分があるということ。

    人を大きくこのようにとらえると、いろいろ理解しやすい面がある。
    CD-Rの部分は生まれた幼児から親の保護下にある部分だろう。
    注意すべきは、一度書き込んだら訂正できないということだ。
    幼児教育は大切だというこたがわかる。


  8. 平気でうそをつく人たち

    9月 15, 2016 by dolce

    文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)%e5%b9%b3%e6%b0%97%e3%81%a7%e3%81%86%e3%81%9d%e3%82%92%e3%81%a4%e3%81%8f%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1

    知人に「今日はNHK交響楽団の下棒(したぼう)をやってきてね・・・」と臆面もなく言うやつがいる。
    下棒とは一般には馴染みのない言葉かも知れない。
    正式な指揮者に頼まれて「ちょっと代わりに指揮をしといてくれ」と言われる役目のような人だ。
    その人がコンサートで指揮をすることはない。

    とは言っても、指揮のイロハがわかっていない人が頼まれることはない。
    まして、NHK交響楽団は日本を代表するオーケストラであり、音大を卒業した者が、いつかはと入団を願っているオーケストラである。

    下棒と言っても、NHK交響楽団の指揮を頼まれるとなれば、プロの音楽家から尊敬される。
    また、そんな機会があれば、才能を認められ本当にプロの指揮者へデビューということもあるだろう。

    私は一応音楽に携わっている、大したことのない人間だが、指揮をしている人間が本当に指揮をしているのか(指揮になっているか)ぐらいはわかる。

    なのだが、面前で堂々と「NHK交響楽団の下棒(したぼう)をやってきてね」と言われた時は、自分は相当舐められていると感じた。

    クラシック音楽はフアンが少ないせいか、基本的な知識に疎い人は多いと感じるが、それをいいことに、彼のようにハッタリをかませる人もいる。
    彼もそういう人種の一人と言えるだろう。
    そんなハッタリが聞こえてくると、聞いた私自身が恥ずかしくなるが、あえて褒めるとしたら恥も感ぜず、堂々と言える彼の態度だ。

    音楽に限らず、真の実力がない人は「言葉の威力」に頼って「どうだオレは凄いだろう」と暗にほのめかす。
    東大を出ていない人が機会あるごとに(自分は)東大出と暗示させたいようなものだ。

    いかにも法律に精通しているかのように話す人も同類。
    「法律」の言葉のウラに「オレは法律を知っているという言葉の威力に頼っている」のが見え見え。
    「虎の威をかる狐」にどこか似た雰囲気を感じる。

    本当に法律を出して、法律の価値で人を説得したいなら、法律の知識は嫌味なく、しかも「知っている」というハッタリでなく、実例で具体的に出すべきである。

    例えば

    「あのう、僕、高級自転車を盗まれてしまって・・・ところが、某所でその自転車を発見したんだ。それで取り返しに行こうと思う」

    と相談をを受けた時、本当に法律の知識があるなら

    「それはやめとけ」

    と言うだろう。

    「どうして?自分のものだからいいだろう?」

    と言われたら

    「いや、いくら盗んだと言っても、盗んだ人には『占有権』という権利があるんだ。だから自分のものでも勝手に取り返せない」

    そんなバカなと言われたら、その法律の趣旨を説明する。

    「勝手に取り返そうととすると、治安が乱れる可能性がある。国家は国民をの安全を守り、治安を守るという責任があるから、盗まれたものでも国家の機関、つまり警察に依頼して解決しなさいと言っているのだ」

    と説明すべきなのだ。

    このように、具体的に説明べきであり、ただ「法律」を知っているかのようにほのめかすのは、かえって自分の未知を晒すことになる。

    そう言えば、子どもはそういう知ったかぶりで偉さを誇示することがある。
    しかし、順調に大人への脱皮をしていくと、それは恥ずかしいという気持ちが芽生えてきて、そういうことはしなくなる。

    20才を過ぎても、その精神から抜け出せないのは、まだ大人とは言えず、幼さが残っていると言えよう。


  9. 情報難民とは?(2)

    9月 13, 2016 by dolce

    さて、情報難民とはどういう人を言うのだろう?
    デジタル時代と言われる今日において、主にデジタル技術やデジタル通信による情報に疎い人たちを指して言うのだろうか?
    学歴の高い人たちはどうだろうか?

    学歴が高いと言えば、大学、大学院の人たちか?

    情報難民とは?(1)では証券会社の投資信託について触れた。
    そして、よく世間知らずと言われれる教員(先生)が騙されやすいことを紹介した。

    世間知らずと言われるのは「自分は世間をよく知っている」と思っているからだ。
    つまり、謙虚さに欠けるわけで、それは、一般社会人からよく言われるのだが、若い時から「先生、先生」と呼ばれる続けることにあるという。
    すべての先生がそうだと言うわけではないが、そういう傾向にある。そうなりやすいと言うことである。

    特に上から目線で話すことが身についている人は、中身までそうなって、人を見下すことが普通になってしまう。
    見下すことが常態化すれば、上を見ることがなくなるから、自分が一番上という意識が身についてしまう。

    この傾向の最たるものは大学の先生である。
    大学は学問の最先端を研究するところである。
    研究室や研究費が与えられている。
    それらの資源を有効に活用し、真に最先端の研究をしていればよいが、常識を疑うような変なことを言っている研究室の先生の中には、精神科の病院へ行った方がよいと思われる人がいる。

    理数系の研究者は、数学という関所があるので、とんでもない考えを発表するという恐れは少ないが、教育学のように自分勝手な発言をしても、誰も誤りを訂正してくれる人がいない環境では、変な方向に行きやすい。
    大学が不思議なところと思うのは、教授がキチガイじみた誤った論を語っても、おとなしく講義を聞いている学生は単位がもらえることである。

    大学の先生は自分が最先端の研究をしているという自負が必要であり、それを保証するための検証を行っていることが必要である。

    しかし、週刊誌に載っているような記事が、自分の知識のよりどころであるのは、大学の先生としては情けない。
    特に、最近では経済面の記事で有名なG誌の内容が、しばしば怪しい。

    これは、取材する記者の質が下がっているからではないかと思う。
    明らかにおかしいと思われる数字が載っていることもある。

    大学の先生は、こうした内容のおかしさを指摘し、社会に示さなければならない。

    大学の先生が「さすが」と思われる最先端の記事を書けなければ、研究室も研究費も税金の無駄遣いである。

    かくして、最高学府の劣化は大学の情報難民化を加速化している。

     

     


  10. 情報難民とは?(1)

    9月 12, 2016 by dolce

    教員退職者のところへは、証券会社からセールスマン(salesman)がよくやってくる。どこからか情報を仕入れてくるのだろう。
    ねらいは退職金である。
    すすめる商品は決まって投資信託である。
    商品名は投資信託とは書いてない。なんとかゴロのいい名前をつける。

    投資信託を勧められると、(元)教員はまず、その利率の高さに惹かれる。
    例えば、元本の6倍になるという表示。

    しかし、これは必ずそうなるというものではない。
    パンプレットには「必ずそうなるというものではなく、一例です」などと注意書きがしてある。
    それでも、退職校長は、そう思いたいのだろう、そう信じてしまう。

    契約すると、毎月利益を配当金として還元するという約束で、1千万円も預けると毎月30万〜50万という金額が振り込まれてくる。
    私はファイナンシャルプランナー(FP)の資格を持っており、資格取得にあたって覚えた知識から判定すると「ありえない」という結論を下す。
    だから、やめた方がいいという意見を言うが、契約すると、実際にそのぐらいの金額が振り込まれてくるので、退職校長の方は自慢そうに「どうだ(オレの判断は正しかっただろう)」と言う。

    (元)校長に多いのだが「オレは社会のことはよく知っている」という自慢気な態度を取る。
    やがて、何年か経つと元校長殿の顔色がよくない。

    聞くと、何百万円も損をしたという。
    元校長殿はセールスマンに苦情や嫌味を言う。
    それでも、投資信託はもともと元本保証ではないので文句は言えないのである。

    証券会社の事情から言えば、客からは嫌味を言われるが、全く損はしていない。
    それは、商品を売った時点で、決まった額の手数料をもらっているからだ。
    しかも、その手数料はかなり美味しい額である。
    セールスマンにとっても、収入は増える。

    だから売りたくてしょうがないのだ。
    しかし、近年金融商品の販売には強い規制があり、金融庁の監視も強いので販売時に「必ず儲かります」などの言葉は厳禁である。

    ある証券会社から、別の金融機関に転職した金融マンと話をする機会があった。

    「あんたたち、必ず儲かると言って勧めているだろう?(違反を承知で)」

    金融マンの回答。

    「必ず儲かる『と思います』」

    と話の終わりに「と思います」をつけ加えるのだそうだ。
    (毎月、多額の配当金は預かった金から払っているだけだと言う)

    いずれにしても、客の方は気分が悪いに違いない。
    そのうち、お得意様の家には行きにくくなり、気まずい関係になり転勤するか、転職することになる。

    大手証券会社から投資信託を買って、儲かったという学校の先生の話を私は聞いたことがない。

    証券会社が先生のお宅に訪問するのは、退職金目当てと、世間なれしていない(世間知らず)の先生は「落としやすい」との定評があるからだ。

    教員は金融商品に対する情報難民と言える。