RSS Feed

4月, 2016

  1. 腹立たしい文章

    4月 29, 2016 by dolce

    汚い字のことを「悪筆」と言う。
    また、酷い文章のことを「悪文」と言う。
    私が腹立たしい文章というのは、私に対する誹謗中傷の文のことではない。
    悪文

    難解な言葉を使ったり,文脈が乱れていたりして,理解しにくい文。へたな文章。(三省堂「大辞林」)

    一般に悪文と判断されるとき、まず二つの立場が考えられる。第一は、その文を読むときに理解しづらくて悪文だと判断する読み手としての立場であり、第二は、表現を構成する言語要素に分解して、悪文要素を分析的にとらえる立場である。(日本広報協会「悪文の判断」より)

    では「悪文」を紹介する。

    アクティブ・ラーニング は子どもを少し大人の子どもに育てるのではなく、子どもを大人にする教育。それは小学校も同じです。ただ、これが難しい。

    授業能力が一定以上の人にとって、一斉指導の方が「今」は楽です。一斉指導のように自分のペースで進め「られる」場合は、一斉指導の方が圧倒的に楽です。ようは語れば良いのですから。そこに、話術と教材の蓄積があれば。

    が、問題はその力量も無い人が一斉指導をやっている。いつか破綻が来ます。が、分からないと思います。破綻するまで。

    アクティブ・ラーニングは限りなくシンプルです。子どもを大人にする教育と考えれば。ようは、職場の人に同じことをやったとき、それを受け入れられるものか否かです。

    子どもと大人は違う、と思う人は、子どもを少し大人に近づける教育をしているのでしょう。

    まず
    第一段落
    「アクティブ・ラーニングは子どもを大人にする」と言っていますが「する」の目的である「大人」とはどんなものなのでしょうか?
    一言で「大人」と言っても、読者にはイメージが浮かぶでしょうか?
    浮かんだとしても、人により「大人」の捉え方はまちまちではないでしょうか?

    「アクティブ・ラーニングは子どもを大人にする」は手段と目的を言っています。
    手段が「アクティブ・ラーニング」で目的が「大人」です。
    しかし、この文では手段と目的のつながりが不明です。

    あるところに行くのに、その手段でなぜ目的地に行けるのかがわからないのです。

    (ちなみに、私はアクティブ・ラーニングが子どもを大人にする教育」とは思っていません)

    第ニ段落

    「授業能力が一定以上の人」とはどういう人でしょう?

    これでわかる読者がいるでしょうか?

    授業能力という尺度を設定すれば、人々は「授業能力が、高い〜低い」という程度のことは考えるかも知れません。
    しかし、考えたところでそれぞれの考えが同じとは言えないでしょう。
    会社で英語のできる人を採用したいと考えた時「英語の能力が一定以上の人」という募集の仕方はしないと思います。
    「TOIEC700点以上」と言った募集をするでしょう。

    「一斉指導の方が圧倒的に楽」と言っていますが、そうとは限りません。見解が狭すぎます。

    第三段落

    「力量」の実態が不明です。

    破綻が来ますと言っていますが、それはどういう状態でしかも「破綻」とは誰が判定するのでしょう?
    実際に破綻を見たことがあるのでしょうか?
    あったとしたら、その状態を紹介すべきです。

    第四段落

    「アクティブ・ラーニングは限りなくシンプルです。」
    これも意味不明な文章です。
    こういうなら「アクティブ・ラーニングの定義」を述べるべきです。

    アクティブ・ラーニングとはコトバンク(朝日新聞)の説明によれば

    教員からの一方向的な講義で知識を覚えるのではなく、生徒たちが主体的に参加、仲間と深く考えながら課題を解決する力を養うのが目的。そうした力を養う授業手法として、議論やグループワークなどが挙げられることが多い。

    と説明があります。
    これによれば、一概に「シンプル」とは言えないのではないでしょうか?

    第五段落

    「子どもと大人は違う、と思う人は、子どもを少し大人に近づける教育をしているのでしょう。」

    これなんか、私には全く意味不明です。
    どなたか理解できる人いますか?

    子どもと大人は違うと思う人が普通ではないでしょうか?
    だから「子ども」と「大人」と別々な単語があるのでしょう。

    まとめ

    まことに酷い文章だと思います。

    不愉快なのはこの人が大学の教育学部、大学院の教授だと言うことです。
    日本の教育のトップがこの状態というのは、私は日本人として恥ずかしく思います。

    私は昨年から放送大学大学院の講義を受けるようにしましたが、先生方は立派で講義の内容は具体的で満足できるものでした。尊敬に値するものでした。

    大学の先生なら、最高学府らしく研究実践をすべきでしょう。
    そして、根拠や考察を具体的に話すべきです。

    例えば次のように。

    追伸
    この人はたくさん本を出版していますが、大なり小なり、このような文章の集まりで、タイトルは違っても、どれも同じと言えます。
    抽象的な文章な集まりで、書評にも「中身がない」とのものがあります。
    そもそも、出版の目的が「出版そのもの」にあるようで、本人が「書くことに困ったら、とにかく字を埋める」と言っていることからも推察できます。


  2. 進化する教師

    4月 28, 2016 by dolce

    私はNHKの歴史番組「英雄たちの選択」が好きである。
    次回5月8日は出演者が【司会】磯田道史,渡邉佐和子,【出演】中野信子,小和田哲男,呉座勇一,瀧本哲史,【語り】松重豊と言った人たちであり、それぞれ専門分野の方々で、話を聞く度に、すごく勉強していると思う。
    次回の番組が楽しみになる。

    元来、私は社会科という教科は嫌いであった。
    ものごとの羅列ばかりで面白みを感じなかった。
    先生の授業も、概して単調であった。

    しかし、高校三年で大学受験を迎えると、合格は総合点だということを悟り、数学などは試験日のでき不出来があるが、社会は勉強しただけ(覚えただけ)得点は安定しているということがわかり、猛烈に点取り虫になった。

    効率を考えて、なるべく薄い本で要点をまとめた本がいいと思って、それを使った。
    ところが、これがさっぱり頭に入らない。

    困ったなあと思いながら、本屋をあたっていたら、今度は非常に分厚い本を見つけた。
    受験用ではなかったと思う。
    これを少し立ち読みしたら、おもしろいと感じた。

    厚い本にも関わらず、帰宅してから一気に読んでしまった。

    このことがあってから「社会は人間ドラマだ」と感じた。
    延々と続く人間ドラマだったのだ。
    厚い本は人間の心理を描くほどのページがあるわけなのだ。

    授業は淡々と無味乾燥に進めれば、教師の役割は済むのだろうが、それでは聞いている者に対する印象は薄い。

    だから、心に残る授業をする必要がある。
    それには、何と言っても授業をする教師が、その教科が好きでなければならないし、好きなんだという気持ちが聞き手に伝わってくることが必要だ。

    それには、教師自身が常に研究しているという新鮮さが必要だ。
    NHKの歴史番組「英雄たちの選択」にはそれがある。

    これは絶えず進化する教師に他ならない。


  3. グループ作り

    4月 27, 2016 by dolce

    オーケストラ配置人は仙人でもない限り、一人では生きていけません。
    社会に出ても何らかの関係で日本中の人々と繋がっています。

    おういう人々のつながりを俯瞰して見るには、オーケストラが最適と私は思っています。
    しかし、オーケストラの緊密な人間関係を知らない人が、世の中にはあまりにも多いような気がします。

    教師の中に「音楽の授業はCDで代用できる」と言っている人がいるのには呆れてしまいます。

    今から始めて上手くなる 楽器とオーケストラ入門411FF5BQSZL._SX334_BO1,204,203,200_

    右の図は一般的なオーケストラの楽器配置です。弦楽器(水色)は5部に分かれていて、金管楽器(橙)は図では4つに分かれています。
    あとは木管楽器群(緑)があり、最後部に打楽器(茶)があります。

    グループ作りの話になると一グループは何人がいいかなどと言う人がいますが、一言で「グループは何人がいい」という抽象的な問いには答えられません。

    そういう問いかけ自体がおかしいのであって、グループの人数は「何をするのか」がまず始めにきて、そのためには何人必要」という順序で決まるものだと思います。

    例えば、ホルンは普通4人が1セットです。
    それは和音を作るために4人(4声部)必要だからです。
    しかも、4人とにかく揃えればよいのではなく、それぞれ役割が決まっています。

    人の場合も何をするかという目的を考えてグループの人数を決めるべきだと思います。
    私は時にいくつかのグループに分かれる講習会に参加しますが、そういう時はグループごとに話し合いをして発表する場合です。
    人数は5人が多いですが、グループ内で誰かがまとめ役をやったり発表したりしますので、その役目に適した人がどのグループにもいなければなりません。

    何となく有能な人ではいけません。
    「有能な人」というのは抽象的で、有能と言っても何が有能なのかわかりません
    計算に有能なのか、作文に有能なのか・・・考えがアバウト過ぎます。

    発表者なら、前に出て話をするのが上手な人ということになります。
    一言で「子どもは有能である」とは何が有能なのでしょうか?
    突き詰めて考えたことがあるのでしょうか?

    オーケストラではそれぞれの楽器グループで、人の気持ちがまとまっていなければなりません。楽器がまちまちでないことはもちろんですが、人のまとまりを作るためにもグループのリーダーが必要です。
    それは、通常「主席」と呼ばれる人です。

    さらに、オーケストラ全体のリーダーとして第一バイオリンの最前席、指揮者に最も近い席に、コンサートマスターというリーダーがいます。
    さらに、細かい役割や連携については次回説明したいと思います。

    私の街には市民オーケストラがあります。
    誰でも楽器を持って参加することができます。
    あまり上手でなくても、それなりに参加することができます。

    年齢は関係ありません。小学生から年配者まであらゆる年代の受け入れが可能です。
    参加すると、密度の濃い人間的なコミュニケーションが体験できますので、なるべく多くの人が参加するといいと思っています。

    ■100人の人間を掌握することは難しくない

    人間が100人いると掌握は難しい、見捨てられる者がいると考える人は、指導者としては不適格者だ。
    指揮者は100人のメンバーも頭に入っている。
    全員を計算に入れて、全体の音づくりをしているのだ。

    メンバー側から見ると「自分一人ぐらい・・・」と考える人はいない。
    もっとも、指揮者(一人前の指導者)と言える人の話だが。

    なぜ掌握できるかと言えば、上のオーケストラの配置図のように、構造的に見ているからだ。
    そうして、それぞれがどういう音を発しているかかがわかるからだ。

    むしろ、何だかわからないグループわけをした方が、丸投げで放置されたと感じるだろう。


  4. 音楽による対話

    4月 26, 2016 by dolce

    「部活動」という教科はありません。
    しかし、人によっては教科とは別に部活動というものが存在するかのように話す人がいます。
    部活動がいったい何をしているのかということを考えてみれば、それはあらゆる教科の集合であることがわかるはずなのですが、どうもものごとを分解して考えることのできない頭脳を持っている人がいるようで、話の進まない状態になります。

    こういう人は、コンピューターで言えばビットが少ない人のように思えてしまいます。
    たとえば、4bitであれば16通りの分解能しかありません。

    部活動には運動部と文化部がありますが、それぞれの部活動は何をやっているのでしょう。
    文化部には英語部というのもあります。これなどはまさに英語の教科そのものと言えます。
    また英語部だから英語しかやっていないとは言えません。
    顧問の運営によっては運動をやっているかもしれません。

    私は吹奏楽部の顧問でしたが、夏には生徒たちが水泳をやりたいといったので、水泳もやりました。
    部活動のいいところは「自由度」のあるところです。

    教科の経営に縛られない自由な活動ができるところがいいと思います。

    私は生徒たちに吹奏楽の指導をしながら、自分も楽器の練習をしました。
    まさに「教えることは学ぶこと」の実践でした。

    そういうこともあって、現在も楽器の演奏を行っています。
    自分から演奏させてほしいと頼んだことはありませんが、現在は月に1~2回の演奏以来があります。
    演奏はほとんど独奏(solo)です。

    私は独奏が好きです。
    それは、独奏は自分だけがする演奏ですから、責任はすべて自分にあること、自分はこういう考えだということが直接聴き手に伝えられることです。

    「人生の幸せは何か」と考えた時、それは人と人とのコミュニケーションの深さではないかと思います。
    深いコミュニケーションを求める時、人々は食事会を企画します。
    「話し合い」もコミュニケーションの大切な手段ですが、会食によって人々の親密度はさらに高まります。

    食事とともに人は音楽を求めます。
    音楽が加わることで、人々はより豊かな気持ちになるのです。

    音楽と言えば、今はCDでも間に合うのですが、さらに人が求めるのは生身の人間が演奏する「生演奏」です。

    生演奏によってより人の心は伝わり、コミュニケーションの親密度は高くなります。

    ピアニストの辻井伸行さんは「話すより、演奏の方がより気持ちが伝わる」と言っています。

    生徒たちは部活で楽器ができるようになって卒業していきますが、学校を卒業しても演奏と言う媒体を通じて先生と先生のコミュニケーションはずっと長く続きます。
    生徒が親の代になっても続くのです。


  5. 部活動でこそ理想の教育ができる(8) ~感性豊かな子ども

    4月 25, 2016 by dolce

    芸術は感性の豊かさによって、受け止める大きさが違ってくる。
    音楽の場合、価値は「音楽性」とか「芸術性」とかの言葉を使って評されるが、どちらにしても感じるか感じないかである。

    子どもによっては感性(感受性)がとても強い者がいる。
    そういう子どもの指導者(教師)が感性の弱い人であったら、子どもにとっては悲劇である。

    教師が鈍感であるために、子どもを踏み潰してしまっているかも知れない。
    特に不遜だと思うのは、教師が「価値観は全て自分が決める」「自分が認めたものこそ最上」と自負している場合である。

    子どもの発育にはレディネスというものがある。
    それを無視した結果、すばらしい才能を発揮するはずだった子どもが、犠牲になってしまうことは恐ろしい。

    そう考えて、私は新学期に子どもにあった楽器を決めるために、プロのオーケストラから楽員に来てもらって決めていた。

    こういうやり方は部活動でこそやりやすいと言える。

    子どもの感性は幼くても強い者がいる。

    バッハはある程度の年齢にならなければ、わからないというものではない。
    幼くても感じている子どももいるのである。

    芸術教科は、点数によって振り分ける教科と違って注意が必要なところである。

    それにしも、音楽に関して無神経な大人が目立つような気がするのは、私だけか?


  6. Youtube革命

    4月 25, 2016 by dolce

    Youtubeができてまだ間もないころ、私も動画をアップしてみた。
    そのころは、動画のアップも簡単とは言えなかったが、後にgoogleがYoutubeを買収したせいもあってか、動画のアップは間単になった。

    私がYoutubeを始めて使ったころはマニュアルもなくドギマギして手探り状態だったのだが、画像も質が悪く音質もお世辞にも良いと言えるものではなかった。

    ある日、MicrosoftのX-box360を買ってきてテレビにつないだところ、Youtubuが見られることがわかった。
    驚いたことに、46型の液晶にきれいに映った。

    古い動画はきれいでないが、新しいものはHi-Visionに耐えられる画質になった。

    テレビのソースは地上波にインターネットテレビが加わった。
    さらに、Youtubeが加わろうとしている。

    ■スマートテレビ

    すでに発売されているが、地上波にBS、インターネットテレビにYoutube再生が加わったテレビをスマートテレビという。
    一部の専門家はスマートテレビの売れ行きは伸びないと言っているが、私はこれから伸びてくると思う。

    現在は地上波テレビよりYoutubeの視聴が多くなったとの発表があった。
    これから、Youtubeの影響でテレビは普通にYoutubeが見られるようになると思う。
    その理由は、Youtubeの動画のアップデータの容量が無制限であること。かつ無料であることだ。
    また商用も認めていることから、企業はタダでいくらでもコマーシャルを出すことができる。
    これは、現行のテレビ局にとっては脅威だ。

    ■教育の場での利用

    最近、文部科学省よりデジタル教材の利用を認めるとの報道があった。

    こういう話が出てくると、すぐ出てくるのが子どもにタブレット端末を使わせるという話だ。
    私が思うには、子どもにという前に教師自身がかなりのところまで使いこなすようになるべきだと思う。

    呆れるのはタブレット端末さえ配れば、それで活用が始まると考える人がいることだが、教材(ソフトウエア)を誰が作るのかという話が抜けている。

    教師になると、そういうことは誰か他の人がやれという考えになるのか?
    「例の先生」の発言は「自分がやる」という意向がなく、むしろ自分はどんどんやることを減らして、怠けることばかり考えているとうな気がする(だから「ぐうたら学」と言いたいのだが)。

    教材を作る手段として、いいと思うのがYoutubeである。
    学校がやる前に、すでに一般社会では先行している。
    学校の教師は止まっているのに、世の中の人々はどんどん先に行っているという感じだ。

    子どもからかなりの年配者まで、Youtubeの動画によっては「これは授業で十分通用する」と感じるものもたくさんある。

    Youtubeの動画制作にあたっては高価な機材は必要ない。というより、タダでできる。
    タダで作った動画をYoutubeにアップして、タブレットで受信すれば授業で活用する動画ができる。

    次の理科実験は有名な、でんじろう先生のもの。

    これはプロが作ったものだが、こんなにスマートでなくてもよい。

    次はカレーの作り方。
    これもしっかり作ってある。
    大学生がこういう実践をしている。
    現場の先生が停滞していると、あとから入ってきた新入りの先生の方が進んでいるということになる。


  7. 部活動でこそ理想の教育ができる(7) ~レシピだけ見せてもらっても?

    4月 23, 2016 by dolce

    教師の話で価値があると思うのは、実践して結果が実証済みのものである。
    いくらよさそうな架空の話をされても、実践されたことがないものは、手を出しにくいものである。
    語る方も、そういう聞き手の気持ちを汲み取って責任ある話をしてもらいたいものだ。

    テレビでは料理番組がよく紹介されるが、料理研究家は発表する前には念入りに研究して試作していると思います。
    そうしてできたレシピは、試食において満足されるものでなくてはならないのです。
    その評価が、料理研究家の人気にもつながるわけです。

    教師の実践も似たようなところがあり、やってみたこともないことを自信ありげに発表するということはないはずです。
    教育実践は相手が人間であるわけですから、特に架空の話であるはずがないと思っています。

    ここで注意すべきことは、実践すると言っても教師が違えば結果も違いが出るということが十分考えられるということです。
    ここは、私がオーケストラの指揮者を例に出すように、指揮者が違えば演奏も違うということです。

    だから「私がやってみたけど、結果が思わしくなかった」というのは、普遍性がなく「私がやってみた結果はこうだった」と謙虚にとらえるべきです。
    特に、若い先生が指導するときに、先輩の先生は「私も若い時はそうやってみたが・・・だめだった(から、あなたがやってもムダ)」などと気持ちをくじく発言は慎まなければなりません。

    私も若い時に、年配の先生から「私もやってみたけど・・・」ということを言われてことがあります。
    私はその言葉を耳にしながらも、黙々とやっていました。
    (もちろん、自信があったわけではありません)

    ところが、子どもたちの様子が目に見えてよくなっていくと、その先生はそれを見て「私にもそのやり方を教えてください」と言われました。
    私はこの言葉に感激しました。
    後輩になかなか言えることではないと思ったからです。
    その経験から、私も若い人の実践を頭から否定することのないようにと気をつけるようになりました。

    私も、例として料理で言うレシピを示しますが、もちろん実践済みの例を示します。

    ■子どもはテスト好き

    こう書くと変だと思う人がいるかも知れません。
    しかし、本当の話です。
    テストが「好き」とか「嫌い」というのはテストによるのです。

    柳生力 – ふえはともだち・ソプラノ・リコーダー教室

    をテキストにして、これを子どもたちに配り「練習して、先生にみてもらいたい人は来なさい」と言っておいたら、子どもはどんどん練習してくるのです。
    このテキストは1番から順に番号が振ってあります。
    子どもの演奏を聴いてやって、間違いがなく一定の基準の演奏に達したら「はい、合格」と言って合格の印を押してやります。
    すると、これが子どもにとってはとても嬉しいらしく、放課でも家でも時間があれば夢中になって練習します。

    88番までありますが、全部を終えてしまう子どもも何人か出てきました。
    練習は一切強制しませんが、自分からテストに申し出ない子どもは一人もいなくなりました。

    全然関心がないような子どももいましたが、実は内心では「やりたい」という気持ちはあったらしく、他のともだちに励まされて挑戦しました。
    テストを受ける様子を何人かが見守り、ついに「合格」という印をもらうと取り巻きの子どもたちも「バンザイ」と言って喜びました。

    ここでのポイントは、番号順にグレードが上がって行くものを合格すると、確実に自分が上達したということがわかる喜びがあること。
    また、その合格が「先生という権威」に認められたこと、この2つが子どものやる気を促進させているのだと感じました。

    すると、家庭では子どもは得意になって親の前で演奏するので、親の喜びもあるし、確実に上手くなっていくことを親も実感するわけです。

    子どもがやる気になった時の努力には、すさまじいものがあると感じました。

    グループを作って、子どもたちだけに任せればよいという「学び合い」の考えでは、絶対にこうはいかないとと思います。

    理由は、判定に「先生と言う権威」が必要だからです。


  8. 部活動でこそ理想の教育ができる(6) 〜社会的貢献

    4月 22, 2016 by dolce

    吹奏楽部はそれなりの活動をしていると、地域のイベントへの参加要請がある。
    イベントには音楽がつきものである。
    音楽が必要なら、CDで用は足りるが、イベントの主催者側としては生演奏の方を好まれる。

    それに、中高生が演奏するとなれば大人たちの喜びは大きい。
    加えて、生徒たちの成長を感じてもらえる機会でもある。
    音楽は演奏という形で、教育の力を示すことができるのがよいところである。

    生徒たちは、社会で貢献する場を与えられて、心が広くなる機会でもある。

    実際、音楽に子どもも大人もないわけで、出た音そのものが実力を表している。
    これは実技教科の良さであるとも言える。

    しかし、私は実技教科ではない、俗に言う五教科がダメだと言っているわけではない。
    勉強は、本来どの教科であってもおもしろいものだと思うのである。
    それが、受験で点を取ることだけに傾斜しすぎているのである。

    そして、その点数を実力と言ったり「勉強が好きなんて言う人はいません。でもやらなきゃ仕方がないんです」と学年集会で堂々と言っている学年主任がいた。
    私はこれには呆れた。
    じゃあ、先生と言うのは好きでもない勉強を、仕方なくやってきた人たちなのかということになる。

    受験が終われば好きでもない勉強をやらなくてすむのかということになる。

    ■音楽を通じて勉強のおもしろさを伝える

    ものごとを考えるとき、何でもバラバラに切り離して考える人がいる。
    そういう人は、頭の中がバラバラなのだろう。
    頭の中がバラバラなのは正に「分裂病」というべきかも知れない。

    「部活」ということで話をしているが「部活」という教科はない。
    音楽も音楽だけで成り立つものではない。
    国語、数学、社会、理科、英語(外国語)・・・と言った教科が支えていると言ってよい。

    音楽は楽しいから生徒たちは夢中になる。
    はたから見ると、他の勉強をやっていないかのように見える。
    だがそんなことはない。
    音楽以外の勉強がおろそかにならないから、親たちは許している。
    いや、むしろ勉強はよくやるようになったと言う。

    その上塾に行く必要もないから、誰も塾に行くことはなかった。


  9. 部活動でこそ理想の教育ができる(5)

    4月 21, 2016 by dolce

    ■教師は実践者でなければならない

    これは、斎藤喜博氏の言葉でもある。

    何年も教師を務めたのに、何も改善できなかったのなら、それは無能な教師の証明である。
    そういう教師は、プロ野球の選手が活躍できなかったら、自由契約となるように、さっさと別な道を考えた方がよい。

    中高生あたりの多感な時期は問題も起こりやすい。
    それは絶えず心が動いているからと言える。

    これは、指導次第ですばらしい能力を発揮する時期とも言える。

    「一人も見捨てない」は当たり前のことで、それが不可能というなら、すでに「見捨てられる者がいるのは仕方がない」と宣言しているようなものである。
    かつて、私はオーケストラの指揮者は教師の模範であるというようなことを言った。

    その道の経験者ならわかることだが、約100人のメンバーを要するオーケストラにおいて「一人ぐらいはどうでもよい」と言うことはない。
    オーストリアのウィーンフイル・ハーモニー管弦楽団は世界屈指のオーケストラとして、クラシックファンにも人気が高い。

    このオーケストラには女性のメンバーがいないことが特徴であった。
    なぜ女性がいないのかを楽団の責任者に聞くと「女性は産休で休むことがある。そうすると、同等のレベルの奏者を確保することが難しい」という返事であった。
    100人の中の一人代わってしまうと、全体の音色も変わってしまうのである。

    このような話しでなくても、部活動やクラスの運営も同じである。
    クラスで一人が欠席したら、クラス全体の空気が変わったと感じないような運営はどうかと思う。
    私が関係した部活はメンバーが70〜80人ぐらいだった。これを多いと感じたことはないし、いつも一人の漏れ無く頭の中にはメンバーの存在があった。

    野球は9人で試合をするが、吹奏楽部は全員がレギュラーである。
    だから、全員で音のバランスを考える。
    大勢いると、どうしても技術や音楽的センスにおいてばらつきはある。しかし、各人の特徴を掌握し全員が活躍できるように工夫をする。
    具体的には、楽譜を編曲することにより全体でバランスのとれた演奏になるようにする。

    こうして、全ての者が自分の役目、存在感を感じて参加することになる。
    それなりの音が出ることにより、生徒たちは、このスーザの名曲を自ら体験しすることにより、感動を得て心も浄化されていく。
    ここは「音楽の持つ力」「音楽のよいところ」である。
    次の演奏は三年生が卒業した直後の、残された生徒だけ(つまり1,2年生)の演奏である。
    (発表は保護者も招待して行いました。)

    これは自慢するために掲載したものではない。
    「教師は実践者でなければならない」とのもとに発表したもので、率直な批評をすると、中学校に入学して楽器を習い始めて1年経過した者と2年経過した者が半々であることを考えると、音がまだ荒々しいのはやむを得ないと思う。

    しかし、指導者の意図する音楽解釈を生徒たちはよく汲み取っていたと思う。
    それでも、音楽的に不十分なところを感じるのは、指導者の未熟さの現れである。

    指導者のレベルが高かったら、生徒たちにはもっとよい経験がさせられたと反省している次第である。

    私の教わった先生が「子どもはいいぞう・・・」と言っておられた意味がよくわかった。
    つまり、子どもは教師の言うことをよく守って、忠実に実行する。

    「子どもは百点だが、先生は・・・??」

    とすでに他界された先生の言葉が今も聞こえるようだ。

    感想、ご批評のある方は、どうぞ忌憚のない言葉でコメントください。


  10. 部活動でこそ理想の教育ができる(4)

    4月 20, 2016 by dolce

    ■部活動の運営

    部活動の運営は大きな鍵を握る。
    部活動に熱心な教師は、練習時間の確保は課題だろう。
    しかし、生徒がいやいや練習をしているのでは練習の成果は上がらない。

    いやいや練習というのは、本来はないはずである。
    なぜなら、部活動は好きで選んだはずだからである。
    しかし実態は、好きで練習しているとは限らない。

    それはマンネリ化や、一つのことを続ける難しさである。
    部活動内での人間関係の問題や指導者の運営の問題。
    運動部であれば、レギュラーになれないと感じた時の挫折感。
    部活動が衰退する理由はたくさん存在する。

    外部から見ていただけでは、わからない問題は存在する。

    教師としては、こういった部活動が弱体化する問題化を克服してこそ、優秀な指導者と言えると思う。
    問題が存在するのは当たり前、原因は生徒に原因があると放置している指導者は無能と言わざるを得ない。

    放置する理由としては、部活動の目標を「勝つこと」だけに指導者が重きを置いているということもある。
    しかし、部活動が教育活動として意義あるものとするには、こういった問題に積極的に取り組むことこそが大切である。

    そのためには中高の思春期には、この時期の難しい心理状態をよく捉えて、生徒たちがいつも前向きな姿勢になっていくための運営が大切である。
    次回はその取り組みについて、紹介してみようと思う。