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6月, 2016

  1. 舛添氏の教訓(2)

    6月 30, 2016 by dolce

    舛添氏の問題で、はっきりしたことがあった。
    普通、政治家が問題視されると、法的に抵触するかどうかが調べられる。
    それで、時には検察から訴えられる場合がある。
    ところが、今回の舛添氏の場合は検察から訴えられてはいない。

    舛添氏は今回の場合、税金の私的流用という疑いがかかった。
    こういう場合、どここかで不適当な税金の使途が問題となって、やがて逮捕に至ると思った人もいるだろう。

    ところが、さすが東大を卒業した人は頭がいい。そこは法律違反とならないようにすり抜けていた感がある。
    ところが、世論の怒りを買ったのは、罪を犯したかどうかではなかった。

    記者が、一般の中年女性にこのことについて尋ねると、女性は
    「私はもっと知性と教養のある知事さんがいいわ」
    と言っていた。(東大を卒業しても一般市民からこう言われるてしまうのには笑えた。)

    これは、舛添氏はなぜ嫌われたのかを象徴的に表していたと思う。
    つまり、悪いことをしないから嫌われないのではない。

    それは「せこい」という言葉でも表されている。

    舛添氏のこれら一連のできごとは、教師にも教訓になる。
    教師である以上、児童や生徒に嫌われないほうがよい。
    だからと言って、表立った人気取りをせよというのではないが、間違ったことをしていなくても教師は嫌われるのだ。
    それは、一つは「せこい」は嫌われるだろうということ。

    毎日の生活で人は自分のペースで好きに振る舞うが、その自分の好きな振る舞いが、自分独特の「におい」を身につけるようになる。
    そして、それが「臭い」だったら嫌われるし「匂い」だったら好かれる。

    問題は自分では自分の「におい」はわからないことだ。

    臭いは「くさい」とも読むように、「ゴミの臭い」「下水の臭い」など、不快なものが対象。
    「犯罪の臭いがする」など、いかにもそれらしい感じ、好ましくない雰囲気を感じるといった意味でも用いる。

    匂いは、「花の匂い」「香水の匂い」など、好ましいものが対象。
    臭いと同じく、いかにもそれらしいという意味で使うが、好ましく感じられるもの、趣があるものに対して用いる。(違いがわかる事典より)


  2. 付加価値をつける

    6月 28, 2016 by dolce

    付加価値と言えば、商品についてよく用いられる言葉だが、これは人に置き換えてみても同様な考えができる。

    人は生まれた時は誰もが人間としての基本機能を持っている。
    その後の生き方で様々な能力を身につける。
    これが、人としての付加価値と言える。

    親は我が子の成長を見て、習い事をさせたりして、子どもに付加価値をつける。
    中学校へ入学して、クラスごとに合唱をするようになった時、ピアノを付加価値として学んだ子どもは伴奏を引き受けて、クラスの役に立つ。

    こうしたことは、子どもの人生の幅を広げることになる。

    付加価値の取得は子どもだけに限らない。
    教師は教職の仕事ができて当たり前だが、教師としての仕事の他にどんな付加価値を持っているかは大切なことだ。

    初めて教育実習に行った時、子どもの前で演奏をしたら、子どもがずいぶん親しみを持ってくれた。
    その時、楽器を習っておいてよかったと思った。

    これは一例だが、教師もやがて年をとって定年を迎える。
    定年を過ぎれば、教師として暮らしてきた間に身につけた付加価値が物を言うようになる。

    この付加価値が+αならよいが、マイナスであったら、その後の人生はどうだろう?

    教師という仕事はどうかすると惰性で時を過ごしてしまう。
    付加価値をつけるどころか、人から疎まれるような垢(あか)を身につけたら、居場所はなくなる。

    少年老いやすく・・・とはよく聞かされた言葉だ。
    中年にもなって、偉そうに「若い教師は・・・」と上から物を言うのもよいが、自分の身についた付加価値についても考えたらどうかと思う。

    私はこう思った時、勉強が足りないということをヒシヒシと感じるようになった。


  3. 人にモノを頼むと言うこと

    6月 27, 2016 by dolce

    長い人生の中には、人に頭を下げ頼み事をしなければならないことはあるだろう。
    頼む側になれば、頼まれる側にカードを握られているわけである。

    頼む以上は承諾してもらうことがいいに決まっているが、相手に嬢諾してもらうという秘訣はあるのだろうか?

    水戸黄門というドラマは人気があって、典型的な登場人物は悪代官や悪徳奉行。
    対して、どいうわけか越後屋という名前の商人が登場する。

    越後屋は悪徳奉行の権力を金で買って不正を働く。
    悪徳奉行は金の誘惑に負けて、越後屋の言うことをきくという筋書きである。

    今で言えば、贈収賄の世界である。
    贈収賄の罪でなくても、買収という手段を用いて、頼みをきいてもらうわけである。

    モノを頼むにはモノでつるという手段は昔からある。

    しかし利害関係でつることができない場合はどうするのか?

    私はある県立高校へ、指導員として派遣されたことがある。
    吹奏楽の指導員である。

    その高校は10年ぐらいはコンクールに出たこともなければ、商というものもらったことがなかった。
    そういうところにたまたま、私は派遣されたのだが、これもたまたまだが、コンクールに出ようという機運が高まり出ることになった。

    私は吹奏楽コンクールというものがあまり好きではない。
    よく政治力が働いて、?と思う審査結果を見ているからだ。

    でも、生徒が出たいというならと言うことで、そういう方向で練習をした。
    ところが、その結果、たまたま運よく一位で代表になってしまった。
    (断っておくが、私の指導がよかったなどと言うつもりはない。)

    学校はちょっとした騒ぎになった。

    私の不愉快な思い出は、この次のできごとである。
    ジジ臭い顔の教頭が、真剣な、不愉快そうな顔つきでやってきて

    「おい、ウチは楽器は買えんでな」

    が第一声だった。

    私はそんなお願いはしていない。

    それより、教頭という教師のリーダー格である者の言葉としては、甚だ不適当である。
    教頭の心理としては「今度来た先生の指導で・・・」と自分以外の者が褒められて目立つことが面白くないのだ。

    教頭は続けて
    「会社にお願いに言っても『(寄付の対象は)あなたの学校だけじゃないですよ』と言われる」
    と言うのだ。

    私は楽器が充実するなんていうことは少しも期待していなかったが、楽器がみすぼらしいと校長は気にしていた。

    ある日、突然、いくつかの会社の協力で、楽器を買う費用として、一千万円の寄付があるという話があった。

    これは、校長の力であった。
    力と言っても、校長だからそういう権力があるというものではなく、これは、全くの校長の人格の力であった。

    この学校へ言った時、校長は温かみのある人格者という感じがした。
    校長の人格が学校中に反映して、平和な雰囲気に包まれているという感じだった。

    教頭が何をお願いに行っても、いい返事がもらえないのは、自分の人柄のせいだということがわかっていない。

    アラ探しが多い。嫌味が多い。笑ったことがない。いつもブスッとしていてジジ臭い。

    この教頭を見たら、話を聞く前に、相手は断りの文句を考えているのだろう。

    会社の営業も同じだ。

    「この人からは買いたくない」

    と思ったら、どんな理屈を言っても客はウンとは言わない。

    教師はいつか定年が来る。
    定年は人生の終わりではない。
    それから新しい人間関係が始まる。

    その時までに身につけた人格が、人にどういう印象を与えるか考えておいた方がよいだろう。


  4. 宗教と教育〜「学び合い」は憲法違反

    6月 24, 2016 by dolce

    第9条 (宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
    2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
    (文部科学省・・・参考法令)より

    日本国憲法は宗教を尊重しなければならないとしているが、

    日本国憲法
    第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
    3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

    と規定しているので、国及び地方公共団体の設置する学校にて宗教を手段とする教育は憲法違反となる。

    「学び合い」の提唱者は、自ら「学び合い」は宗教であると明言しているので、公教育で行う「学び合い」は憲法違反ということになる。

    「学び合い」を宗教ではないかという人がいるようだが、提唱者自身がこれに応えて「宗教です」と言っているので、国立大学に籍を置いて学生たちに「学び合い」の講義をするのは憲法違反と言える。

    全国の公立学校に出かけて行って「学び合い」を広める活動は、布教活動のようなもので、これも憲法違反である。

    その教えを受けて指導を行う先生たちも憲法違反をしていることになる

    宗教はトップを教祖と言うので、トップがしばしば「同志」と言う人たちは、具体的には学校の教師であるが、この人たちは信者ということになる。


  5. 指導案の謎

    6月 23, 2016 by dolce

    指導案の謎と題すると、何だかミステリアスだが「指導案殺人事件」というサスペンスではない。

    教師である以上、授業を行うことは必須である。
    授業を行う以上、授業の流れを計画する指導案を書かざるを得ないこともある。

    だが、指導案を書くことが苦痛な人がいる。
    苦痛の程度は個人差があるだろうが、授業研究を行うには指導案は避けて通れないので、教師は知恵を絞って書く。
    指導案が悩みのタネであっても、教師である以上これを否定できる合理的な理由を挙げられる人はいないだろう。

    教師を続けている以上、何回か指導案を書かねばならないことはある。
    時には外部に向けて授業を紹介する時は、指導案を印刷しなければならないこともある。

    そして、期日までに指導案の原稿の提出を求められることがある。

    係が集まった指導案の原稿を点検していると、よく似た指導案があることに気がついた。
    よく見ると、似ているどころかまるでコピーと言えるようなものであることがわかった。

    普通の教師から見たら信じられないことだが、現実にこういうことがあった。

    いくら何でも他人の指導案をコピーして提出というのはない、だろう思うだろうが、そうしなければならないほど本人には切羽詰まったものがあった。

    時間がなかったという問題ではない。
    指導案が書けないというのが結論であった。

    人によっては、思考力の欠陥と言うのか、計画が立てられない人がいるのである。
    彼は教員養成系ではない大学の出身者であった。
    教員になるための単位は取得し、採用試験には受かって教員になったものの、指導案を書くという仕事が彼にとっては壁であった。

    人は苦手なもの、嫌いものに対しては何とか理屈をつけて回避しようとする場合がある。

    「メールで送ればいいじゃないですか?」
    「ああ、私は対面しなければダメなんですよ」
    いかにも人間的ではないと言わんばかりに、メールの使用を拒否した人がいた。

    いくつかある企業の係に連絡をするのに、メールの使用を拒否する人というのは考えられないと思うが、彼の本音はメールの使い方そのものを覚えるのが苦痛ということだった。

    このように本音を隠す人もいるが、指導案の例は思考回路の欠陥が問題であった。
    もっとわかりやすく言えば、病気である。

    職業によっては身体的結果によっては採用不可のものもある。
    例えば、色盲は色彩の判別を必要とする仕事には就けない。

    教員も必須の能力がある。
    もしかしたら、授業そのものを回避できないかと考えた人がいるかも知れない。

    例の指導案のコピペをやった教師は、その後退職した。

    コピペ指導案の謎がわかった話しである。

     

     


  6. ねつ造もウソです

    6月 22, 2016 by dolce

    理科の実験が好きな子どもは多いような気がします。
    子どもは楽しみにしていますが、先生にとっては準備が大変です。
    そのせいか「理科の実験は不要です」と堂々と主張する先生がいます。
    おまけに、それを裏付ける証明があると言っています。

    私は理科に実験が不要と言う論文を知りません。
    実験をやりたくないから、こう言っているとしか思えません。
    罪深いねつ造です。
    (実験が不要という意見は理論的におかしい→実験回数が多いほど真の値に近づくというのが統計の理論だからです→だから科学者たちは何年何十年と時間をかけて実験をする)

    歴史的事実も作り変える人もいます。
    おそらく、自分の主張したい意見を補強したいから言うのでしょうが、教師の姿勢としてはもっとも軽蔑すべきものです。

    捏造してまでも自分の言いたいことを押し通そうとする人には、共通点があるのではと思うようになりました。
    捏造することに抵抗を感じないのは、ある種の病気かも知れません。

    演技性人格障害と言うらしい。

    演技性パーソナリティとは?


  7. 自分の立場を守らんがためのウソ〜恥を知れ

    6月 21, 2016 by dolce

    自分の立場や利益を守るためのウソはみっともない。
    みっともないだけでなく、人に害を与えることさえある。
    ・・・・とこんな調子が続く記事は最悪。
    読んでも不愉快極まりない。

    意見を述べるとき「概要」を言うのはよい。
    だが、概要で終わってしまうのは、人に不満足な気持ちを与えるだけで、不快指数を上げるだけである。
    もっとも、語る人間が脳軟化症なら仕方がない。

    概要を説明したら、具体例を書こう。
    (具体例)
    真空管アンプはブームである。
    A氏はこのブームに乗じて、真空管アンプを作ってひと儲けしようと思った。Baion
    そこで、真空管(アンプ)の音がよいという理由を説明することにした。

    真空管アンプの音がよいのは、半導体アンプと違って、真空管が歪が偶数歪だからです。
    音楽を演奏する楽器の音階は、偶数倍音から成り立っています。
    偶数歪が人の耳に心地よく聴こえるのは、楽器の音が偶数倍音から成り立っているのと同じです。

    このように、音楽の偶数倍音と真空管の偶数歪をもっともらしく説明しています。
    しかし「音がいい」というのは抽象的な概念です。

    ある音を聴かせて「音がいい」と感じるかどうかには個人差があります。
    例えば、うな丼を美味いという人は多いと思いますが、うな丼は嫌いという人がいるようなもので「音がいい」というのは万人に対する絶対的な表現とは言えません。

    真空管の音がいいと感じるのは、個人差があるのです。
    ただ、真空管アンプを売らんかなという人の中には「どうですか、真空管は音がいいでしょう」と誘導する人もいます。
    そして、誘導された人の中には、そう言われるとこれがいい音なのだと思ってしまう人や、正直、よくわからなくても同意してしまう人もいるのです。
    人にはプライドもあり、耳が悪いと言われたくないために、同意する人もいるでしょう。

    しかし、この真空管アンプの音がいいという説明には、決定的な誤りがあります。
    まず、全ての楽器の音(音階)が偶数倍音でできているわけではありません。
    例えば、クラリネットという楽器は倍音が奇数倍音であり、奇数倍音を使って音階を作っています。
    このクラリネットという楽器の音が不快に聴こえるというなら、納得できる話になりますが、不快という人がどれほどいるのでしょう。

    次に、真空管の歪ですが、偶数歪を発するのは三極管であり、多くのアンプは五極管を使っており、奇数歪を多く発生しています。
    それに、歪が偶数であろうと奇数であろうと、再生する音楽に歪が混じっていて、これをいい音と評価できるのか?
    今の半導体アンプも確かに歪を発生しますが、その歪率は真空管アンプと比べたらケタ違いで、人間の耳の検知領域を遥かに下回ります。

    真空管の音が好きだというのは、個人の趣向で構わないのですが、真空管アンプの特徴を誤解無いように説明するなら「音がいい」という抽象的な表現で片付けるのは良心的とは言えないと思います。

    論理的な説明を苦手とする人の多くは、抽象的な表現を使いたがるように思います。


  8. 金では表せない誠意がある

    6月 19, 2016 by dolce

    金でしか誠意を感じないという人は、心の貧しい人だと思う。

    中学生の頃、私は先生という職業は平凡に見えて、おまけに金持ちにはなれないと思い、将来の自分の職業候補からは消えていた。
    しかし、家に不幸があって母一人子一人の家庭になってしまった境遇では、進学も閉ざされるほどだった。

    大学も行ける見通しもないまま、国立を受けるだけ受けた。
    合格しても学費のメドは立たなかったが、運のよい時代だった。
    大学で必要な金は全額奨学金でまかなえて、おまけに返す必要のないものだった。
    ただし、教員にならないと免除されないものだったので、一応教員になった。

    明治時代に建てられた、ボロボロの小学校に赴任した。
    とりあえずは、しばらく働いて、いずれか給料のいい会社に転勤しようという心づもりだった。
    4年生が担任だった。クラスは28人だった。

    「オレの仕事はこんな子どもたちを相手にする仕事ではない。儲けて親に豊かな暮らしを・・・」を考えていた。
    ところが、務めるうちに私は28人の子どもたちに惹かれていった。
    そして、こんないい仕事はないと思うようになった。

    母親は「人様の子を預かるのだから・・・」とか「お前のような者が先生をやれるのか?」など先生という仕事を私がやることについて、ずいぶん心配していた。
    まあ、母親というものはそうななんだろう。我が子はいつまで経っても未熟に見えるのだろう。

    しかし、その母がガンで入院した時、そんなことは全く知らないはずの中学生たちが、私の知らないうちに見舞いに行ったことが後でわかった。
    「何?この千羽鶴」
    「私は腹が痛くて、ようわからんかったけど、何か若い子たちが来てねえ・・・」
    生徒たちだと気がついた。
    病室にはきれいな花も飾られていた。

    私が学校でどんな仕事ぶりをしている由も知らない母親を生徒たちが見舞ってくれたことは、それから間もなく天国へ旅立って行った母親への何物にも代え難いおみやげになった。
    私は生徒たちに一生感謝してもしきれないものをもらった。

    学校を題材にした小説やドラマはたくさんあるが、私は実際に先生を経験して、現実はフィクションよりどんなにか感動があることを知った。

    フィクションには仕掛けがあるが、ドキュメントは想像だにしないことが突然起こる。
    教えたこともないことが突然起こる。

    道徳を教えないから・・・なんて言葉があるが、生徒の心のほうがずっと上だということがしばしば起こる。
    教師が教えるのではなく、子どもがもともと持っていた心が、何かのきっかけで出てくるのである。

    私は教師を経験して、子どもから教わった心の方がずっと多いと思っている。

    これらの経験はどんなに金を積んでも買えるものでもない。

    しかし「オレは金のほうがいい」と考えている人がいるかも知れない。
    「人生の価値は金に優るものはない」と考えている人がいるかも知れない。
    もしかすると、セコイで有名になった舛添氏の心はそうだったかも知れない。
    東大を出て幸福になったのだろうか?

    私は小中高の先生を経験して、すでに一生分の幸福をいただいた。


  9. 認知症かも知れない

    6月 18, 2016 by dolce

    kaibaもの忘れか?認知症か?
    老化とともに物忘れが多くなるのは普通だそうだ。
    では認知症と物忘れとはどう違うのか?

    話したことを翌日には忘れているという人に会ったことがある。
    翌日になると、きれいにリセットされているのである。
    だから教えがいがない。

    ついぞたまらず「一度医者にみてもらったら?」と言ってみた。
    そうしたら、本当に医者に検診してもらいに行った。
    どうだったと聞いたら「あなたのは、認知症ではなく元からそうです」と言われたそうだ。

    認知症の場合は、脳の海馬と言うところが萎縮して、なくなった分だけ記憶が欠損する。
    だから、思い出すということはない。
    物忘れは思い出すことがあるのだが、ここが決定的な差である。

    しかし、昔のことは覚えているから認知症ではないと言えない。
    それは、昔のことを覚えているのは記憶される部分が違うからだ。

    短期的な記憶は海馬が関係している。
    だから、海馬が欠損すると身近なこと、最近のことを忘れる。

    新しいできごとなのに、細かいところまで思い出せない。だから概略的な話しかできない。一般論のような話になってしまうのは認知症かも知れない。

    昨日は健康に関する講演会に出席した。
    その話の中で気になったことがあった。

    1.発想が乏しくて、画一的になる
    2.人の意見を聞かない

    1は記憶に関係がありそうだ。短期的記憶に問題があるので、新しい発想ができない。いくつかの知識を組み合わせて新たな話が構築できないのだ。
    つまり、単純な話しかできないということ。
    2は人の話を受け入れないということではなく、人の話を覚えておけないほど短期記憶に問題があるのだ。
    だから、話がいつも自分から発信する話ができない、いわば猪突猛進型の話になるのだ。
    自分が話したことさえ記憶にないのだから、振り返ることはできない。もちろん、反省することもない。
    常に発信あるのみ。

    コミュニケーションの問題は、意外に認知症と関係があるのかも。


  10. 歳を重ねて楽しみが増すもの

    6月 18, 2016 by dolce

    私が初めて惹かれたクラシック音楽は、シューベルトの未完成交響曲であった。
    この時、私は中学2年生だった。
    今でもよく覚えているのだが、学校へ行くために家を出ようとしていた時、ラジオの朝の名曲で聴こえてきたのがこの曲だった。

    コントラバスの静かな序奏に始まり、弦楽器群のざわめきのような演奏に乗って、オーボエとクラリネットのユニゾンが主題を奏する。
    特に音楽に憧憬が深かったわけでもない私だったが、妙に惹きつけられた。

    下校してからも、旋律の一部が耳にこびりついていて、もう一度聴きたいという気持ちが抑えられず、日曜日を待って自転車で街まで出かけた。
    この頃、私は事情があって保護者は伯父伯母であったが、この年、伯父は交通事故で亡くなっていた。

    小遣いもあまりないので、街に行くためのわずかな電車賃も、節約のため自転車を使ったのです。
    街に着くと、さながら、あの新美南吉の「おじいさんのランプ」の主人公、巳之助が街まで荷馬車の先綱を頼まれもらった駄賃で街を見学して回ったようなものです。

    商店街の本屋を回っていると、クラシック音楽の案内のような本がありました。
    本というより、今で言えばパンフレットのようなものです。
    そのパンフレットのようなものに、シューベルトの未完成交響曲の説明がありました。
    そして、プラスチックの円盤が挟んでありました。
    これはフォノシートと呼ばれる、薄いプラスチックのレコードです。

    鬼の首を取ったような気持ちになって、買って帰りました。
    多分、200円ぐらいだったと思います。

    本物のレコードではないので、音質は悪かったですが、これを何回も聴きました。
    何回も聴くうちに「もう聴きたくない、つまり飽きた」という状態になってきました。

    それでも、他にレコードはないので、たまには聴くという状態でした。

    こんな経過を経て、自分は未完成交響曲を知り尽くしているとうぬぼれた状態になりましたが、時が経ち大人になってから聴いた時ハッとものがありました。

    聴き尽くしたと思っていたのは自分の精神的な未熟さのせいで、ごく浅い程度にしか聞き取れなかったということなのです。

    交響曲第8番ロ短調D759『未完成』(Sinfonie Nr. 7 in h moll D. 759 “Die Unvollendete” )は、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルトが1822年に作曲した未完の交響曲である。シューベルトの代表作のひとつであり、ベートーヴェンの『運命』・ドヴォルザークの『新世界』などと並んで大衆的な人気がある。かつてのレコード業界では『運命』と『未完成』のカップリングは、いわゆるドル箱として重視されていた。フリー百科事典「ウイキペディア」より

    この曲はアマチュアオーケストラでも難しいものではありません。
    しかし、歴史的な名指揮者/オーケストラは幾度となく演奏しています。
    それほど、汲めども尽きない内容があるわけです。
    これからも永遠に演奏続けられるでしょう。
    その度に、指揮者は勉強しなおし、楽譜は鉛筆で真っ黒になるでしょう。

    何度も聴いてわかったと思うのは錯覚であり、未熟さのせいだということは、年とともに強くなっていく気持ちです。
    人生にいろいろなことがあり、さまざまな喜怒哀楽を経験し年を経たある日、シューベルトの未完成交響曲は心に迫ってきて、新たな感動を与えてくれるのです。
    そういう意味で、年を取るということは、新たな感動があるとも言えるのです。