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3月, 2016

  1. 尊敬されていない人の言葉は軽い

    3月 31, 2016 by dolce

    生徒が、教師の言ったこと聞くとか聞かないとか、よく問題になる。
    特に生活指導で問題になるのは「確かに指導した」「確かに言った」ということである。
    教師の立場からすれば、確かに言ったのになぜ聞かないのかという不満がある。

    しかし、私が疑問に思うのは「言えば」指導になるのかということである。
    学校は軍隊とは違う。軍隊なら「上」から言われたことは聞かねばならない。
    学校も上の立場の人からの「言うこと」は聞かねばならないが、先生(教師)と児童・生徒という関係は、ちょっと違うのである。

    児童・生徒は機械的に割り振られた組織に所属し、そこに児童・生徒に選ばれたのでもない先生(教師)の下で指導を受けることを強制される。
    「児童・生徒は先生の言うことを聞くべきだ」と形式を強調したところで、児童・生徒にしてみれば、それで心がついていくとは限らないのである。

    だから、児童・生徒にしてみれば気にいらない環境に強制的に所属を宿命づけられたところでも適応しなければならないので、一応聞いたふりはする。

    このことは、かつてプロのオーケストラの指揮者が、つくづく語ってくれたことを思い出させる。

    プロの指揮者はよくもって、せいぜい2年ぐらいですよ。

    との言葉である。

    オーケストラと初対面の時、メンバーの半分は好感を持って迎えてくれても、あとの半分は初対面にも関わらず反感を持っています。
    反感を持っている連中は、アラ探しを始める。
    アラ探しをされてもつ指揮者はせいぜい2年ぐらいなんですよ。

    この言葉は私には重く響いている。
    だから、私はこの言葉を以後、教訓として受け入れている。

    オレは先生だといくら威張ってみても、児童・生徒は何とも思っていない。
    一応、権力者だから、損しないように「聞いたふりをしておく」ということは多々あると思った方がよいのである。

    では、児童・生徒はどういう先生(教師)の言葉を聞くのか?

    それは、自分にとって重い言葉を言う人の言葉を聞くのである。
    尊敬する先生の言葉は重い。
    逆に、反感を持っている先生の言葉は軽いのである。


    「少年よ大志をいだけ」

    と言ったところで、クラーク博士ほどの人ではない人の言葉は軽いのである。

    ゲーテは、死の間際に

    「もっと光を」

    と言ったそうだが、弟子たちはこの言葉重く受け止め、その意味を一生懸命考えたそうである。

    しかし、ゲーテは周りが暗かったので、カーテンを開けて明るくして欲しいと言ったのが真意ではないかという人もいる。

    「もっと光を」と言っただけで、人々が考えるほど、ゲーテの言葉は重かったということだろう。


  2. タブレットさえ渡せばICT教育が進むのか?

    3月 30, 2016 by dolce

    tablet教育について意見を言う時は、責任を持って発言してもらいたい。
    教育関係者なおのこと。

    無責任発言の例は、子どもにタブレットを渡せば、子どもがICT教育を自主的に進めていくというもの。
    本当に実践してみた人はいるのか?
    そういう自分は、どれほどタブレットを使ってみたのか?
    使ってはみたが、これは自分の手におえるものではないと放棄したのか?
    でも子どもに任せれば、子どもは何とかする?

    こういうことなのか?

    タブレットでICT教育が進むと言いたいなら、まず自分からタブレットを使ってみることだ。
    「言われるまでもなく使ってみた」と言うなら、どの程度使ってみたのか?
    教育現場で使うことを意識して使ってみたのか?

    子どもにモノを与える場合、まず大人が確認して与えるのが当たり前だ。
    私が不愉快に思うのは、確認もせず、ただ子どもに丸投げすれば、子どもが何とかするという考えではないかということだ。

    タブレットはiPadとAndroidがある。
    使ってみると、使い心地は少々違う。
    どちらを採用するかの判定は「見た目」「気分」では無責任。
    判定の根拠はきちんとしていなくてはならない。

    間違っても、業者との癒着を疑われるようではいけない。
    どちらにしても、充電(電池)、パスワード、教材用のソフトはどうするのかを解決してからでないと先には進めない。
    タブレットというモノだけ子どもに与えればよいなどと、幼稚な考えの人はいないと思うが、アプリ(ソフト)の開発には教師が関わらなければならないだろう。

    タブレットを教育にと意欲的な人は、まずこれらの問題解決の提案と、自らの実践を示してもらいたい。


  3. 全日空の教訓

    3月 28, 2016 by dolce

    今月22日、全日空はシステムのトラブルで搭乗手続きに支障を来し、約2万人の人々に影響を与えた。
    社会がコンピューターに依存し便利になるほど、一旦、不具合が生じるとその被害は大きい。

    自動車は間もなく自動運転が実現するということだが、これもすばらしいことである。
    これもコンピューターを使っている以上、故障することがあるということを、忘れないようにしなければならない。

    教育の必要性は「便利なものが失われた時どうするか」が課題の一つだと思う。
    だから、便利さだけを享受する考えは教師がとる姿ではない。

    自動運転が故障したらどうする?
    文句だけ言っていても始まらない。
    常日ごろから、非常時の手段を考えておかねばならない。

    近年、野犬を見なくなったが、私の子どもの頃は田舎で野犬をよく見た。
    野犬のいる街はよくないが、飼い主のいない犬たちは次第に群れとなり、リーダーが統率して暮らすようになった。

    犬はもともと狼と同じ系統で、集団で協力して生きていくという血が流れているらしい。

    野犬が珍しくなり、ペットとして人間に溺愛されるようになった犬は、何らかの事情で飼い主を失うと、もはや自活はできなくなっているという。

    便利な社会は、人間に似たような状況を作る。

    飛行機がダメなら鉄道を、鉄道もだめなら・・・と次々と案が浮かばなければならない。
    いや、そのぐらいならまだいい。交通手段が全てだめなら歩くしかない。

    もっと根本的な問題がある。
    私たちの社会を支えている、大きな基盤としての電気である。
    当たり前のように使っている電気だが「電気がない」という状況も考えて置くべきである。

    時に、一切電気を使わない日というのを設けるといいかも知れない。
    そういう設定をすることは、子どもに対してもいい教育になる。

    バカな教師は、便利なものに頼ることばかり考えて、自身は怠け者になる。
    「もし・・・がなかったら」を教えられない教師は教師ではない。

    「翻訳機が進歩するから、外国語の勉強は必要ない」というのは、典型的なバカ教師である。
    翻訳機が出回り、便利に利用するのはよい。だが、その翻訳機が故障したら、外人とコミュニケーションができないでは話にならない。
    いや「この翻訳機、訳がおかしい」と判断できるためにも、一層の勉強が必要になるのだ。

    最近は碁や将棋でコンピューターが人間に勝つようになった。
    だから、碁や将棋はコンピューターに任せればよい、ということにはならないだろう。
    そんなことをしたら、プロの棋士は要らなくなる。

    そうではなく、コンピューターに負けないような力を持たなければならないのだ。
    これからの子どもを教育するには、これまで以上に優れた教師が必要になるということなのだ。

    全日空のトラブルを避難するのではなく、モノに頼り過ぎの人間に警告を与えてくれたと考えた方がためになる。


  4. ショーンKのような人はいる

    3月 25, 2016 by dolce

    TV局が偽の経歴に騙されるとは情けない。
    別な見方をすれば肩書とはそんなものであるとも言える。

    佐村河内守(さむらごうち)氏も思い出すが、本物の作曲家かどうか見抜けなかったのもTV(マスコミ)だった。
    取材陣は音楽的素養がなかったのだろう。
    いかにも音楽家であるように装ったほうも、大した役者だったかも知れないが。

    ショーンKから学ぶことは彼の演技の巧さではなく、こういう演技の上手い人間は他にはいないだろうかということ。

    私の知る限りでは、何人か思い浮かぶ人物はいる。
    と言ってもショーンKと比べてどうかと考えた時、ショーンKのような巧みさを100とした場合、どのくらいの位置になるものかと「ショーンK度数」という物差しを考えてみた。ショーンK

    ■心に潜むショーンK度

    人の心の中を直接見ることはできない。
    では自分の心の中はと自問自答した時、0と言えるかどうか?

    0と言いたいところだが、正直0とは言えないのである。
    0と言えないのは多少なりとも見栄があるからだろう。

    こういうところは、自分で自分が嫌になるところである。
    嫌だと感じるからら、このショーンK度が100度の方向にいかないように、自分を戒めるのである。

    ■ショーンK度が高くなれば苦しくなる

    知人にショーンK度の高い輩がいる。
    卒業したと言いふらしている大学が5つはくだらない。
    自称指揮者と言っているが、その指揮ぶりを見ていると、とても音大を卒業したと思えない。

    なのに自称指揮者を名乗って平気なのは、本人自身が、指揮者はどういうものかがわかっていないからということもある。
    私は高校時代の恩師に会った時「指揮者は必要なものなのか?」と質問されたことがある。
    恩師は教養もある方だ。
    そういう人でも、指揮者の必要性がわからないぐらいだから、一般には指揮者の役目はわからない人は多いのだろうと想像する。

    自称指揮者氏のつけ目はそこなんだろう。
    大抵の人は、指揮者なんて何をやっているのか知らないだから、らしいような真似事をやっていればごまかせるという心理なのだろう。

    しかし、指揮も本物ではなく真似事だし、いくつか卒業した大学とかいうホラも、ショーンK氏と同じだから、本物の指揮者や音大出と会いそうな場には出られなくなる。

    内心は穏やかではない場面が増えてくるのである。
    彼氏の行く末はショーンK氏と同じような結末になると予想する。

    ■正直が一番

    見栄を張ってホラを吹いていると、時に本当に信じてしまった人に仕事を頼まれてしまうことがある。
    その時は仮病を使うか?
    でも、その手は何度も使えないだろう。
    だから、見栄も張らないことだし、買いかぶられないように気をつけた方がいいと思う。

    ■ネットは危険

    ネット上の掲示板やブログは見栄を貼るには都合のいい場所だからと言って、ショーンKにならない方がいいと思う。
    ほとんど知る人は少ないだろうと思っても時には「本物」が見ている。
    本物氏から見たら、リアリティのなさを見抜かれる。

    ネット上ではわからないと思っても、結局正体がバレて、書けば書くほど信用低下となるのだ。
    第一、掲示板やブログは記録が残るのだ。


  5. 敵は本能にあり

    3月 23, 2016 by dolce

    タイトルを間違えたわけではありません。
    敵は「本能にあり」です。

    教育の正常化を訴えて、いろいろな人がいろいろなことを言っています。
    その多くは、うまく行かないのは自分以外の他人が悪いというものです。

    そういう意見は、まともなことを言っているようで、どこか不純なものが隠れています。
    それを私は「本能」と言っているのです。
    正確には本能というより「不順な欲望」と言った方がよいのかも知れません。

    ■心は変えられるか

    突き詰めるところ、結局、教育は心ということになると思う。
    知徳体の「徳」の部分である。
    しかし、この3つは相互に関係しあっている。

    その相互関係はひとまずおいて、徳の範疇である心は変えられるものだろうか?
    教えられる対象の児童・生徒ではなく教師の方の話しである。

    子どもは時に悪いことをするが、その時嫌味をたらたら言って怒る教師がいる。
    教育実習の時「叱り方がさみだれ式になるのがいけない」と言われたことを覚えている。
    いつまでも嫌味ったらしくネチネチと怒っているのを見るのも気分が悪い。

    悪いことをしたら、した方が悪いに決まっているが、ネチネチやっていると、かえって反感を買う。
    反感を買っては逆効果だ。

    こういう教師はこの「心」を変えられるものだろうか?

    教師だからといって模範的な人間ではない。
    人間としての歪を抱えている。

    だから、自分以外の子どもをターゲットするのではなく、自分の歪を是正すべく、自分に向かうことが大切だと、私は思うようになった。
    だから「敵は本能にあり」なのだ。

    高校へ進学した生徒がやってきた時、ある生徒は、毎朝担任が嫌味を言うのが嫌だと言った。
    「そんなことじゃ大学は受からんぞから始まり、毎朝、愚痴のような小言を言われるとやる気がなくなる」と言っていた。
    恐らく、言っている担任も気がついているのだろうが、やめられないのだろう。

    奥さんとうまくいかないなどの家庭不和が出ているのかもしれない。
    そういうことだと、いいやすい生徒たちの前でストレス発散しているようなものだ。

    いいやすい者の前でストレス発散するのは「いじめ」と同じ心理である。

    ■二十四の瞳

    私は先生の模範というと、この小説の大石先生のことを思い浮かべる。

    大石先生に特別指導技術があるわけではないが、子どもたちは大石先生に惹きつけられていく。

    「何にもしてあげられないけど・・・」

    と、大石先生の無力感が出てくるところがある。

    そう、先生は何もできないんだと思うけど、大石先生は大きな力を持っている。
    それは「心を動かす力」だ。

    二十四の瞳は映画化され、反戦映画と言われたが、私はどうしても教育映画と思ってしまう。
    現代に必要な先生は大石先生ではないだろうか?


  6. 教師の中に人の不幸を見て嬉しい奴がいる

    3月 22, 2016 by dolce

    こんなことを軽々と言えるものではない。
    しかし、事実なのだ。残念ながら。

    教師の中には「自分の点数が気になってしょうがない者」がいる。
    目立ちたがり屋で「出世」に燃えている。

    そもそも、出世を目的で教師になるというのがいただけないが、いるのである。
    かつて、大々的にニュースになったどこやらの県を思い出すが、教育委員会をも巻き込んで、採用や出世のための工作が話題となった。
    出世のためのキーマンを招待し、おもてなし。

    バレる緒(いとぐち)は「金券」だった。
    あまりにもたくさんの金券が交換されようとしたので、警察に通報され、そこからバレることになった。

    何よりもまずいのは、こういうことをやるから次第に心が蝕まれていく。
    こういう工作がうまく行って校長になった者もいる。

    校長になったらさらに教育長を目指す。
    そのためには、よい学校経営をしていると見せかけねばならない。

    「お宅の子どもさんですけど、もうずいぶん長い間学校を休んでみえますので、除籍したいと思います」

    校長直々に保護者に連絡をする。
    母親は怒り狂っていた。

    なぜ除籍にしなければならないのだ。

    「うちの学校には不登校の生徒は一人もいません」

    と言いたいのだ。

    いあじめもそうだ。
    「うちの学校にはいじめはありません」

    と言いたいのだ。

    教育畑にいるのに、人の立場を考える心を持っていない。
    はじめからこうなのか?

    こういう垢にまみれてこうなっていったのか?

    人の立場に立てないだけでなく、次第に、人が死んでも不感症になる。

    生徒が死んだ時「お宅の子どもさんには、私はずいぶん親切にしましたから私のことは責めないでください」と親に言った、どうしようもないバカ教師がいた。

    教育委員会に務めたことがあると自慢するバカもいた。

    (現場で使えないから、子どものいない教育委員会に左遷されたのだ)

    人の不幸を見たり知ったりすると、精神的に落ち着くらしく、毎日アラ探しに熱心だ。
    そして「子どものために」と心にもないことを平気で言う。


  7. 人の不幸を見て嬉しい人は狂っている

    3月 20, 2016 by dolce

    The person who sees and appreciates others’ unhappiness is mad.

    科学が進歩していろいろなことがわかってきた。
    人間の体の仕組みについても、かなり解明されてきた。
    しかし「脳」については未知の部分が多い。

    中でも精神(心)の部分は非常に難解だ。
    脳内にはニューロンと呼ばれる神経細胞が、情報の伝達を行っていることが知られている。
    伝達と言っても、単なる伝達ではなく「情報の修飾が行われる」とあるので、元の情報がそのまま伝達されるわけではないのだ。

    快不快などの刺激を喚起する仕組みも情報を仲立ちとして行われるのだが、快感を感じるのは快感を感じる部分があって、そこを刺激することで感じるらしい。
    話題になっている薬物は、快感を感じる組織に取り付いて容易に離れないらしい。

    これは健全な状態ではないが、薬物によらないでも、他人の不幸を見て快感組織が刺激されるのも人として異常だと思う。
    いじめが問題になっているが、いじめの当事者は人をいじめることによって、快感組織が刺激されているのだろうか?
    また、いじめを目撃している人間はどうであろうか?

    いずれにしても、他人の不幸を見ると嬉しいという感覚は正常とは思えない。
    ことさら、他人の不幸、欠点を探したり暴き立てている人は、その行いによって快感組織が刺激されているのではないかと思える。
    この状態がやめられない人は、薬物常習者と同じではないか?

    こう見てくると、法律に触れないだけで、人の不幸を暴き立てることが常習化している人は、薬物依存症と同じだろう?

    [参考] 他人の不幸を喜ぶ性格の人の心理や特徴3選


  8. 人間も磨かないと錆びる

    3月 19, 2016 by dolce

    When man doesn’t refine, either, it rusts.

    最近、相次いで巨匠と言われる指揮者が世を去った。
    ピエール・ブーレーズ、ニコラウス・アーノンクール、ともに90歳前後。

    指揮者に限らず、芸術家、研究者の頭脳は年を経ても衰えない。
    最近の研究では、人間の寿命は150歳ぐらいまで伸びるとされていた。

    30歳ぐらいで脳が衰えるか成長を維持するかは、個人の生き方の差のようである。
    体も適度の運動を行わないと、体力が落ちるように脳細胞も鍛えないと衰えるようである。

    大人と子どもを比較して「子どもの方が・・・」という言い方をし、如何にも大人が劣っているような言い方をする人がいるが、それは大人対子どもではなく、個人の生き方の問題である。

    人は誰でも、子どもから大人へという過程を経る。
    大人になると、みな子どもより劣るようになるわけではない。

    子どもは良い大人の指導者に会って、ますます能力を高めるわけである。

    運動嫌いは体力が衰えるように、勉強嫌いは脳が衰える。
    脳細胞は機械と同じように、使わないと錆びる。


  9. 肩書に踊らされる方も悪い

    3月 18, 2016 by dolce

    放送局は何を持ってコメンテーターに採用したのか?

    私の知人に似たようなのがいる。彼は私のことを何と言っているのかわからないが、私は彼から友人とは呼ばれたくない。
    しかし、彼はいろいろな方面から「偉い人」と思われている。

    それは、彼の饒舌と話のうまさによる。
    彼の学歴詐称も相当なものであるが、まるでプロの俳優のように臆面がない喋り方に騙されてしまう。

    もっとも、肩書はどうあれ話に中身があればよいのだが、どうも日本人は肩書に弱いとされるせいか、肩書を武器に多弁になるようだ。

    私は「報道ステーション」はよく見る。
    それは、ファイナンシャルプランナーの肩書を持っているため、特に経済の流れを知っておくことが大切と思うからである。
    ファイナンシャルプランナーという肩書があるからどうということはない。
    大した資格とは思わないが、持っていないのに、名乗れば経歴詐称になる。

    今回問題になったKという人の話は好きでなかった。
    なぜ人気があったのか不思議に思うほどだ。

    容貌と低音の声?
    じゃあ経営コンサルタントというよりタレントだろう。

    経営コンサルタントという肩書だけで通せばよかったのだ。

    経営コンサルタントという公的資格はない。
    だから、誰が名乗ろうと問題はない。

    私が知っている人にも、経営コンサルタントと名乗っている人がいる。
    派手な名刺を持って、20社ほどの中小企業をまわって、一社につき顧問料が10万だから月200万の収入があることになる。
    彼の武器は元銀行員で、銀行はクビになったのだが、銀行がどうすると金を貸すのかというような内部のことを知っていることだ。
    あとは会社をまわって、指導ということだが、言っていることとは、せいぜい「挨拶の声が小さい」という程度のこと。

    中小企業の社長は社員に遠慮があるせいか、大胆なことは言えないそうだが、ハッタリの経営コンサルタント氏はズケズケ言いたいことをいうので、切るところは切って、結局、赤字が解消されるので社長は大満足なわけだ。

    何も法的に悪いところもなく、成果をあげているので文句の言いようはない。

    K氏の場合は話に中身がない。
    しかし、美辞麗句を並べ立て、時折、仕事をやっているようなことを言うので騙されてしまうのだろう。

    大体、中身のない話をする人は実体がない。教師で言えば実際に授業(指導)をしていない。
    だから、話が抽象的である。
    以前、自称音楽プロヂューサーと言う人が掲示板に登場した。
    音楽プロヂューサーならスタジオ定番のマイクやモニターの型番ぐらい知っているはずだが、その話を持ち出すとはぐらかしてしまう。つまり、抽象的にしかモノが言えないのだ。

    ネットの世界では顔が見えないことをいいことにし、詐称は多い。

    しかし、世の中には詐称しようにもできないものもある。

    例えば音楽家や指揮者がそうである。

    「指揮者になるにはどうしたらいいですか?」

    という質問があった。

    回答は

    「オレは指揮者だ」

    と名乗ればなれますというものだった。
    「じゃあ、やってくれ」
    と言われた時、やれるかどうか?

    学歴や経歴詐称にひっかからないようにするには「実際にやってもらう」「見るほうが識別するだけの力を持つ」ことだ。

    音楽なら「◯◯賞」などの経歴を見なければ、演奏の良し悪しがわからないのは情けない。


  10. パケット通信と学校教育

    3月 17, 2016 by dolce

    テレビの放送が地上デジタルという方法になってから、通信の方法が「パケット通信」になったことは多くの人の知るところとなった。

    学校の教師が気をつけなければならないのは、よく「世間知らず」と言われることだ。
    教師はなぜ「世間知らず」となってしまうのだろう?

    原因は世間と情報が隔絶されることだろう。
    では、なぜ情報が隔絶されるのか?
    それは学校という限られたエリアに囲まれてしまうことだろう。
    しかし、学校は檻(おり)ではないので、自由に情報は得られるはずだ。

    情報から隔絶された「情報難民」となってしまうのは、教師自身の暮らし方による影響が大きいのだろう。
    教師という立場は「親方日の丸」と言われるように、収入の心配がない。
    そういうこともあって、陳腐化した知識の切り売りを続けているだけで、生活がなりたって行くことになる。

    その上「先生、先生」と言われ続け、偉くなったと錯覚してしまう
    そうこうしているうちに、頭の中は「浦島太郎」状態になるのだろう。

    パソコンが出回り始めたころ、教師もパソコンを使って事務の合理化を試みた人たちがいた。
    例えば、成績処理である。

    言語はBASICが多かったと思うが、BASICも進化し現在はMicrosoftのVisual BASICになっている。
    しかし、現在のVisual BASICは初期のものとはまるで違う。

    インタープリターから、今はコンパイラを使うのが普通になっている。

    初期のプログラミングは、始めから終わりまで一直線に処理を書くのが普通だったが、次第にいくつかのモジュールに分割するようになった。

    モジュールは小さなプログラムのかたまりである。
    プログラムは、通常「入力」「処理」「出力」と大きく分けられるが、それぞれの部分をモジュール化し独立して機能するようにすることで、いつも全てをプログラミングすることなく、自分は「処理」の部分のみをプログラミングをし「入力」「出力」の部分はすでにプログラミングされているモジュールを持ってくればよい。

    このような、効率的なプログラミングが進むうちに、言語自体もモジュール化が進むようになった。
    有名なC言語もC++言語という「オブジェクト思考」という言語に進化した。

    オブジェクト思考を簡単に説明すると、言語内にはプログラムの原型となる型紙のようなプログラムがあり、プログラマーはその型紙をコピーしてきて仕様に合うように改変して使うということである。

    C言語自体も現在使われているが、C++のようなオブジェクト思考言語が多用されるようになってきた。

    ここで言いたいことは、プログラミングそのものの話ではなく、モジュール化の話しである。

    以下は文部科学省の6.教育課程の基本的な枠組みに掲載されている文で「モジュール」が使われているページである。

    ○      なお、増加した年間の標準授業時数をどのように確保するかについては、教育委員会や各学校の裁量により、それぞれの学校や児童の実態等を踏まえ、
    ・      週当たりの授業時数の増加
    ・      教科教育の一環として朝の10分間等に行われる読書活動、ドリル学習の活用
    ・      1単位時間を変更したモジュール学習(注7)の活用
    ・      長期休業日の短縮
    など、多様な取組を行うことが考えられる。

    (注7)      モジュールは時間等の「単位」を意味しており、モジュール学習とは、10分、15分などの時間を単位として、取り組む学習形態である。

    「モジュール」もそうだが、分割して効率化をはかるという意味では、この記事の始めにお話をした「パケット通信」も同じである。
    モジュールと少々意味合いが違うのは、パケットというのは「小包」という意味で、データをいくつかの小包に分割して送ろうというのが「パケット通信」である。

    従来の通信方法だと、送信中に事故で途切れると全体がダメになってしまうが、小包にすると、事故が起きても一挙に全部がダメになるという確率が少なくなる。

    この考えを取り入れれば、まとまった時間が取りにくい場合でも、指導をいくつかの部分で区切っておくことで、短い時間を有効に活用することができる。

    放送大学にはこの考えが盛り込まれている部分もあり、仕事を持っている人が自分の自由時間、隙間時間を活用して学習することができる。
    担当講師も、一教科の中で複数の教師が分担していることが多い。
    それぞれの担当が「モジュール」と見ることもできる。

    ただし、モジュール化を考えるとこれまで以上に、学習の計画化、指導案は大切になってくる。