RSS Feed

8月, 2016

  1. 想像で語るのではなく実践してみよう

    8月 31, 2016 by dolce

    昔は日曜プログラマーと言われる人が多かった。
    最近はめっきり少なくなったようだ。

    パソコンの黎明期はBASICという言語が活躍した。
    なるべく多くの人にプログラミングを体験してもらおうとの目的で、開発されたこの言語は傑作だったと思う。

    普通、プログラミングと言えば、変数の宣言があったり、文字なのか数なのか区別する約束事などがあって、入門そのものが難しかった。
    それで初心者にもなるべく抵抗のないプログラミング言語として、BASIC(beginner’s all-purpose symbolic instruction code)「初心者向け汎用記号命令コード」という意味で作られた。

    初心者向けとはいえ、かなりのことができた。

    文部科学省は教育にプログラミングを導入すると言っている。

    どんな中身になるかわからないが、導入の仕方さえ間違えなければ、思考力を高めるものに間違いないと思う。

    こういうことにはすぐ抵抗を示す保守的な人もいるようだが、食べてもいないものの味(あじ)を評価せず。
    まずは味わってから、意見を言ってほしいと思う。

    Microsoftはそういう期待に応えてかどうかはわからないが、Microsoft Small Basic 1.0なるもの提供を始めたので、これを使って体験するのがいいだろうと思う。

    窓の杜からもダウンロードできる。

    mssbasic


  2. アリストテレス

    8月 30, 2016 by dolce

    アリストテレスを「アリス」と「テレス」と思った人がいる。
    逆に、近頃、流行語のようになっている「アクティブ・ラーニング」は「アクティブ」な「ラーニング」という意味なのだが、これを「アクティブラーニング」という学習法だと思っている人がいるようだ。
    教育について語る時、言葉だけが先行して中身がない話が多いような気がする。

    アクティブ・ラーニングは、教師が一方的に話すだけで、生徒はひたすら「聞くだけ」という受け身の姿勢の授業を批判して、発せられるようになったものである。

    アクティブ・ラーニングの講習会というのがあって、参加した受講生が終始話を聞くだけのものであったら、笑い話である。

    最近は下火になった「ゆとり」の話も、学校の日課が窮屈でゆとりがないという理由で、

    ■ことばの発明ごっこはやめましょう

    私は何を語るにも、なるべく平易な言葉を用いるようにしている。
    しかし、こうした私とは逆を行くような人もいる。

    そういう人に会うと、とても嫌味な感じがする。

    毎年、研究発表が義務付けられていた学校に勤めていた先輩に、この「言葉の発明ごっこ」の話をしたら
    「そりゃあ、毎年言葉を発明することこそ、研究発表の本質だぞ」
    みたいなことを言われた。

    新しい言葉を作り、中身をぼかし、内容をあえてわかりにくくし、それでいて「キミ、知らないの?(遅れているね)」が教員の世界か?

    「キミ、知らないの?」

    と言われたくないから、質問をしないで知ったかぶりをする?

    嫌な世界だ。

    教育関係のネットの掲示板で、とにかくわからない言葉が多かったので、質問したら、ついに「質問しちゃあいかん」と言われた。
    「攻撃する」とも言われた。


  3. お前なんかに言われたくないよ

    8月 28, 2016 by dolce

    生徒にこう思われている指導者は情けないですね。
    面と向かって言われることはないにしても、そのような気配を感じないような鈍感な指導者もいただけない。

    一斉指導で生徒を全員把握することは不可能、だから一斉指導では見捨てられる生徒がいる、と考える指導者(先生?)も指導する資格がないと思います。
    それは、オーケストラで全てを把握できない指揮者のようなものです。

    中学生のころだったか「百科事典」というあだ名のついている生徒がいました。
    どんな話題にも「知ってる、知ってる」と言って口を出してくる。
    そうかと言って、話には中身がない。
    そういう彼は、今流の言葉で言えば「ウザイ奴」なのです。

    「三つ子の魂百まで」

    と言うように、このような性格はいい年をしても直らないようです。

    こういう他人の態度を見ているだけでも、恥ずかしい感じがするので、私は、頼まれもせず指導に出かけるということはしません。


  4. 今は軽薄短小の世の中か?

    8月 27, 2016 by dolce

    tk-85軽薄短小とは「物について軽くて薄く、短く小さいさま。また、内容などが薄っぺらで中身のないさま。」という意味である。
    パソコンの黎明期は、パソコンを動かそうにもプログラムそのものがなかったので、自分で作るしかなかった。
    それでは如何にして作ったのか?
    今、巷に出回っている(プログラム)言語というものはなかった。

    写真はNECが1980年に発売したマイコントレーニングキット、TK-85である。
    もっとも、その4年前にNECはTK-80を発売していた。

    それ以前はこういうボードをキットとしていろいろなメーカーが発売していた。
    電気工作の好きな人たちはそのキットをを組み立てていた。
    ところが、間もなく雑誌の「売ります」欄にこのキットが数多く掲載されるようになった。
    それは、ラジオなどのキットは完成が到着点だったが、コンピューターはハードウエアが完成しただけでは何もできないからだ。

    TK-85は右下の16進数キーボードからプログラミの入力をする。
    だから、10進→2進→16進の変換は必須なのだ。

    たいていの人は10進数に慣れすぎててしまっているので、2進数に抵抗を持たないように、近年教科書にも2進数の項がある。
    コンピューター時代の今日では、2進数に慣れる必要がある(2進数を基本とした数値を用いられることが多くなった)。

    2進数の世界は、子どもには抵抗が大きいか?
    そんなことはない。周りの大人が2進数に抵抗を持つので、子どもがそのように育ってしまうのだ。

    論理回路1

    上の図はごく簡単な電気回路の例4つ。
    1〜2個のスイッチと電池、電球、各1個で電球を点灯する回路で、小学校の理科の時間で学ぶ程度の回路である。

    小学校をなめてはいけない。
    この程度の回路をしっかり理解しないで、授業をするから、子どもは理解できなくなってしまうし、理科嫌いもできてしまう。

    ANDは2つのスイッチがONでランプ点灯。
    ORは2つのスイッチのいずれかONで点灯。
    NOTはスイッチONでランプが消灯。

    これぐらいの回路なら小学校の理科で体験できる実験である。
    簡単な回路であるが、これはコンピュータの基礎である。

    これを学樹的に高めると論理回路になる。

    論理回路

    これはブール代数の分野である。

    コンピューターを根本的に理解するには、この辺りの数学を学ぶ必要がある。
    コンピューターは電気回路のON、OFだけで動く世界である。
    それは数字に置き換えれば、1と0の2進数で考えることである。

    プログラミング言語を学ぶことがコンピューターを学ぶことではない。
    プログラミング言語でタイプすることは、単にワープロを操作していることと変わりない。

    DOSの時代がコンピュータの操作の何に相当するのかを理解していなければ、ある操作をして何らかの反応を確認しているだけである。
    昨今のアルバイトは、中では何が起こっているわからなくても、教えられたとおりスイッチやハンドルを操作すればマクドナルドのようなファストフードが機械から出てきて、それで仕事ができたことになっている。

    そのように、実は何をやっているかわからないが「言われたとおりにやれば結果が出る」を教えるために、教育にプログラミングを取り入れようとしているのではないと思う。


  5. 生半可な知識は「井の中の蛙」を証明するようなものである

    8月 25, 2016 by dolce

    Windowsの前にはMS-DOSがあった。
    MS-DOSの前は?
    CP/M
    その前はオペレーティングシステム(OS)はなかった。

    でもこれはパソコンの世界に限ってのことである。
    その頃は、汎用コンピューターの世界ではUNIXというOSが席巻していた。

    この頃はIBM社が独占している時代であった。
    もちろん汎用コンピューター(大型コンピューター)でUNIXが動いていた時代である。

    ところが、パソコン(マイクロコンピューター)の進歩が無視できなくなったIBMは自社でパソコンを作ることにした。
    そうして作られたのがIBM-PCである。

    IBM社はこのIBM-PCの技術を公開したため、他の陸の孤島状態であったメーカーもIBM-PCを原型とするコンピューターを作るようになった。
    これが、現在広く普及しているDOS/Vと呼ばれるパソコンである。

    IBMのおかげで死にそうだった弱小コンピューターメーカーは息を吹き返した。
    IBMさまさまである。

    ところで、その頃のプログラミング言語は何だろう?
    専らアセンブラであった。
    いや、アセンブラの前には16進数で入力する機械語があった。

    コンピューターのなにがしを語るには、少なくともここまでは遡って知識を持っている必要がある。
    そうでないと、何か外れたことを言って、井の中の蛙状態を晒して恥をかくことになるだろう。

    ロボット競技会で競争するには、16進数でプログラミングができるところまで、勉強する必要がある。
    そうすると、初期段階では10進数→2進数→16進数の変換が「頭」でできなければならない。
    これだけで、かなりの勉強になるだろう。

    コンピューターを語る教師はもちろん、これらのことは「暗算状態」でできなければ、生徒に質問された時立ち往生することもあるだろう。


  6. なぜ教育現場へのICT化は進まないのか

    8月 24, 2016 by dolce

    第一の理由は、現場の教師からの提案で普及させようとしたものではないからである。
    第二の理由は、ICT機器を使う人間がICT機器の特徴を認識していないことにある。
    第三の理由は、ICT機器を使う人間が、ICT機器のメリットを感じていないことにある。

    最近はアクティブラーニングなる言葉が流行になっている割には、教師の方がICT機器活用に関してアクティブではない。
    上からのお仕着せで導入されてきたものだからである。
    使えと言われるから、仕方なく使うという態度で、特徴を知って使うという姿勢がない。

    使えというから使うという姿勢だから、特にICT機器を使う必要のない場面でも使おうとする。
    だから、こうした人たちにとってはICT化はかえってストレスになる。

    企業ではICT化が盛んである。
    それはICT化が企業の収益化と直結するからである。

    しかし、学校の教師の場合、ICT化で収入が増えるわけではない。
    かえってストレスが増えたり、仕事が増えてしまったりする。

    教師は児童生徒に、勉強をするという範を示すことがよいのだが、どういうわけか勉強好きの教師は少ないような気がする。
    だから、新しいものに好奇心を感じて勉強するという姿勢に乏しい。
    ICT化は教師にとって「やらされる」仕事である。

    余計な仕事、余計な勉強はやりたくない。効率化なんてどうでもよい。疲れるだけだと思っている教師は、ICTのデメリットを熱心に探し、盛んに吹聴する。
    その姿は、ランプから電球に変わる時代の流れに危機感を感じて「電気なんか使うと、山からたぬきが電線を伝ってきて、田畑を荒らすぞ」と言って歩いた、おじいさんのランプの巳之助みたいである。

    それでも、場合によっては教師もICT機器活用に随分アクティブになることもある。
    本日のニュースで、某高校では期末試験の監督中に、50代の教師がスマホでアダルトビデオを視聴していて、音声を止めることを忘れたためにかなりの音量で音声が流れたということだった。
    かくも熱心にICT機器を使う意欲があるのに、学習指導ではそれほどの意欲は湧かないらしい。

    教師へのICT教育の指導教材は、アダルトビデオがいいかも知れない。


  7. アルゴリズムってどういう意味ですか?

    8月 23, 2016 by dolce

    コンピュータの初歩的な段階でのプログラムに「大きい(小さい)順に並べよ」というのがある。

    今、具体的な数字の並びが目の前にあって、それを大きな(小さな)順に並べよというのなら、かなり低年齢の子どもでもできる。
    例えば、

    7,2,6,8,3

    と5つの数字があった場合、

    8,7,6,3,2

    と直ちに並べられるだろう。

    ところが、この5つの数字の代わりに

    A、B、C、D、E

    と名前を書いた箱を用意し、この箱の中に如何なる数字が入ったとしても、大きな順に並べよとすると、この回答は途端に難しくなる。

    パソコンの黎明期に、プログラミングから始めた人ならみな、この課題を克服してきたこととと思う。

    そして、この課題を克服するために、いろいろな方法があることを知ってきた。

    この、課題を克服するための方法のことをアルゴリズムと呼んだ

    通常、アルゴリズムの日本語訳は「問題解決法」となっている。

    それまで「大きな順に並べよ」なんて課題を特別考えたことのない生活に、この何でもない課題がとても大切な「思考回路」を含んでいることに、我々は気がつくようになった。

    「何だかわからないけど、答えが出ればいいじゃない?」
    から
    「人間は如何なる頭の働きで答えを出しているのだろう?」
    がとても大切なことだと気がつくようになった。

    これが、プログラミングが教育に役立つと考え、教育に取り入れようとイギリス(?)から始まった経緯である。

    プログラミング教育はプログラミング言語として、何を用いるかが本質ではない。
    プログラミングの教育言語として、有名なものにPascalがあるが、Pascalを学ぶことがプログラミングを学ぶ本質ではない。

    本質論から言えば、コンピューターを動かすのはビット操作である。
    ビット操作がコンピューターに最も近位置にあり、アセンブラ、C言語、BASiCという順に人間が理解しやすい言語の順になり、人間に理解しやすい言語を「高級言語」と言っている。

    いずれにせよ、プログラミングの学習が教育に有効との考えは、興味本位や流行のような安易な考えで提案されたものではない。
    その本質を理解するには、自身もビット操作から学んでみるべきだろう。


  8. 師弟の関係継続中

    8月 22, 2016 by dolce

    同窓会は形式的なものだ。
    師弟関係も形式的なものだ。

    形式的なものを根拠にして集まったりする。
    しかし、それらが本質的にどういう関係かは、実際に集まった空気でなければわからない。

    吹奏楽部の同窓会では(元)生徒が心から(元)先生を、先生と慕って来ているのか、実際に集まって見ないとわからない。

    同窓会に呼ばれた先生は先生と呼ばれるのだが、先生の心理はどうだろう?

    元生徒たちが在学中は形式的に先生は先生なのだが、もう卒業してしまってからは、みな同等の社会人である。

    ところが、いつまでも先生であり続ける元先生もいる、
    私はそれが嫌だから、先生という意識を排除して接する。

    みな同じ音楽仲間なのである。

    「先生は今、どこかで指導してみえるのですか?」

    と言う質問があった。
    その質問の意図は、どういうきっかけでその指導をすることになったのか、と言うことであった。

    どうも先生の中には、自ら指導に押しかけて行く人もいるようだ。
    私は呼ばれもせずに自分から押しかけて行くことは嫌いである。

    それは、相手が先生と思ってもくれないのに、自分が先生面するのは嫌だからである。

    同窓会をきっかけとして、音楽の話をしていると、まだ先生と思ってくれているのかどうかはよくわかる。


  9. 牙のないライオンが好きですか?

    8月 21, 2016 by dolce

    とかく学校というところは外形を気にするところです。
    なぜ外形を気にするのでしょう?
    それは誰のためなのでしょう?

    子どものため?
    ウソです。
    先生自身の評価のためではないですか?

    「おたくの生徒は立派ですね」と言ってもらいたい。
    違いますか?

    もし、心から生徒のためと思っているなら、生徒自身が心の底から湧き出てくるような態度にすべきではないですか?
    外形だけ取り繕うとすると、それは「取り繕う教育」になってしまいます。
    見えるとことだけ格好をつければよいと、生徒は理解してしまいます。

    —————————————————————————————————————————–

    入学早々から目立つ生徒がいました。
    体育館で全校が並んでも目立っていました。
    いわゆる「突っ張った」というやつです。

    先生方は不安を感じていました。

    案の定、タバコを吸ったり、近づいてみると学生服の中にネックレスが見えました。
    その彼は私の吹奏楽部に入ってきました。
    彼はつりが好きで、時々練習をサボってつりに行っていました。

    私はその現場まで行って、一度だけ殴ったことがあります。
    そんな彼でも私は気に入っているところがありました。

    トランペットを吹かせると、堂々と音を出すところ。
    普通はなかなか難しいハイトーンまで、苦労なく出すところ。

    そんな彼が3年生になった時、私は、あまり勉強もしない彼を、私立の有名校に売りこもうと考えていました。
    いわゆる、私立の吹奏楽の名門と言われる高校は優秀な生徒を欲しがっています。

    高校野球の優勝校の生徒が、必ずしもスカウトされるのではないように、吹奏楽も金賞受賞校の生徒を高校が欲しがるわけではありません。
    私の勤めていた中学校では、毎年数校から引き合いがありました。
    中学校から生徒を推薦すると、高校から面接(テスト)をしてくれて、気に入られると特待生として受け入れてもらえます。

    私は彼の担任に話をして、彼を◯◯高校に推薦したいと話しました。
    担任は大変喜んで、是非と言ってくれました。

    そのことを聞いた彼は、すぐさま私のところにやってきて「何か直すところはないですか・・・」などと言いました。
    「そうだな、まずその髪の毛、何とかならんか」と言うと「ハイ」と元気な返事をして、翌日には普通の生徒と変わらない髪型をしてきました。

    それ以後、彼はどの先生に対してもはっきり挨拶をし、振る舞いも明るくなりました。

    不良っぽく見えた彼も彼なりに悩みを持ち、コンプレックスのため、強そうにしていたのだと思います。


  10. 部活同窓会

    8月 20, 2016 by dolce

    集まった同窓生は50歳代を中心とした元中学生たち。
    「先生、みんなの顔がわかりますか?」
    と言われたのだが、それがかなりわかったので「よく覚えていますね」との声が返ってきた。

    授業や部活の場面も思い出されるので、それがもとで話がはずんで、一人が
    「先生、もう終電がありません」
    と言った。
    時計を見ると、確かに「えっつ、もうこんな時間か」になっていた。

    彼らは夜の9時まで練習をした者たちだった。

    そのことが大変だったという者はいなかったというより、生活が充実したという意見だった。
    彼らにしたら、突如変わった先生がやってきて、次々と新鮮な言葉を聞いて、ますます好奇心を刺激されたという感じだった。

    そうなのだ、先生というのは今まで知らない世界に引っ張って行く役目があるのだと思った。

    「勉強はどうだったと聞くと」
    「だって、吹奏楽部の子って、みんな頭がよかったもんね」

    との反応。

    つまり、みんなが勉強のことなんか特別問題にせず、練習に熱心だったので、そんな空気の中で塾とか家庭教師などと言うのは恥ずかしいということだったのだろう。

    終電もなくなったので、かなり遠方の自宅まで生徒が送ってくれた。