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5月, 2016

  1. 異議の唱え方

    5月 31, 2016 by dolce

    異議を唱える場合は根拠を明確にすべきである。
    教師だったらこんなことを言われるのは不名誉なことだ。
    逆にこういうこは教える立場だし、自ら手本を示すべきでもある。

    正論で押し切られると、逆ギレして反論してくる人がいる。
    反論は結構だが「お前は◯◯ということ言って私を非難した」と言う人がいる。
    私としては「◯◯」と言った覚えはないので「どこに◯◯という記述がありますか、示してください」と返すのだが、その後は無言である。

    なぜこうなるのかと言うと、興奮するあまり相手の言葉を創作してしまうのだ。
    私が懸念するのは、こういう人は子どもに対してもこういう態度をとっていないかとということだ。

    子どもに厳しくすることはいい。
    だが、理不尽な態度はとるべきではない。
    教師は子どもに対しては権力者なので、悪くすると理不尽な対応や、自身の誤りを訂正しない嫌いがある。

    さて、異議の唱え方だが、例を示す。

    [例文]

    私の・・・というやり方について批判をする人がいますが、感情的で論理が破綻しています。

    (注)こう書いたら、具体的にどういう批判があるのか、その批判そのものを紹介すべきである。
    そうでないと、実際に感情的かどうかはわからない。同様に論理が破綻しているかどうかはわからない。
    読者から見たら、作者が勝手にそう解釈しているだけかも知れない。あるいは、作者が創作してウソを書いているかもしれないととれる。
    ある料理を、自分は美味いと思っても、別な人はまずいと言うかも知れない。

    ・・・・・・・批判するならば、本を読むことをお勧めしたい。しかし、読むことが生理的に難しいのでしょう。だったら批判せず・・・・・・・・

    これは他人にたいして大変失礼であるとともに自らのおごりが出ていてみっともない。
    相手が本を読んでいないと決めつけている。
    「読むことが生理的に難しいのでしょう」の部分は完全に相手をバカにした態度である。

    ・・・・・その方はデューイの本は読んでいないようなのです・・・・・

    これも失礼な言い方である。どうしてそういうことがわかるのか?(超能力があるのか)

    ・・・・・・の根幹となっているものは、思いつきではなく、実証的なデータに基づくものです。・・・・・・

    実証的データを見たことがないです。どこにありますか?この意見自体が創作ではないですか?

    ・・・・・批判するならば、実証的なデータに基づく批判をすれば良いのに・・・・・

    一般的な教育活動に関する実証的なデータはたくさんあります。
    わけのわからない他人の説(?)をデータに基づくと言っても、そもそもデータがあるはずがないです。

    ご批判は大歓迎です。ただし、実証的なデータと論理と大人の表現で。

    これは完全に自己矛盾でしょう。
    まず自分の方から実証的なデータと論理を示すべきです。
    あなたの表現には子どもっぽいものをたくさん見ます。


  2. 教員養成系大学の中身はどうなっているのか?

    5月 30, 2016 by dolce

    教師として教育実践をするには、教師になれなければ話にならない。
    教員養成系に限らず、よい研究をしている大学にはよい先生がいるし、先生の学生に対する面倒みもよいようだ。
    面倒みがよいとは、学生を甘えさせることとは違う。逆に自由があるとか個性の尊重とか言って、先生が実質的に指導を放置しているのもよい教育とは言えない。

    最近、ノーベル賞で有名になった中山教授の京都大学、赤崎教授、天野教授の名古屋大学、梶田教授の東京大学は優れた研究を行っている大学と言えるだろう。
    優れた大学の先生に共通するところは、謙虚で自分の功績を自慢したりしない。

    ノーベル賞を受賞するような人材を育てる意味で、小中高の先生は大切だ。

    では、どんな大学から先生は輩出されているのだろう?

    それらの大学での教員養成に関わる教育はどうなっているのだろう?

    教育stationというサイトがある。
    ここに登場する大学名を見ると、興味深いものがある。


  3. 教員への道

    5月 29, 2016 by dolce

    将来、教員を希望するなら、過去の実績から見て、最も採用試験の合格者が多い大学を選ぶのが順当な考え方だ。
    もちろんそういう大学へ入学したからと言って、それで将来が約束されるというものではない。

    大学の価値とは何か?
    建物の立派さではない。設備がよくて立派な建物なら申し分ないが、それより大切なのは大学の先生の質である。
    次に学生の質である。

    学生の質とは教員になるという意識の高い学生が集まるところである。
    教育は師である先生が大切であることは言うまでもないが、学生生活を送る上で同級生相互の影響は大きいものである。
    学生生活で生涯の友を得ることもある。
    教員になってからも、ずっと交友が続く可能性もある。

    ところで、具体的な大学選びであるが、まずは採用試験のランキングが参考になる。
    実際に、どの大学の出身者が多いか調べてみる。
    これは文部科学省の公表しているデータが参考になる。

    文部科学省の資料より

    Yutubeでランキングを作った人もいる。


  4. 金と名誉への執着〜大人の最もみっともない姿

    5月 28, 2016 by dolce

    舛添氏の姿は、法的にどうかは私のような素人にはわからないが、アンケートでもわかるように世論は正義に照らしあわせてではなく、あの姿に嫌気がさしているのではないかと思われる。

    具体的には金と名誉への執着である。

    経歴は申し分のないもの、学生時代も大学模試で常に全国2位3位を争っていたという。
    順調に東大を卒業し、大臣も務め東京都知事、この先は総理大臣かとの声もあった。

    これほどの学歴のある人でも、人格は別のようだ。

    私が情けないと思うのは、経済的には不自由ない給料をもらっているのに、天ぷら代の出費が公費でいいのかという疑惑。
    どうも金に汚いというイメージがつきまとう。

    金がなければ生きていけないが、金への執着があまりにも強い人は見苦しい感じがする。
    同じく名誉心への執着が強い人も、みっともない

    もっとも、本人はみっともないと思っていないから、金と名誉へのあくなき追求が続くのだろう。

    私は中学生の頃、漠然と将来の職業はと考えた時、目の前の先生を想像すると、平凡な仕事だし収入も多くないことを考えると選外だった。
    しかし、教育実習を経験するころから少しずつ気持ちが変わっていった。
    それでも依然として給料が少ないというところは気になっていた。

    親一人子ひとりで就職浪人はまずいと考えて、一応先生をやってみるかという程度で先生になった。
    それも希望の学校ではなかったので、1年で仕事を変えるつもりだった。

    小学校は眼中になかったので、その気持ちは強かった。
    ところが務めるうちに、気持ちがすっかり変わって、今思うとまるで天職のような気持ちだったのではないかと思う。
    すっかり小学校が好きになったが、中学校へ転勤してもまた感動があって、金持ちになりたいという気持ちなどすっかりなくなっていた。

    子どもたちのおかげで、本当に金では買えない幸せをもらった。

    プログラマーを目指し一流企業に就職し、多額の給料をもらって何不自由のない生活をしていた、サラリーマンが突如会社を辞めて田舎の空き家に移住したという話を聞いた。
    収入は半分になったというが、子どもたちの生き生きとした顔、奥さんの幸せそうな顔を見て、幸せだと言っていた。

    「幸せは金ではない」と言うが、それは経験しないととわからないような気がする。
    いや、わかるかわからないかは、その人の心の豊かさによるのだろうとも思う。

    少なくと先生をやっている立場なら、そういうことが実感としてわからなくても、幸福とは金と名誉だとの固定概念概念しか持っていない人は、児童や生徒に接することを考えるとまずいのではないかと思う。

    ところで、話は変わるが舛添問題は道徳のいい教材になるのではないかと思った。
    児童・生徒たちに討議させてみたらどうだろう?


  5. 舛添氏の教訓〜ブーメラン現象

    5月 26, 2016 by dolce

    このところ連日、テレビに舛添氏のニュースが登場しないことはない。
    舛添氏はまるで集中攻撃に遭っているような感じで、これは今までたまっていたエネルギーが一挙に吹き出したようでもある。

    これを、ある解説者はブーメラン現象と言っていた。
    それは、舛添氏は弁が立つこともあって、他人への批判というか攻撃が強かったということもある。

    思わず笑えてしまうのだが、かつて舛添氏が監修して作ったゲームで「公私混同は失敗のもと」というのがあって、正に自分が作ったゲームが自分に返ってくるという皮肉な結果となっている。正にブーメラン現象の典型なのだ。

    しかし、連日のように叩かれている舛添氏を見て、人ごとと無関心でよいのかと思った。
    私たちは不愉快なことがあると、対象に対して悪口を言ったり、皮肉を言ったり、罵ったりと言う態度を示すことがある。
    だが、そういうバッシングを誰もが歓迎しているとは限らない。

    社会の悪に対する批判精神は大切なものでああるが、確かに悪さをしているのだが、かえって不愉快に思ってしまうことさえある。
    これはなぜだろう?

    それは、いかにも悪を批判している人の語り口に「毒」が含まれているからだ。
    どんな毒かといえば「そういうお前自身はどうなのだ」という感じがする場合「批判ではなく、これは嫉妬ややっかみの類」なのだと受け取れる場合。
    「この人は人のアラを探すことで、溜飲を下げているんだな」という場合。
    これらの場合は、本人は批判しているつもりでも、他人からみれば不愉快なものがどんどん溜まっていく。

    これがマグマのように溜まっていき、いつか噴火する。
    つまり、自分の行ったバッシングが自分にかえってくる「ブーメラン現象」だ。

    他人の悪口はたとえ他人が悪いとしても、基本的には気分のよいものではない。
    だが、知的というか教養を感じる人の批判は、なるほど、ためになったなどのいい感じが残る。

    これは、子どもを叱る場合にも言える。
    叱られたのに、逆に逆恨みを持たれるようなやり方はよくない。
    子どもが真から頭を下げるような叱り方ができなければならない。

    匿名のブログは正体がわからないからと言って、いい気になって不愉快な投稿を繰り返せば、たまりにたまったマグマの力で突然削除ということもある。
    たまりにたまったマグマとは、管理者への苦情のたまりと考えられる。

    もっとも、自分のストレス発散の場として、自分の生きがいの場となっている人もいるかも知れない。
    でも、いつか自分の放ったブーメランが返ってくることは、認識していた方がいいだろう。

    舛添氏の教訓を活かそう。


  6. コミュニケーションは密度の高さが大切

    5月 24, 2016 by dolce

    人は集まるだけで何らかのコミュニケーションができる。
    でも、人生に影響を与えるような刺激的なコミュニケーションは、ただその場に集まるだけでは生まれない。
    何が絆を作っているかが大切なのだ。

    例えば、戦友というのは死の恐怖に慄(おのの)きながら、ともに生きてきた間柄だから絆は強いのだろう。
    別な言い方をすれば、人生をどれだけ真剣に生きたかで絆の強さが決まると言ってよいだろう。

    そういう意味では、オーケストラは人間の強い絆(密度の高い絆)を作る、一つの理想形であると思う。
    オーケストラは人間の長い歴史の中で培われてきた経緯がある。

    ここに、教師が範とする集団のまとまり、指導、学び合い(例の学び合いとは異にする)もろもろが集積されている。
    「指揮者は教師の理想型である」とかつて私が語ったら、すぐさま反発して「教師はオーケストラの指揮者などではない」と言った人がいる。
    これを私は「つまらないやっかみ」と感じて情けなく思った。
    反発するのはいっこうに構わない。だが、なぜそう思うのか理由を言えないのであれば、全く説得力はない。
    まずは「指揮者とは何をやっている人か」わかっていいなければ、反論のきっかけもないだろう。

    音楽鑑賞会を企画して、本物のオーケストラを呼ぶと、演奏を聴かせるだけで子どもたちの心に影響を与える。
    これがきっかけとなり、プロの指揮者になってしまった者もいる。
    感動は大きなエネルギーを生む。

    だが、子どもが鋭敏な心を持っているのに、指導者たる教師が鈍感であったら、至るところで子どもの心を傷つけてしまうことがある。
    いや、傷つけていることすら気がつかないとしたら、子どもは一体何のために学校にいくのだろうと考えさせられる。

    次の動画は世界のトップランクに君臨する、ドイツのベルリンフィルハーモニー管弦楽団であるが、数々の歴史的指揮者が指揮した伝統ととオーケストラ配置もに、西洋音楽史を作ってきた歴史がある。
    このオーケストラの指揮者に日本の小澤征爾氏がなを連ねたことは、日本人として誇らしい気持ちになる。

    この演奏、チャイコフスキー作曲、組曲「くるみ割り人形」は一般に親しみやすく、かつオーケストラの組織がわかりやすい曲なので、各パートのまとまり、役目などを説明するのに好適と思った。
    加えて、カメラワークも優れており、教材としても最適と考える。

    かつて紹介したオーケストラ配置を参考にすれば、日頃、このようなものに疎い人にも役立つだろう。
    一つお断りするのは、私がかいた図とこの動画の演奏では、チェロと第二ヴァイオリンの位置が逆になっている(こういう配置もあるということ)。


  7. 天下に号令できるほど偉くない

    5月 23, 2016 by dolce

    「天下に号令できるほど偉くない」とは自分のことです。
    子どもの頃は、お山の大将で、それこそ空き地の小山に上がって、自分が天下を取ったような気分になっていいたものです。

    天下に号令するとは、教育分野ではリーマン予想が解けたら得意になって発表しますが「人はこうしたらこうなる」と言うようなあたかも、自分には神のお告げがあったような発想をすることは、とても恐れ多くてできません。

    できるのは小説(フィクション)を書くか、実践記録の紹介ぐらいのようなものぐらいです。
    学校の教科で最も難しいと思うのは道徳です。

    道徳が難しいと思うのは、人の心の中はわからないこと、わからないから「人は・・・すると・・・する」と言った行動の予想もできません。
    だから、道徳の授業と言えば、立派な人の伝記を読むとか、締めくくりに立派な行いをするようにと訓示をするぐらいしか思いつきませんでした。
    中でも「訓示なんて嫌だな」と思っていましたが、道徳を研究授業に持ってくると、いわゆるベテランと言われるような先生方は、訓示で締めくくらないと納得しません。

    誰も尊敬するような人の訓示なら、子どもは聞くのかも知れませんが、私ごときものが訓示をしたところで効き目があるとは思えません。

    困ったなあと思いながら、ある教育書を読んでいたら「情緒的感動性」なる言葉が目につきました。

    大人が悪い行いをすると「子どもの時、いい悪いを教えてやらないから」と言う大人は多いように思いますが、いい悪いを知らないから悪いことをするとは思えません。

    口で言っても、私のような者には無力感がありますが「情緒的感動性」は「いける」と思いました。

    情緒的感動生とは、教えられなくても人間が感動する心ということです。

    それは、真・善・美だというのです。

    真実に触れた時、善い行いを見た時、美しいものを見た時、人間は無条件で感動するということです。

    以来、私は道徳教育の基本として、これを中心に実践しました。

    すぐできる実践として「教室に花を飾る」これは、誰も何も言わなくても見た人間の心を打つわけです。
    プラットホームから人が転げ落ちた時、韓国人の若者が自分の身も顧みず、飛び降りて人を救ったことは、大勢の人の心を打ったと思います。
    「あの人は本当にウソを言わないのだ」と知った時、その人を信用するようになります。同時に心に響いていることでしょう。


  8. 学級崩壊を直してみせてください

    5月 22, 2016 by dolce

    「学級崩壊」と言っただけでは、学級の状態がよくないのだなとは予想できても、それ以上はわからない。

    医者の病気治療を考えてみても、ただ「頭痛です」と言っただけで治療できる医者はいないだろう。
    まずは問診をする。

    問診(もんしん)
    直接,患者に自覚症状や生活史 (たとえば家族の病歴や職歴) ,既往症を聞いて行う診察法の一つ。視診とともに臨床医学の技術の出発点とされ,人間の医学と獣医学の本質的な差異がここにあるとされている。

    このように、学級崩壊と言っても、どんな状態なのか医者の「問診」にあたるものがなければ、対処のしようがない。

    だから、学級崩壊を直して欲しいと言われたら、まず「学級の状態」を教えてもらうこと、できれば状態を見に行くことが必要である。

    さて「学び合いの授業論」と題して、ある大学の先生が自分の授業(講義)を撮影したものがある。
    これは、先生自らが撮影して、Youtubuに投稿しているぐらいだから、一般に公開したいのだろう。

    学び合いの授業論

    拝見した感想を率直に言えば、先生の態度が横柄で品がない。
    大勢の集団を前にして、指導(単なる話でもいい)をするとき、集団心理として「初対面でも、半数は反感を持っている」とはある指揮者から教わったことだ。
    反感を持っているから、波風を立てるということは、大人の場合はまずない。

    ところが子どもの場合は、大人のように自分の「しがらみ」は考えないので、はじめは緊張していても次第に自分の地(じ)が出てくる。
    不満は率直に態度に出てくる。

    あるクラスは、学級崩壊と言われていたが、担任が変わっただけでピタリと収まった。
    これは、以前の先生に不満を持っている子どもが多かったのです。

    それはそうと、このビデオを見ると、学級崩壊がテーマと言っている。
    先生は学生たちに、話しあうようにと言って、30分という時間を取って、自分は散歩してくると言って出て言ってしまった。

    話し合う時間をとるのはいいが、その場にいないということは、学生たちの話し合いには興味がないらしい。
    やがて、戻ってきたがグループごとにどんな考えが出たのかという問もしないので、結局、自分は学級崩壊にどう対処したらいいかという課題には関心がないらしい。

    30分の時間は早い話が、自分の休憩なのだ。サボリと言ってもよい。
    とにかく、この先生の話には「如何にサボるか」という意図が見え見えである。

    しかし自己顕示欲は強いと見えて、自分の自慢や著書の話を挟むことには余念がない。
    それはそうと、自分の教育書を宣伝する以上、新教育学大事典は読んでいるのでしょうね。

    とにかく、思いつきでも何でも自分が発した言葉は頂点であるという意識だけは、教師たるもの慎むべきだと思うのです。

    いずれにせよ、このビデオで紹介した5年生のいる学校はどこにありますか?
    今度は先生自らお出かけになって、2週間でそのクラスを最高にする記録のビデオを紹介してください。


  9. 道徳教育の指針

    5月 22, 2016 by dolce

    こんなタイトルをつけると、いかにも上から目線に見られるかも知れない。
    しかし、この目線は私が誰かにというものではない。

    私の方が感じた目線(視線)である。
    もっと平たく言えば私が教わったということである。

    中学生が何人かで遊びに来たことがある。
    彼らの中学校は田舎にあって、彼らからすると私の住んでいるところはずいぶん街になる。

    彼らがそろそろ帰宅するかという時間になった時、一人が「◯◯に寄って行こう」と言った。
    彼らにしたら、たまに街に来たのだから、田舎にはない大型の店舗に寄って行きたいという誘惑があるのだ。

    賛成ということになるかと思ったら

    「だめ、だめ先生が叱られる」

    と誰かの言葉があった。

    「先生に叱られる」ではなく「先生が叱られる」である。

    田舎から、今度の休みに先生の家に行きたいと、担任の許可を得てきたのだ。
    許可がおりたものの、目的地以外のところへ行かないようにという指導があったのか、学校の生活指導でそうなっているのかわからないが、目的以外の行動はよくないという認識は彼らにあった。

    だから

    「だめ、だめ先生が叱られる」

    の言葉にみんな頷いた。

    バレたら自分たちが叱られるという心配ではなく、担任の先生が「生活指導が悪い」と上の先生から叱られることを恐れたのだ。

    遠くからやってきて、途中で繁華街に寄ってもバレないだろうが、自分たちのことより先生の心配をする態度を見て、私はこの担任は大したものだと思った。
    道徳教育をするつもりはなかっただろうが、ここまで生徒の心を掴んでいる先生はすばらしい。

    同じことを言うにも人が違うと、聞く方に与える影響も違う。

    「しっかり指導したんですがねえ」はくどいほど言って聞かせることとは違うのだ。


  10. 有能なら教育の必要がないのでは?

    5月 20, 2016 by dolce

    「子どもは有能である」という抽象的表現で終わっているから、信用できない。
    教育は、そもそも、有能でないから必要なのではないか?

    抽象的表現で放っておくのは、不満足、無責任といった印象しか与えない。

    「有能である」というからには「有能と感じた根拠」を示さなくてはならない。
    一体何が有能なのか?

    人は犬より有能か?
    こう言っただけで他人に通じるのか?

    人は犬より知能が優っているのは、誰もが認めるところだろう。
    ところが視点を変えたら、話は違う。

    例えば、遭難人を探すことにかけたら、犬の「有能な嗅覚」で人より優るだろう。

    ただ「有能」と言うだけでは、何を言いたいのかわからない。
    それで、よく研究が進むものだと思う。