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1月, 2016

  1. パソコンで文章を書くときは何で書きますか?

    1月 31, 2016 by dolce

    Wordですか?
    WordとはMicrosoft-Wordのことですが、一太郎という方もみえるかもしれません。
    Macintoshをお使いの方は、また違ったワープロかもしれません。

    いずれにしても、通(つう)と言われる人になると、文章はエディタを使う人が多いようです。
    今日では、ワープロといえばWordが当たりまえのようではありますが、なぜエディタなるものを使うのでしょうか?

    エディタの最も簡単なものは、Windowsでは「メモ帳」なるものがついています。
    エディタはテキストエディタというのが正式な呼び方と言えますが、これも理由があります。

    普通は文章を書くにはWordで済むことが多いと思いますが、私はなるべくテキストエディタを使って欲しいと思っている者の一人です。

    テキストエディタはどこで手に入れるの?ということになると、フリーのソフトでいいものがたくさんあります。
    例えば、TeraPadで検索してダウンロードすることができます。
    有料では昔から有名なものはMIFESとか秀丸(ひでまる)と言ったものがあります。

    自分の周りでエディタを使っている人がいたら、いわゆるパソコンに強いと言われる人かも知れません。
    もちろん、エディタを使うということはそれなりのメリットがあるわけです。

    パソコンのトラブルがあった時、エディタを必要とすることがありますが、エディタがパソコンに入っていると手間が省けます。
    エディタが入っていると、インストールする手間が省けて楽です。
    そういう意味でも、エディタの普及を願うものです。


  2. 情報が足りない現象の影響

    1月 31, 2016 by dolce

    子どもの頃、月刊誌で見た思い出だが、惑星の説明におもしろいものがあった。

    火星には火星人がいて、想像図は頭が大きくて足が細く書かれていた。
    説明には、あれほどの運河を作るのだから、火星人は頭がいい。
    だから、頭が大きい。
    足が細いのは地球より引力が小さいので、体重を支える足は発達していない。
    と、このように説明がしてあった。

    そのころは、なるほどと思って読んでいたが、その後情報が増えて、この考えは登場しなくなった。
    笑ってしまうようなことだが、あるだけの情報で合理的に考えるとそうなるのだということを習った。
    これも勉強になったことである。

    まだ人類が解明できないことはたくさんあるが、義務教育で習ったような基礎が身についていれば、そんな考えには至らないということを最もらしく語るのは、大人としては恥だと思う。

    例えば、オーディオの好きな人の中には、自称、権威を名乗るような人がいて、ある人は「ケーブルはむしろ細めがよい」と言っていた。
    これだけなら、好みの問題で片付けられるのだが、その後がいけない。
    細い方が電流が速くて、音にもスピード感が出ると言うのだ。

    「ケーブルが細いと電流が速い」というのはいただけない。
    そんなわけはないのだが、この人の主張では、水道のホースも握って水の出口を細くすると、勢いよく水が出るからと言うのだ。
    こう言うと納得してしまう人がいるかも知れない。

    しかし、ケーブルが細くなるということは断面積が小さくなるので、抵抗は大きくなるので電流は流れにくくなるということは、オームの法則からすぐに想像できることである。

    子どもの場合、おかしいと思ったことはすぐに「おかしい」という傾向にあるが、大人の場合そうはいかないこともある。
    それは「おかしい」と言うと「自称権威」の名誉を傷つけてしまうという配慮があるからだ。

    この例の場合は「情報が足りない」というより「本人の勉強が足りない」と言うべきだろう。

    大人の集まりの場合、権威というか偉い人の発言には気をつけて発言しないと「名誉を傷つけた」ということになって、出世にも差し支えることがあるので、気をつかう人がいる。

    ブログを書く場合も、事前に調べてあまりにも常識的な誤りをしないように気をつけた方がよいと思うが、それでも間違いをすることはあるだろう。
    特に、よくない意味での偉い人になってしまうと、誰も注意してくれなくなるので、つまらん権威を振りかざして自分をガードしないようにしたいものだと思っている。

    私は中高生を教える時は、極力モノが言いにくい雰囲気を作らないようにしようと思っている。
    だが、初対面ではどんな人かわからないせいか、緊張して静かである。
    それでも子どもがおもしろいと思うのは、2回3回となってくると、遠慮のない物言いになってくる。

    私はそれでいいのだと思っている。
    それは、リラックスした環境でないと、全力で学ぶということにはならないからだと思うからである。


  3. 価値あるブログは作者の情報収集力次第

    1月 30, 2016 by dolce

    無数と言えるほど存在するブログの作者は、どんな意図で文章を書いているのだろう?
    そんな作者の意図がわかるはずがなくても、言えることは文章の元となっている情報があるということだろう。

    では、その情報はどこにあるのだろうか?
    いや、情報はどこかにあるのだろうが、情報があるだけで作文はかけるものではない。

    作者が存在する情報を収集しなければ、作文のもとにはならない。

    そうすると、作文は作者の情報収集能力が大切である。
    大切であるというのは、収集能力だけで作文が書けるものではないということも含んでいる。

    収集した情報を自分の分析力、意見、感動などと合わせて組み立てる作業が大切である。

    ともあれ、情報がなければ始まらない。

    だから、情報を得るための作者の活動というものが大切になってくる。

    友人にお寺の住職がいる。
    歴史的に由緒あるお寺である。
    ある日、そのお寺にいると、来客があった。

    お寺の歴史を調べている社会科の先生であった。
    先生は自分の興味から、休みを利用して史跡を調べている人であった。

    学校の先生と言えば、よく世間知らずの代表のように言われたりするが、先生もいろいろで「親方日の丸」をいいことに、学校の先生というテリトリーからほとんどでるようなことのない人から、この先生のように自らの足で取材というか、情報収集をする人もいる。


    自分の趣味でと言っても、お寺を訪問すれば、住職を始め居合わせた人たちと話をしたりして交流を深めたりすることにもなる。

    「先生をしてみえるのですか・・・」

    などと、話が始まり個人的な話題から、学校の話に発展することもある。

    私の参加している英語のクラブには様々な職業の人がいる。
    外国人もいて国際的でもある。
    学校の先生もいて、こういう人はじっと閉じこもっている人と違って、情報はたくさん持つことになるだろう。

    歴史を学ぶと気づくことだが、石器時代や縄文時代といった古い時代は記載事項が少ない。
    少ないが時間はすごく長い。

    現代に近づくと、古代に比べ短い時間に記載事項は多い。
    これは、社会の進み方が加速しているとも言える。

    だから、学問と言うものは、基底に流れている精神性といったものは変わらなくても、それ以外の社会の移り方は加速度的である。

    これは、過去の業績などは記録に残ったとしても、すぐに古くなってしまうということである。
    だから、私は「過去の栄光を引きずっている」のは馬鹿と言いたいのである。

    特に、自分で勝手に偉くなってしまうと、他人がモノを言ってくれなくなるので、時代遅れの情報が修正されない。

    研究心の旺盛な人は、自らの足で世界中を回ったりして情報を得ている。
    ちょうど、今日のテレビで「世界中で一番美味い牡蠣は」なんてことをやっていた。
    そうしたら、ある大学の先生が出てきて、アマゾンのマングローブで捕れる牡蠣だと言っていた。
    この先生は、牡蠣を調べるためにために26カ国を回ったそうだ。

    ブログの中には「そんなバカな」と言いたいものもあるが、そういう時は作者の情報収集源を探ると、なるほどと思う時がある。

    全ては妄想なのだと思えるものもある。

    自分も妄想を書いてはいけないと、気持ちを引き締める次第である。


  4. いつも先生を求めて学ぶ必要がある

    1月 28, 2016 by dolce

    これは、私自身が感じたことで、人に強いるものではない。

    「いまごろこんなことに気がついたのか」と思うのが人生かも知れない。
    「先生が必要」と言えば、思い当たることがある。

    イザイという歴史上有名なヴァイオリニストがいた。

    ウジェーヌ=オーギュスト・イザイ(Eugène-Auguste Ysaÿe, 1858年7月16日 リエージュ – 1931年5月12日 ブリュッセル)は、ベルギーのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。
    1886年にブリュッセル音楽院の教授に就任し、後進の指導にも力を入れた。弟子にはナタン・ミルシテイン、ジョーゼフ・ギンゴールド、オスカー・シュムスキー、ウィリアム・プリムローズなどがいる。

    没後の1937年からはイザイを記念した「イザイ国際コンクール」が開催され、これはエリザベート王妃国際音楽コンクールの前身となった。フリー百科事典「ウィキペディア」より

    当時としては世界的に知られた音楽家である。

    私が中古ショップで手に入れた、ナタン・ミルシティンというヴァイオリニストのブラームスのヴァイオリン協奏曲がある。
    今では素晴らしい演奏のレコードが300円ぐらいで手に入ったりする。
    すばらしい演奏であった。

    ミルシティンはすでに押しも押されぬ、ヴァイオリンの名手でいまさら先生につく必要ないというほどの人であったが、驚いたことにまだ自分は足らないところがあると思っていたのだろう。何人もの先生に習った上にイザイに教えを受けるためにベルギーまで行った。

    そこでは、イザイに「君に教えることが何もない」と言われた。
    彼の才能を裏書される結果になった。

    ■天狗になった時は進歩が止まるとき

    高校の時の数学の先生が言った言葉

    「君たち、大学を卒業したらゴールではないよ。そこからがスタートなんだ」

    この言葉も忘れられない。

    今、実感しているからだ。

    スタートといえば、中学校でオームの法則、電圧=抵抗✕電流(V=RI)を習うのだが、簡単な式なのでその後軽んじてしまいやすいが、結局これは非常に大切な式なのだと実感する。

    電気製品を作っている会社では、部品の値を決めるのに実際はこの式を使わず、実験によって決めている。
    ではオームの法則は必要ないのかと言えばそうではない。
    膨大な数の実験をするのだが、結局、簡単なオームの法則は拠り所になっている。
    基本は重要なのだ。

    音楽では初心者の時は、音階が大切だと先生に言われる。
    そして、音階練習をするのだが、これはおもしろみがないこともあって、単なる通過点ぐらいにしか思わなくなる。

    だんだん難しい曲に取り組むようになり、単純な音階練習など顧みなくなるが、進歩が止まったた時、音階練習の大切さを実感する。

    形式的に言葉を発するだけでなく、簡単なことつまり基本の重みを実感した時、指導者としてもスタートなのだと思うようになった。

    ミルシティンの話に戻るが、彼ほどの人でも次々に先生を求めた。
    それは、自分の壁を破るには、外側から刺激というか欠点やさらに上を示唆してくれる人がいないと、進歩に限界がくるということを示していると思う。

    学校は長い間、学問を忘れて予備校化してきたという経緯があるので、先生までゾンビのように頭が予備校化して、問題集を解くことが教育と勘違いしているような人を見るが、受験目的ならそれでよい.。
    それが到達点なら、問題集には答えが書いてあるので、子ども同士が集まってリーダーの指示で問題を解いて、まとめで答え合わせをすればよい。

    しかし、これでは受験勉強の域を超えることはない。

    これが勉強と勘違いするようになると、将来、ノーベル賞をとるような発想をする人間はなくなっていくだろう。

    子どもだけでワイワイやっていても、限界があり、それを超えるには優れた先生の外部からの刺激がなければ、発展はないと考える。


  5. 大学院で学ぶ意味

    1月 28, 2016 by dolce

    私は今、放送大学大学院で学んでいる。
    ここで学ぼうと思った動機は、たまたま、関心のある科目があったからだ。

    学び始めてから1年半ぐらいになるが、内容が充実していてとてもよいと思っている。
    なぜ大学院なのかと言えば、別にどこでもよかったのだが、高校で学び直すという意味もなかったし、大学はと言えば意味があるとしても、費用と時間がない。

    その点、放送大学は自分の空き時間に勉強できること、学費が安いことである。
    何かの機会に、放送大学大学院で学んでいると言うと、人によって反応は様々である。

    ■人の反応

    励ましてくれる人もいれば「今さらどうして」という感想を持つ人もいる。
    現実に会った人にはいないが、ネット上の人の中には「大学院なんか出たって・・・」と貶める感想を言う人もいる。

    おもしろいと思うのは、この「大学院で学んでいる」というだけで、否定的な発言をする人だ。
    なぜなら、人が大学院で学んでいるというだけで「学んでいる目的」はわからないはずなのに、わかっていしまうような発言をするからだ。

    これはどういう心理なのだろう?

    「やっかみ」の一種なのだろうと思う。

    「やっかみ」について、ある人は次のように言っている。

    「やっかみ」という言葉がある。これは「妬み」(ねたみ)や「羨み」(うらやみ)と同じような意味を持つ言葉で、相手の成功や優れた点を見て、たまらなく 嫌な気持ちになり、何かしてやりたいような心境になることを云う。だからこの言葉には、自分の中にある劣等感をことさら刺激され、相手を妬み、羨やみ、時 には怨(うらみ)、というような心理状況に陥ることがある。(「やっかみと日本人」より)

    こういう性格の人は、これが体臭のようにまつわりついていて、話す機会があるごとに「やっかみ」という悪臭を放つことになるから、周りの人間は嫌な気分になるだろう。

    先生に関しては「好かれる先生、嫌われる先生」という話題が出たりするが、そんなことを考えて先生をやるものではないと私は考えている。
    先生という使命感を持っているのなら、ひたすら生徒のためになることをやればよい。
    先生はタレントではない。

    しかし、不潔だったり、加齢臭か何か知らないけれど、人と会うところで悪臭を放つのはよくない。
    自分が悪臭を放っていないかは、気をつけたほうがいいと思う。
    また、悪臭に関しては、人は「嫌な臭いだ」と感じても注意してくれない。
    この状態は「やっかみ」と似たところがある。

    ■学ぶということを学歴でしか見ない人

    私はこういう人は「悲しい人」だと思う。
    学歴に意味がないとは言わないけど、学歴そのものが目的では「蝉の抜け殻」のような気がする。

    最近は男で料理教室へ行く人が増えたそうである。
    料理教室に行けば、一通りの課程を終えれば「修了証」をくれるところがあるかも知れない。
    だが、目的は修了証をもらうことではないだろう。
    料理ができるようになることだろう。

    しかし、学校の先生によってはひたすら、生徒の進路について学歴しか頭になく、人生の成功とは学歴を積んでいくことしか話さない人がいる。
    これも「蝉の抜け殻」だろう。

    学問はそれが身になることが大切であることは言うまでもない。

    私がこの度大学院で学んだのは「情報学」で、このおかげで巷では伝説のような語り口になっていることが、スッキリ解明され、まさに目から鱗であった。


  6. 中国の脅威

    1月 27, 2016 by dolce

    中国の脅威とは軍拡か、経済か?
    そのどちらでもない・

    最近、中国の大学で教鞭をとっている先生と、お話をする機会があった。
    お話によると、中国の学生は大変熱心に勉強するそうだ。

    知っている人も多いと思うが、中国では北京大学が最高峰で、非常に競争率が高い。
    何しろ、人口の多い国だから、それも頷ける。

    競争率が高いというのは、ただ最高峰を目指してということだけでなく、北京大学を卒業するか否かで、給料が三倍ぐらい違うというのだ。

    日本は大卒の就職率は以前ほどではないにしても、その時期になれば大学生は就職活動で大変である。
    大学入試も激しい競争だが、就職もまた競争である。
    ここで注意すべきは、就職の競争となると、競争相手は日本人だけではない。

    優秀な中国の学生も参入するのである。
    卓球は中国が強いのはよく知られているが、碁も強くて日本の上級者も歯が立たないそうである。

    なぜ、中国人が強いのか?
    中国人という人種がもともと優秀なのか、その辺を探ろうと話を聞いていると、それは一言で「ハングリー精神」らしい。
    日本の学生が甘えているような気がする。

    そう言えば、中国人のプログラマーを何人も雇っている会社がある。
    中国人にしてみれば、給料の高い日本は憧れであり、会社にとっては日本人より安く雇える中国人は魅力である。

    併せて、日本の政策はこれから外国人の雇用をしやすくする方向である。

    日本の学生が甘えないで、しっかり勉強することは大切だが、優秀な学生を排出するためには、先生も大切である。
    だから、中国の学生との競争は日本の先生と、中国で教えている先生との先生同士の競争でもある。

    スポーツの世界では、優秀な選手は優秀な指導者のもとで教えを受けている。
    シンクロナイズドスイミングで中国が急に強くなったのも、日本の優秀な指導者が招かれてからだ。

    これは、国を超えた優秀な指導者の獲得競争でもあり、スポーツに比べ学術面は目立たないが、それは派手に報道されないだけで、先生の奪い合いもこれからますます激しくなるだろう。

    肩書だけで、ろくでもない先生が淘汰されるのは、国民の血税が浪費されないので歓迎されるところだが。


  7. ふたたびデジタル・デバイドを考える

    1月 23, 2016 by dolce

    デジタル・デバイド
    パソコン、インターネットなどの情報技術を使いこなせる者と使いこなせない者の間に生じる格差のこと。デジタルデバイドが生む格差としては、得られる収入や情報の格差、利用できるサービスの格差などがあげられる。コトバンクより

    「・・・だってね、ヤフーってね電話しようと思ってもできないんだよ」
    と不満たらたらの人がいた。

    何が不満かといえば、プリンターのことだった。
    私が

    「あの、ヤフーはプリンターとは関係ないんですよ・・・」

    と、ここまで言うか言わないかと言う間に

    「違う、違う・・・」

    と拒否反応。

    この人は真実を知ろうということには興味なく、自分の不満をぶつけたいだけのようだった。
    彼は元教師だった人。

    今後の世の中は、デジタル技術によってますます合理化されていくだろうに、このような人が増えるかと思うと、大変だなあという気持ちが強くなる。

    そもそもYahooもGoogleなどの検索サイトは、無料のサービスサイトで、NTTのように責任を負っているものではない。
    検索サイトは他にも多数あるし、ただYahooやGoogleは巨大になっただけで、元は個人の発想からできたものである。

    インターネットができた始めは、検索サイトなどはなく、ただ通信手段ができただけのものだった。
    だから、誰と通信するかどうかは全て自己責任の時代であった。

    そういう状態の中で、こういうサイトがあれば便利だろうということで、YahooやGoogleを作った人がいたわけだ。
    私がYhooを使い始めた頃は、英語であった。

    だから、好むと好まざるに関わらず、英語で利用するしかなかった。
    それで、英語が強くなったという人もいた。

    彼の頭の中は、とうていそんなことを理解する余裕はなく、パソコンもインターネットもプリンターもその他デジタル環境にある区別もないようだ。

    とにかく、自分の思うようにならないと、彼独特の理屈で全く関係ないところのせいにする。

    行政サービスはこういう人にかかると、困ることが多くなると予想する。

    だが、今の若い人は大丈夫かと言えば、そうも言えないだろう。
    「子どもはパソコンに強い」という人もいるがそれも当てにならない。

    子どもは無責任で怖さを知らない者が多く、それだけにメチャクチャをやる。
    だから、子どもに自由に使わせている家庭のパソコンを見ると、ひどいことになっている。

    だから、デジタル・デバイドは老若男女区別を問わない。
    ではどうすべきか?

    昔、アメリカが教育改革を唱えた時「原理を教えよ」という言葉が強調された.
    これは、年齢に関係なくということだった。
    つまり、子どもも幼児では無理でもある程度の年齢に達したら「まだ◯◯才だから」という先入観を持つなということだ。

    車に給油するときは「火気厳禁」の表示がなくても、タバコを吸う人はいないだろう。
    それはガソリンが発火しやすいということを知っているからだ。

    だから、今やあらゆるところで使われているデジタル危機をうまく使うためには、2進法の勉強に力を入れるべきだと思う。
    「コンピュータは足し算しかできない」というと、おかしいと思う人がいるだろうか?

    コンピュータは1と0でしか計算できないということは多くの人は知っているだろう。
    コンピュータは内部では1と0を操作しているだけなのだ。
    それで1と0の並んだ数字を、加算することで足し算以外の引き算、掛け算、割り算も行っているのだ。

    算数、数学はこのあたりもしっかり学ばせるべきだと思う。


  8. 何のための進学か

    1月 21, 2016 by dolce

    進学の目的は何だろう?
    高校は義務教育ではないが、高校進学は当たり前という感覚が広まって久しい。

    勉強したいから高校へ行きたいという者はどのくらいいるだろう?
    正確にはアンケート調査などを行って、統計をとらないとわからないのだが、最近はそんなことをしなくてもわかってしまうという超能力者もいるようだ。

    超能力者の話はまた別の機会に譲るとして、高校進学は特に女子にとっては重大問題であるようだ。
    進学して学を身に付けるよりなにより、女子にとっては結婚問題が絡んでくるということ。

    だから親は苦しい生活の中からやりくりして、高校へ行かせます。

    高校を卒業しないからと言って人格がどうのこうのということはないのですが、日本は高卒というブランドがないと、ランクが低いかのように人をみるようになってしまいました。

    では、さらに大学へ進学した方がいいのでしょうか?

    私は、この上へ上へと進学を目指す志向に疑問を持つようになりました。

    上へ上へと目指した到達点は何ですか?
    それが幸福に届くことですか?

    その到達点とは、東大の医学部ですか?
    なぜ東大の医学部なのですか?

    それは生活の不自由なく収入を得ることになるのですか?
    地位や名誉を得られることになるのですか?

    以上、東大の医学部へ入学できなかった者は、落ちこぼれのように言う先生がいます。
    私は、これには腹が立ちます。
    この人、最近は東大医学部だけでなく、東大法学部も追加しました。
    なぜなのでしょう?

    この人の人生観は、小学校入学からスタートしゴールは東大医学部、法学部らしいです。
    それが成功者ということらしいです。

    この人は収入を気にしているのでしょうか?

    私の友だちのA氏、東大ではない大学を卒業しある企業に就職しましたが、数年で退職しました。
    なぜか?
    それは、年収が1億を超えるようになったからです。
    彼は海外に住み、世界中の好きなところへ行っています。
    仕事は何もしていません。
    24時間すべて自分の時間です。

    今このような生活をしている人が珍しくなくなってきました。

    某企業の社長は年収7000万円ぐらいだそうですが、自分の自由時間はごくわずかです。
    この人とA氏の生活とどちらがいいでしょうか?

    みんながみんなA氏のような生活がいいとは言わないにしても、これだけでも、東大がすべてとは言えないのではと思いますが。


  9. なぜ色々な山に登るのか

    1月 20, 2016 by dolce

    登山の好きな人は、いろいろな山に挑戦する。
    一番高い山はエヴェレストだが、エヴェレストの頂上を征服したからと言って、全ての山を征服したことにはならないし、全ての山を知ったことにもならない。

    このことを頭に入れて、人生を考えてみると、ある学問をある程度マスターしたからと言っても、まだ知らない分野はたくさんある。
    一つの山に登ったからと言って「山」というものがわかるものでもない。
    エヴェレストに登ったからエヴェレストのことはわかったというものでもない。
    他の山に登って、よりエヴェレストのこともわかるのだろうと思う。

    ここは、学校の先生においてはよく注意すべきことである。
    つまり、数学の先生だから数学はよくわかるというものではないと言いたいのだ。

    しかし、学校の先生となるととかく「専門」という言葉を使って「壁」を作ってしまう。
    これも「バカの壁」かも知れない。

    「オレは数学の専門だ」という意識を持つことによって、これが防護壁になるのだ。
    これは、他の先生からしたら「あの先生は数学の先生だから、数学でない私は数学の領域を犯してはならない」と意識する。
    これは先生が集まると「不文律」になっている。

    小学校の教師となると、全ての教科を教えるのでそんなことないかと言うとそうでもない。
    やはり、小学校の先生と言えども「専門の不文律」はある。

    こういう不文律があるがために、学校の先生は学問のレベルが上がらないと言える。

    数学の先生が社会の勉強をすることで、より数学が見えてくるということがあると思うのだ。

    不文律を守らない先生がたまにいる。
    こういう人は手強い人だ。
    「あいつは専門でもないクセに人の領域を荒らす」と嫌われる。

    しかしそういう見方をする人ばかりではない。
    「◯◯先生って、数学の先生なのに、社会科のこともよくしてらっしゃるんだね」
    と言う人。
    こういう人はいい人だ。


  10. いつまでも過去の栄光を引きずっている馬鹿

    1月 19, 2016 by dolce

    パソコンもずいぶん進歩した。

    クロック:8bit→16bit→32bit→64bit

    記憶装置:カセットテープ→FD→HD(5Mbytes→20Mbytes→・・・・・2T,3T,4TBytes)

    その他、加速度的に進歩した。

    人間の頭はどうか?

    昔、一太郎というワープロソフトのインストールに失敗した大学の先生の話。

    「あんなものは使わないほうがいいですよ」

    これは自分の挫折経験を吐露したものだ。

    「BASICをやらなきゃいかんというので、やってみたら・・・・」

    これも挫折経験で、大学の先生。

    「パソコンは使い方を強制する」

    これも大学の先生。

    以上の3つの例は「大学の先生らしい」という感じがする。

    どのような課程を経て大学の先生になったのだろう?

    論文が認められたからか?

    仮に論文が認められたので、大学の先生になれたとしよう。
    だが、その論文が認められた時点から、今、どれほど時が経っているのだ?

    プロ野球の選手は、昨年ホームラン王になったとしても、翌年「オレはホームラン王を取った」といっても、次に活躍しなければ自由契約になる可能性もある。
    音楽家なら、世界的なコンクールで優勝したとしても、翌年は何かに使ってくれるかもしれないが、期待通りの演奏能力を維持しなければ契約はなくなる。

    日本人は「優勝した」とか「受賞した」などの看板を信用する傾向が大きく、その看板を背負ってヨーロッパへ言っても「ふーん、では今から演奏してみてください」と言われて「では、今どれほど実力があるのだ」ということに重きをおかれるという。

    この「今、どれほどできるのだ」という価値観を日本人も大切にすべきだろう。
    特に大学の先生は天狗になっている人が多いような気がする。
    それは、過去の論文とか何かの「過去の栄光」を気持ちの上でいつまでも引きずっているからではないかと思う。
    だから「あなた、時代遅れですよ」と言われかねないことを、何も恥じることなく上から目線で喋る人がいる。

    テレビはある時期からデジタル放送になった。
    NHKの時報にアナログ時計の画像が出なくなった。
    なぜ、そうなったのかわかる人が、大学の先生の何人がわかるのだろう?

    パケット通信?

    に関係があるのだが、この辺に頭はついてきているか?

    なぜ4K、8Kなの?

    ただ、家庭のテレビがきれいになるだけではないぞ。

    頭が化石化しているので、時代から取り残された発言をするのでは?
    それでも、給料がもらえて生活できる大学の先生はいいなあと思う。
    まあ、大いなる予算のムダと思うが、ここは会計検査院、何も言わないのか?

    もちろん、そういう大学の先生だけではない。
    一部の、小学生並みの作文しかできない大学の先生は、問題だと思うのだ。