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12月, 2015

  1. 混沌の時代

    12月 31, 2015 by dolce

    私の参加している英語クラブ(仮称)には様々な分野の人がいる。
    先生もいる。
    元小学校教師、現役の高校教師、大学の教師、今のところ中学校教師はいない。
    英語塾の経営者もいる。

    私はこのサークルに所属していて、英語は最も劣等性である。
    しかし、このサークルの素晴らしいところは、いくら劣等性でもバカにするような差別的な空気がないところである。
    私以外の人は会話はペラペラである。

    会はヒアリングから始まるが、これは何を言っているかは私にも少しはわかるところがある。

    質疑応答は基本的には英語で話さなければいけないことになっている。
    先日、LEDについての討議があった。
    半導体のことについては、知識のない人が多かったが、私にはわかったので、私が説明すると、ある人が「それを英語で言わなきゃ」と言われた。

    そう言われて私は反省するのだが、注意してくれた人が少しも嫌味に感じないところがこれまたすばらしいところである。

    嫌味に感じるか感じないかは、言う人の心の持ち方であると思った。
    「英語で言わなきゃは、好意的に言ってくれた」
    ということが伝わってきた。

    最近、よく問題になる「いじめ」も「文字」にすると、否定的な言葉はすべて「いじめに」なってしまうこともあるが、否定語が必ずしもいじめとは限らない。

    外部的にも開かれたサークルなので、いろいろなゲストが訪れる。
    アメリカでボーイングの開発に携わっていると言う人が来たこともある。
    外人も時々来る。
    会員の中には中国人もいて、中国の実態を知るのに便利なこともある。

    昔ほど外国人が珍しくない時代である。

    また、昔は「学校の先生から教わる」と言うのが普通だったが、今は子どもが教わっている先生が学校の先生とは限らない。

    いや、子どもの方が学校の先生よりよく知っているという場合もある。

    だから、今は子どもが上達したのは誰の影響かと言うと、即座に誰々と言えない時代でもある。

    そんな中で、学校の先生の中にも「学校と言うエリア」だけに閉じこもらないで、自分のレベルを上げるために学ぶところを求めて参加する人もいる。

    だから、学校は今や「学びの聖域」とも言えない。

    「混沌の世界」と言うのは「めだかの学校」と同じで「誰が生徒か先生か」という時代でもあると言える。


  2. アクティブラーニングの成果

    12月 29, 2015 by dolce

    アクティブラーニングの成果はどのように評価するのでしょうか?

    アクティブラーニングはおよそ20年ほど前に、アメリカの大学にて始められたのが起源と言われています。
    大学の授業といえば、学生が講義をただ聞くだけという形式だったのを改め、学生たちが主体的に学習活動をするようにしようという発想だったと言います。

    だから、アクティブラーニングは特に新しい形態ではないと言えます。
    今日ではいろいろな人が意見を言っていて、この用語には曖昧さもあります。

    しかし、授業を受ける側がアクティブであるということが大切な点であると思います。
    ここで注意することは、授業中にアクティブであることと、授業後においてアクティブであることを区別する必要があることです。
    もちろん、どちらか一方ではなく両者ということもあります。

    アクティブラーニングという時は、学生(児童、生徒)が主体的に動いているかということに注目し、グループで活動することを定義のように言う人がいます。
    しかしグループ活動だから、みなアクテイブに動いているとは限りません。

    例えば文化祭のように、生徒が主体的に活動するようなものであっても、実際に主体性を持って活動しているのは数十人中数人だけということもあります。

    評価といえば、すぐ「難点取った」という試験の結果を思い浮かべる人がいますが、これは頭の中が予備校化しているように思えます。

    私はそのようなもので評価するのではなく、授業で主体的(アクティブ)かどうかだけでなく、授業以外にもアクティブであるかどうかも評価の対照とすべきであると思います。
    ここで注意すべきは「評価」という言葉が出てくると、すぐに「成績をつける」を思い出し、授業外のことをどう点数化するのかと言った狭い考えを持つ人がいるように思いますが、評価というのは成績をつけることだけに目的化するものではないと思います。

    例えば、コンクールで良い賞を取ったことはわかりやすい一つの評価ですが、私の場合「生徒たちの生活態度がよくなった」と校長は評価してくれました。
    この校長の評価も意味のあるものだと思います。

    保護者の場合、学校での教育の効果を「このごろ、子どもの態度が変わった」という感じで評価していることは多いと思います。
    ある先生の指導が、指導を離れた場所でも影響して、主体的に活動しているのであれば、それも効果として評価すべきだと思います。


  3. いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

    12月 28, 2015 by dolce

    今回のタイトルは、カレル・ヴァン・ウォルフレン(以下「ウォルフレン」と言う)の著書のタイトルです。
    私の被害妄想からつけたタイトルではありません。

    カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen、1941年4月 – )は、オランダ・ロッテルダム出身のジャーナリスト、政治学者。現在はアムステルダム大学比較政治・比較経済担当教授。フリー百科事典「ウィキペディア」より

    ウォルフレンは日本の滞在期間も長い、ジャーナリストです。
    かつて「人間を幸福にしない日本というシステム」という本を書いたことでよく知られています。
    著書も多数あり「日本権力の構造」という著書もあります。


    滞在歴の長い外国人ジャーナリストという立場から、日本を見た感想や意見が述べられています。

    今日、日本は戦後70年の区切りということで、過去を振り返る報道が多くなっています。

    これから日本はどうなって行くのでしょう?
    いや、国民はどういう日本にしたいと思っているのでしょう。
    おとなしいイメージの日本人も、今年は安保法案でデモをするなど今までにない行動に出る人もいました。

    この一つの節目を迎えて、教師は子どもたちにどういう態度をとったらよいでしょうか?
    今の子どもたちの中には、かつて日本とアメリカが戦争をしたということを知らない者もいます。

    さて、人生の成功を目指すには、子どもたちにどういう進路指導をすべきでしょうか?

    ある人は、東大の医学部を目指すことがいいと言っています。
    なぜ東大の医学部なのでしょうか?

    金持ちになって豊かな生活ができるからでしょうか?
    大人は子どもたちに向かって、しばしば「将来、どんな人になりたい?」と質問しますが、子どもからはいろいろな答えが返ってきます。
    しかし、私は「東大医学部」と答えた子どもは知りません。

    今日、子どもに将来の進路が「東大医学部」としか指導できないのは、あまりにも陳腐というか、モノを知らないという気がします。

    私は、まずこの国がどういう仕組み、どういう状態になっているかを教えるべきです。

    ウォルフレンが著書で我々の日本を教えてくれるまでもなく、教師としては日本が戦争に負けたこと、それでGHQにより改革されたことその結果権力構造がどうなったかを教えなければなりません。

    東大を目指す子どもの中には、法学部を強く意識する者がいます。
    それはなぜでしょうか?

    それは、多分にGHQの改革が影響していると思われますが、それらを含めて、現在の日本の構造を教師が知っていなければなりません。

    一千兆円を超える財政赤字を作っている日本は破綻しないのか、そんなに借金してまでも危機感を感じていないような政府はおかしくないか?

    子どもから質問されたらどうしましょう?


  4. なぜアクティブラーニングなのか?

    12月 28, 2015 by dolce

    アクティブラーニングの目的は何かと考えてみれば、次の2つに集約される。

    1.思考の活性化
    2.自立した学習習慣の形成

    講義式の授業でも、授業者(講師、教師)次第でアクテイブラーニングは実現できる。

    授業者がただ一方的に話しているだけでなく、時折、質問を挟むようにする。
    すると、聞いている方はいつ質問されるかわからないので、集中して話を聞くようになる。
    聞かれたらどう答えようというアクティブな姿勢も作られる。

    また途中で「では◯◯について、近くの◯人で意見を出し合ってみてください。5分後に代表の人がまとめて発表してください」と言う。
    このやり方は、あらかじめこういう授業をすると予告しておく場合と、そうでない場合がある。
    どちらがいいかは、授業のねらいによる。

    このような授業をしようと、日頃から心がけている授業者に対しては受講者(生徒)はアクティブになる。
    授業者を見ると、自然にそういう姿勢になる。

    これも、一種の学習効果である。

    企業では、ここにロールプレイングを入れたりすることもある。

    ロールプレイング
    仕事の研修方法のひとつで、職場での役割を想定し、疑似体験を通して研修を行う手法のこと。コトバンク

    「出る釘は打たれる」

    という言葉があるように、日本は「黙って従え」という不文律があったように思う。
    しかし、これは国民の多くに染み付いてきたように思う。
    今さらアクティブラーニングを持ちだしても、容易にはアクティブにならないように思う。

    アクティブラーニングの研究授業を企画したところで、当の授業者(教師)がアクティブでなかったら、その研究授業自体がアクティブではないことになるかも知れない。

    その点を授業者を指導する者が心得ていなければ、非営利である学校においては単なる行事の消化になってしまう恐れがある。

    本日「授業者」という言葉を使ったのも「教える—教えられる」という関係は、学校の専売特許ではないからである。
    企業においては利益に結びつくから真剣である。
    だからといって、企業の論理がすべて学校教育に結びつくとは言わないが、如何に真剣に取り組めるかは学校教育の課題であると思う。


  5. 今年も残り少なくなりました〜教師なら良識を持とう

    12月 27, 2015 by dolce

    今年は良識を持てず、クビになった教師がいました。表向きは依願退職かも知れません。

    正当な理由もないのに弁護士に告訴状を書かせて、告訴した者がいたということを、前に書きました。
    このMははっきり言って、まともではなかったわけです。

    世の中には、まともではないが公民権を持っている人間がいます。
    そういう人間の中で厄介なのが、まともにコミュニケーションが持てない人間です。

    Mは告訴してみたものの、警察、検察から相手にされず却下されたわけですが、それでもおさまらず不平を言っています。
    では、何が不平なのかと言っても、その不平が何だかということが答えられないのです。

    ここが、私が言う「まともでない」の根拠です。

    クビになった教師も、何が不平なのか答えられません。
    この教師のまともでない行動は、ネットを通して知っている人も少なくないと思います。
    この教師のことを仮にTとすると、私は一度だけTのブログのコメント欄に「それはどうしてわかるのですか?」と質問しただけです。
    Tはそれだけで激情しました。

    それで、私は一切相手にしないことにしました。
    それは、かつて告訴したMのことで警察から「彼のことは相手にしないでくれ」と言われたことを思い出したからです。

    「この手の者に対しては、相手にしないことが最良の方策」

    ということを学んだわけです。

    まともな応対ができないから、それしかないわけです。

    学校を追われたTの場合、すでに学校には苦情があり、学校としても苦慮していたようです。
    Tはありもしない不祥事を創作し、私がその該当の人物だと毎日のように投稿していましたが、私が放っておけないと思ったのは、私の実名をネット上に公開し誹謗中傷を始めたからです。
    私がリモートコントロールで彼のパソコンにいたずらしているとか、壊したなどというのもありました。

    私は一切彼とは関わらなかったですが、その間には彼に対しての非難や苦情を投稿している人はいたようです。

    客観的に見られる人なら、Tが変なことをやっているということがわかるはずと思うのですが、私は一切関わっていいないのに、Tの創作を真実と決めつけて「私のブログが消滅の危機」と書いていた人がいました。

    しかし消滅したのはTのブログでした。
    これは第三者から見たら、当然と思えることですが、それでもTがおかしいと気がつかない人も変です。

    ———————————————————————————————————————-
    このように「変な人」はある確率でいるということがわかってきました。
    変な人がみな人に害を与えるわけではないでしょうが、問題は害を与える人です。

    再度言いますが、教育に携わる世界にいる者にとって、大きな害となるのは、まともにコミュニケーションが取れないことです。
    詳しく言うと、話を自分の都合のよいように作ってしまう。
    だから「私がどこにそんなことを書きましたか?」と言っても返事がない。
    (もともと、どこにもないのだから返事のしようがない)

    本日は「教師なら良識を持とう」というタイトルですが、まともにコミュニケーションがとれないというのは、子どもにとって害以外ないでしょう。

    子どもに対して刃物で脅すという良識のない教師がニュースになりますが、子どもが言ってもいないことを、言ったと決めつけてしまう教師がいたら、同様に良識のない教師です。
    教育行政はなんとかして欲しいものです。

    そのうち「分限免職」なんてこともあるかも知れませんが、現実に精神障害で休職している者は、本人からの希望か教育委員会からの指示かもしれません。

    どちらにしても、学校は健全であってほしいものです。

    先生が壊れていく―精神科医のみた教育の危機


  6. 教育を語ろう

    12月 26, 2015 by dolce

    メルセデスのポリシー(方針)は「エンジンより車体の方が速く」だそうだ。
    日本ではかつてメーカー同士の、車販売が熾烈であった時代があった。

    この時、若者が顧客のターゲットだったせいか、馬力競争が盛んだった。
    馬力はカタログ値にも出るので、馬力の数値が大きい方が素人目にも「いい車」という印象が強かったのだろうと思う。
    だから、安くても馬力の大きい車をメーカーは作ったという印象がある。

    その頃はメルセデスと言えば、庶民には高嶺の花だった。
    だが、クルマ好きには気になる存在で「メルセデスの馬力はいかほどか?」と関心を持った者も多かったのではないかと思う。

    ところが、メルセデスの馬力をカタログで見ると、記載がなかった。
    そこで、メルセデスに直接聞いてみると「必要なだけの馬力はあります」との回答であったという。

    この話を思い出すと、近頃目につく「アクティブラーニング」の話題がちらつく。

    車はエンジンと車体がバランスよく動いてこそ、最大の性能を発揮する。
    車にあってはエンジンと車体は不可分の関係なのだ。
    メルセデスが「エンジンより車体の方が速く」と言うのは、エンジンの馬力が大きいというのは、ある人たちにとっては格好良く見えるかも知れないが、あり余る馬力があってもそれを受け止める車体がしっかりしていないと、かえって危険なのである。

    もとより、車はエンジンだけで走るものではない。

    授業もアクティブラーニングだけで成り立つものではない。

    授業の中にアクティブ(能動的)なものとパッシブ(受動的)なものがあって、両者のバランスが大切である。

    授業には先生と生徒(児童)がいて、先生は指導者であるから、授業はまず先生の発言から始まる。
    先生の発言中は、生徒はパッシブであって、先生がアクティブである。
    逆に、生徒がアクティブであり先生がパッシブな場合もある。

    授業はアクティブとパッシブのバランスが大切である。

    アクティブ(ラーニング)の授業というのは考えられない。
    しかし、アクティブラーニングという言葉だけが先行してしまって、最近はアクティブラーニングという言葉だけが流行のようにさえ見える。
    まるで「アクティブラーニング」という授業が存在するかのようである。

    一単位の授業全て、生徒がアクティブという授業はあり得ない。

    地味に学問追究をすべき学校が「アクテイブラーニング」という言葉を使えば、先端を行っていると考えるなら、学校本来の中身を放っておいて先生が中身のない流行だけを追っているようでもある。

    誰かに「アクティブラーニング、知ってますか?」と言われたら、ためらわず「知りません」と言おう。
    「あなた遅れていますね」と言われたり「私は教育の先端を言っていますよ」のふりをされたら、その人は大した先生ではないと思っていいだろう。

    大切なのは、生徒が必要な時にアクティブでありパッシブであることで、授業の中でそれが実現できていることである。toronbone

    トロンボーンという楽器があって、この楽器はスライドを動かして音階を演奏する。
    一応ポジションは6つあるが、それぞれのポジションの中間でスライドを止めることで微妙に高い、低いの音出せる。
    つまり、実際の演奏では決められた6ポジション以外の位置も使うのである。

    ある研究者が、ある奏者に「トロンボーンのポジションは77あるのを知っているか?」と聞いたところ「知らない」という返事が返ってきた。

    まわりくどい説明になったが、上手い奏者はそんなことは知らなくても上手い演奏をしているのである。

    アクティブラーニングを知らなくても、優れた先生は必要なところでは生徒をアクティブにしている。

    先生は流行にとらわれず、教育を語ろう。


  7. 一億総活躍社会とは一人も見捨てない社会ということだろう

    12月 26, 2015 by dolce

    阿部総理の「一億総活躍社会」とは、まさに一人も見捨てないということだろうと思う。
    これは、老人は余生を送るだけという考えを排除したものだろうと思う。

    定年という年齢を設けて、そこで引退してくださいというのは、人生がそこで終わりという印象を持つ人もいるかも知れない。
    そもそも、なぜ定年制という考えができたかと言えば「よくても悪くても、定年で区切りをつけられる」という考えだそうだ。
    惜しい人材なら再雇用という手もある。

    メーターの製作で有名な横川電機は定年制度がない。
    定年制度をやめたのではなく、創業時の社長の考えだそうだ。
    だから、健康でさえいればいつまでも働けるということだ。

    年齢で区切るというのは、社会をまとめるという意味では、必要悪かも知れない。
    20歳になれば成人として認めるという制度にしても、実際に大人として認めるには幼いと感じる人もいるし、その逆も言える。

    しかし、いつまで仕事ができるかとなると、これも個人差がある。
    歳を経るにつれダメにになる人もいれば、その逆の人もいる。

    だから、能力に応じて辞めどきを本人または雇用者側が決めるというのが合理的だろう。
    そういう関係が成り立っている例としては、スポーツの選手がいる。
    芸術家はだいたい歳を経るごとにレベルが上がる。

    近衛秀麿は晩年、京都大学のオーケストラを指揮してコンサートを行った時、74歳でその後早稲田大学のコンサートの指揮をする予定だった。
    だが、6月の京都大学のコンサートを終えて、同年の12月の早稲田大学のコンサートを迎える前に亡くなった。

    恐らく、本人も含め誰もがその歳に亡くなるとは思っていなかっただろう。

    ところで「一人も見捨てない」は、あの「学び合い」の口癖のようだが、私はこれを信用していない。
    それは気分的ではなく、言うことが矛盾しているからだ。この人の言うことは一貫性がなくそのため矛盾になるのだ。
    「平気で嘘を言う」というところもある。
    代表的な嘘は「理論的に証明されています」「(私は)理論的です」である。
    実際には、この言葉とは正反対なことが多い。

    それこそ、理論的に言うと「東大か京大に入れないものは負け組」と言って、負け組は惨めな生活をするしかないと言っている。
    これを本人の言う「一人も見捨てない」に照らし合わせれば、東大、京大に入れなかった者は、見捨てられたということになるのではないか。
    もちろん「学び合い」で勉強した者が全て東大、京大に合格するなら別の話だが。


    始めは「東大の医学部」だけが勝ち組と言っていたが、どこからか京大が入ってきた。
    この人の話は全く予備校志向の話だ。
    東大、京大と偏差値の話しか出てこないという感じだ。

    全ての生徒が東大や京大を目指しているわけではない。
    就職率も東大、京大が必ずしも高いとは言えない。

    それに、芸術方面やスポーツを目指している者もいる。
    そうした者も渾然と混じっている「学び合い」グループで「一人も見捨てない」が実現できるのか?

    最近は自動車保険の通販のコマーシャルが多くなった。
    保険料は信じられないほど安い。
    ところが、一度事故になってこの保険会社のお世話になって懲りる人が多い。
    ネットで検索するとよくわかる。

    一体どうなっているのかと調べて見ると、どうも安さに惹かれて一度だけ保険に入ってくれればいいという方針らしい。
    薄利多売で成り立っている商品と似ている。

    これは、中身はなく発行部数の多い多い本のようなものだ。
    魅力的なタイトルに惹かれ、一度だけ買ってくれればいい本である。

    この種の本はタイトルこそ違え、中身は著者のまとまりのない抽象的な言葉の羅列だ。
    具体的な指針は全くない。

    だから、買う前に「立ち読み」をした方がいいと言うのだ。

    義理のある人、教科書として使うという宿命の人は仕方がないが。

    とにかく「一億総活躍社会」と「一人も見捨てない」はピッタリだ。

    是非実現を望みたい。


  8. 一流企業に入れば幸せがつかめるか?

    12月 24, 2015 by dolce

    こういうタイトルをつけると、負け犬の話のように聞こえるかも知れない。
    とても東大には入れそうにない者が「「東大だけが・・・」なんて言うような。
    だが、そういう話ではない。

    12月は忘年会があって、とかく宴会が多い。
    しかし、忘年会だけでなく、送別会もある。

    「このほど、◯◯君が名古屋支社から沖縄へ転勤することになりまして、送別会を行いますので出席をしていただける人は・・・」
    なんて話がある。

    ◯◯君は名古屋支社に来て3年ぐらいのはずだが、もう転勤?
    と思ったりする。

    大きな会社になると、北海道から沖縄まで支社がある。
    50代のある人は、入社してから16回転勤し、全国は1周したという。

    いや、行かなかった県はないという人もいた。

    送別会で涙を出していた人もいた。

    いつ、どこへ転勤になるかわからないと考えると、マイホームを作るという計画も立たない。
    単身赴任か子どもを転校させるか、会社の都合によって人生は左右される。

    大きな会社、いわゆる一流企業ではこういうことが起こる。

    そこへ行くと、個人事業主は転勤がない。
    だから、親子3代という人もいる。

    一流企業に入社したが、途中で退社し故郷に帰って家業を継いだという人もいる。

    受験競争で一流校、一流企業、これしか頭にない先生がいて、東大に入らなければまるで落ちこぼれのように言う先生もいる。
    こういう人を見ると、人生の生き方というか価値観が狭く、生徒を束で考えていて「人は皆違う」という考えは皆無という気がする。
    そこに来て「一人も見捨てない」というのは大いに矛盾を感じる。


  9. マーラーは分裂症だったのか?

    12月 23, 2015 by dolce

    マーラーのことを分裂症と評している人がいます。
    私がマーラーの作品を初めて聴いたのは、交響曲第一番「巨人」ですが、特に違和感はなかったです。

    ですが、交響曲第二番「復活」を演奏することになった時、とても長い曲で驚きました。
    何しろ、CDでも1枚では収まらず2枚組になっていました。
    オーケストラの編成も大きく、この作曲家は「大げさ」という印象を持ちました。

    独特のこだわりもあって、クラリネットに「ベルアップ」が指示されていました。
    ホルンにはベルアップが、しばしば指示されていますが、クラリネットにベルアップを指示している作曲家は初めてでした。
    果たして何の効果があるのかと感じ、気分的なものだろうと思っていたら、シカゴ交響楽団の写真を見ると、クラリネットが本当にベルアップしているのには驚きました。

    交響曲第二番は長いだけでなく、突如曲想が変わるところなどは本当に分裂的性格かと思わせます。
    マーラーはとにかく大げさという感じがします。

    千人の交響曲と副題のついた交響曲第八番は、本当に千人の演奏者が必要で演奏会場も限られます。
    千人の交響曲という題名はマーラー自身がつけたものではなく、誰かがつけたものがそう呼ばれるようになったということで、マーラー自身はそう呼ばれることを嫌がっていたと言います。

    芸術家のやることは凡人には理解不能なことがあって、私などマーラーが分裂症などと決めつけることはできません。
    ともあれ、マーラーは歴史に名を残す大作曲家として確立されていいるので、人類に対して偉大な芸樹の足跡を残したことには間違いがありません。

    音楽以外の芸術家も「おかしい」と言われていた人はいます。
    しかし、業績がその人を偉大にしています。

    だから、おかしいが何だろうが「立派な仕事をする」ということが大切なんだということがわかります。
    教師も立派に人を育てるとか、よい影響をを与えた人が「いい先生」であり、間違っても子どもの心に傷をつけないようにしなければなりません。
    もちろん、大人には傷をつけていいというわけではありません。

    「子どもに」というのは育ちざかりで、取り返しのない影響を与える恐れがあるからです。


  10. 当事者意識〜リアリティはあるか

    12月 22, 2015 by dolce

    歌の指導を頼まれた。
    合唱指導をしてほしいという話だった。

    「◯◯を合唱したいので、指導していただけますか?」

    曲名を言うだけだった。

    「楽譜は?」

    と言うとないと言う。

    曲の指導をしてもらいたいというのに、楽譜はないと言う。

    そこで、楽譜を買って用意するように言った。
    用意した楽譜は合唱の楽譜ではなかった。
    合唱とはどんな形態の演奏か知らないのだ。

    学校では「校歌斉唱」と言うことがある。
    小中学校を卒業していれば、合唱の経験もあると思うのだが、斉唱と合唱の区別も知らないらしい。
    想像するに、大勢で歌えばそれが合唱と思っているようでもある。

    でも、この際そんなことはどうでもよい。

    練習に行ってみると、とても合唱をする力はないと思ったので、斉唱で歌うことにした。
    でもハーモニーが出てしまうところがおもしろい(笑)

    とにかく、斉唱でイベントでの格好はついた。

    その後、今度は「あのう、ミュージカルをやりたいんですけど」と言ってきた。
    これにはびっくりした。
    斉唱もまともにできないのに、ミュージカルができるわけがない。

    話してみると、そもそもミュージカルとはどんなものかがわかっていない。
    とりあえず、有名なミュージカルのDVDを借りるか買うかして観るように言った。

    それで、一応観たらしいが、とてもできるものではないと思ったのか、何も言ってこなかった。
    ところが、しばらくして「アカペラがやりたい」と言ってきた。
    そして、今度は楽譜を持ってきた。
    楽譜を見ると、プロでなければできないような楽譜だった。

    楽譜が全くわからないのかと思い、少しピアノで弾いて「この音出せますか?」と聞くと、返事がない。

    結局、自分たちがやることになっているのに「自分がやる」という認識がないのだ。
    つまり、当事者意識がないということ。

    例えて言うと「寿司をごちそうします」と言えば、昔はその家で寿司を作って、ごちそうしてくれたものだったが、今は寿司屋へ電話して出前を頼んで振る舞うことになったようなものだ。

    「何でも金で済ます世の中になった」

    という人がいるが、どうもあらゆることにそれが広がってきたように感じた。
    そう言えば、ネットに投稿されている文を読んでもそういうものがある。

    「もっと校則を守らせるようにした方がいいと思う」

    という言い方は、第三者がどこかの学校に対しての言い方だが、なんと自分の学校の、しかも校長が言っているのだとわかったのには驚きだった。
    校長は学校のトップリーダーだから、そう思ったら自分が行動すればいい。

    この態度は、プロ野球なら監督が客席か放送席で「ここはスクイズがいいと思いますが」と言っているようなものだ。

    昔、小学校に勤めていた時、校庭の角に自ら倉庫を作っていた校長が懐かしい。

    どうやら、世の中は「やる」と決めたら「できる」と思う人が増えてきたのではないかと思う。

    やると決めたら、誰か他の人がやるという意識なのだ。

    これは非常にまずい。

    特に学校ではまずい。
    なぜなら、学校は児童生徒が自ら行動して、成功や失敗を繰り返し社会へ出るトレーニングをするところだからだ。
    学校は「過程」が大切なのだ。

    呆れたことに、学校においても「結果が大切」と言うバカがいることだ。
    だからなんだろうが、計算機があるから計算の勉強は必要ないとか、翻訳機があるから英語の勉強は必要ないとか理科には実験は必要ないとか言う者がいる。
    こういうのが、教員を養成するとは呆れたものだ。
    教員向けには指導案は必要ないとか、究極は「授業はしない」と堂々と言っていることである。

    学校も、研究授業はその道のプロに「出前教師」を頼むようになるのかも知れない。
    それで「自分の授業」はと自分が授業をしたと錯覚するのかも知れない。

    これでは、利口で富裕層の人たちは、いい教育を求めて、海外に目を向けるだろう。
    そう言えば、アメリカでは「教育は買うもの」という意識が国民に広まっていると言う。