RSS Feed

11月, 2015

  1. 翻訳の難しさ

    11月 30, 2015 by dolce

    ノーベル文学賞の川端康成「雪国」を読んで、いろいろな人に英訳をしてもらうとどんな風になるだろう。
    訳によってはノーベル文学賞の対象にならないかも知れない。

    それほど翻訳という仕事は難しいと言える。
    翻訳には「感性を伝える」という大切な部分がある。
    完成は人によって違うし、民族によっても違うだろう。

    雪国の英訳については、いろいろな意見がある。
    一つ紹介すると、松野町夫 (翻訳家)の「雪国とSnow Country 」がある。

    私ではここまで深く追究できない。
    さすがは翻訳家の論評だと思う。

    今後もこの訳については、様々な人たちの考えが発表されるだろうと思うが、人によって翻訳が違うのは、その人の生き方や知見が異なるからだと思う。
    日本語を英語に訳すには、訳者が英語圏の人なら、その人がどれくらい日本を知っているか、どれくらい日本語に堪能かでも違うだろうし、訳者が日本人の場合、これまた逆のことも言えるだろう。
    このように考えてくると、機械翻訳は機械が人の感情を理解するようにならなければ、納得できる訳は得られないと思う。

    昔、日本の高校生がアメリカへホームステイに行った時、ハロインの日ある家庭の庭に入った時、射殺されたという事件があった。
    彼は”Freeze”という言葉がわからなかったからだろうと言われている。
    多くの日本人は「止まれ」を”stop”と理解しているだろう。彼もそうだったのではないか?


    日本語では「止まれ」と言う時、アメリカ人は”Stay”,”Freeze”,”Wait”,”Stop”をどのように使い分けるのだろう?
    こういうことはなかなか難しい。

    外交では翻訳者によっては相手に真意が伝わらないこともあるだろう。

    かように、翻訳という仕事は人の気持ちに関わるデリケートな部分を含んでいる。

    だから、将来、翻訳が機械に取って代わるなど私には到底考えられないのである。


  2. 世の中、便利になるほど学ぶことは多くなる

    11月 29, 2015 by dolce

    人の生活の原点に、計算がある。
    そろばんを作った人がいて、計算は進歩した。
    しかし、今度はそろばんを学ぶ必要が出てきた。

    続いて電卓が作られた。
    電卓は学ばなくても使えるが、電卓を作る人は電卓の仕組みを知らねばならない。
    では、電卓を作る人だけが仕組みを学べばいいかと言うとそうではない。

    電卓の中にはICが入っている。ICを勉強する人が要る。
    電卓の中にプログラムが入ればコンピュータである。


    コンピュータの四則計算は、もとが1か0のビットである。
    どうして1か0だけのビットで計算ができるのか?

    こういうことから、2進法の勉強が必要になる。
    2進法を学ぶと16進法の勉強も必要となる。

    かくして、我々は代々伝わってきた知的財産を、後輩の子どもたちに伝えていかねばならない。
    世の中が進歩すると学、ばなければならないことは増えるのだ。

    生活の中に便利なものは増えていくが、だからと言って何もすることがなくなるということはない。
    文明の恩恵だけ受ける人間になるのは、必要でない人間になることと同じだ。

    「あなたは何ができますか?」
    「何もできません」
    「何も学ばなかったのですか?」
    「機械がみなやりますから」

    そんな人間を雇う会社があるだろうか?

    小学校で2進数の勉強が出てくるようになったのも、時代を象徴している。

    グループを作って、子どもたちに任せたら、有能な子どもが出てきて、2進法の学習をリードできるのだろうか?
    またそれがどのように四則計算と結びつくのか、学習できるのだろうか?

    それとも、機械が計算するので、計算方法を子どもは学ばなくていいと言えるのだろうか?


  3. 言うだけの人

    11月 29, 2015 by dolce

    「恍惚の人」は有吉佐和子のベストセラーで流行語にもなった。

    私はこの小説のタイトルが頭にあって「〜の人」という響きが印象深い。
    そういう影響もあってか、最近「言うだけの人」というのが頭に浮かんで、もしかしたら小説になるかも知れないと思った(笑)。
    それだけ、最近は「言うだけの人」が目につく。

    言うだけの人は、それがどんな凄いことでも、実際それを実現するためにどんな環境を整えるのか、誰が行うのかを言わないと軽い感じしてしまう。
    アーサー・C・クラーク氏が、かつて宇宙旅行をするには、宇宙ステーションまでの宇宙エレベーターを作ればよいと言った。
    そこまで聞くと、それこそ言うだけかと思ったら、そのあと宇宙エレベーターを作るための材料とか、工事の方法とかを説明し出し、話が現実味を帯びてきた。

    言うだけの人それで、この人は本当に凄い人なんだと思えるようになってきた。
    現在では、宇宙エレベーター実現のために、ビジネスとして本当に計画を考えている会社が日本にもある。

    宇宙には金の含量が非常に多い惑星があるという話を聞いたことがある。すると、こういう情報を得ただけで「金が必要なら、惑星から持ってくればいい」などと言ったりする。
    しかし、ではどうやって金を持ってくるのかという話には及ばない。

    もっと身近な話では「ICT教育ですか?それなら子どもにタブレットを持たせればよい」などと言う人がいる。
    それはただタブレットという言葉を使うだけで、タブレットを持たせるにはどうするのか、ただ持たせるだけでいいのか、メンテナンスはどうするのか、教材は誰が作るのかという具体的な話はしない。本人の頭の中には実践にいたるまでの具体的な手立てまでイメージが浮かばないのであろう。
    まことに無責任で、こういう話にはうんざりする。

    だから、教師は実践してからモノを言えと言うのである。
    こういうのを空教育論というのだろうが、空教育論は妄想と同じである。

    こういう風潮が目立つのも、実際に自分で行わないことが増えてきたからかも知れない。
    例えば「家を建てた」と言っても、それは建築業者が作業して作ったわけで、自分が作ったのではない。
    もっとも、家を建てるというのは、普通、建築業者に依頼して作ったものを「自分で作ったように」言うので問題ないが、それでもドイツ人は自宅を夫婦で作ることが珍しくないと言う。

    少し前までは「ウチでご馳走します」といえば、そのウチへ行くとそこで料理を作ってふるまってもらうということが当たり前だった。
    ところが、最近では仕出し屋へ電話するだけである。
    何でもかんでも、電話一つで金を出して済ませてしまう。
    だから「自分でやる」ということが本当に少なくなってきた。
    そのせいか「やる」と言えばそれだけでできると思う人が増えてきたのではないか。
    言うだけの人に足りないのはWHO(誰が)とHOW(どのように)である。

    小学校で自校の水田を持っていて、田植えから収穫まで実践している学校があるが、これなどはすばらしいことである。

    教師は「言うだけ」でなく「言う前に、自ら実践して」みてそれからモノを言うべきであると言いたい。


  4. 外国語を学ぶ意味

    11月 27, 2015 by dolce

    外国語を学ぶ意味は、ただ言葉の置き換えをすることだけではない。

    年末になると、ベートーヴェンの第九が歌われる。
    合唱には、市民も参加することが恒例になっているところもある。

    その第九はドイツ語で歌われている。
    私は日本語で歌っている第九を聴いたことがない。

    なぜ、日本語に訳して歌わないのだろう?

    それは、ドイツ語の持つ響きが大切だからと思うのである。

    言語の意味を知ろうとするとき、大切なのは表面的な意味だけを知ることではない。
    ある民族が独自の言語を持つということは、その言語にまつわる独自の文化を形成しているわけである。

    言語で何を表しているかは、単語の置き換えでは本質を掴むことはできない。
    さらに、その言語が持つ独特な響きをも理解する必要がある。
    理解するというより、その言語が持つ響きが直接心に訴えかけてくるというところがある。

    同じことを訴えるにしても、言語の持つ響きによって相手への伝わり方は違ってくる。

    そういう言語の持つ独自性に鈍感なようでは、その国の文化も理解できないだろう。

    オーケストラが国によって違う響きがするのも、日常使っている言語に影響されているからだと言った人がいる。
    その考えを頭において聴いてみると、なるほどという感じがする。

    私の家にはV.Eフランクルの「夜と霧」の訳本が2冊ある。
    訳者はそれぞれ違っていて、訳し方も違うので、読む方としては受け止め方が違ってくる。
    そういうこともあって、理解を深めるためには言語で読むようにしなさいと言われるのである。

    英語でもドイツ語でも、初心者のうちは一度日本語に置き換えてから理解しようとするが、レベルが上がってくるとそんなことはしない。
    直接その言語が頭に入ってくるわけである。

    こんなことを言っている私は「そんなこと当たり前だろう」とあちこちから言われるようで恥ずかしい。

    大学の先生なら、なおのこと当たり前過ぎることで、外国語を学ぶことの深さが翻訳機で実現できると考えている人が、大学の先生などとは思いたくない。
    なぜなら、大学というところは高校より上のはずだろうから。


    以前投稿したのだが、私が訪問する企業では工場では、日本人と外国人が入り混じって働いている。
    なぜか外国人は日本に来ると、日本語を早く覚える。
    日本語は不自由なく使える外国人は強い。

    雇用者としては、働く能力が同じなら、外国語に強い外国人を雇いたいという気持ちが働く。
    なぜなら、部品は、今や英語やその他の言語で書いてあることが多くなっているからだ。
    英語ぐらいできない日本人は、将来、外国人に職場を奪われるかも知れない。

    私は自分でパソコンを組み立てるようになって、20年ぐらい経過しようとしている。
    そのころは、今ほど組み立ては簡単ではなかった。
    CPUごとに、マニュアルを見て電圧の設定などしなくてはならなかったからだ。

    マニュアルは全て英語であった。
    もっともYahooのサイトも始めは全て英語であった。
    だから、インターネットを始めてから英語が強くなったという人もいた。

    英語を学んでいるから仕事が学べないではなく、仕事も英語も同時並行であり、相互作用で強くなっていくものだろう。

    博士号を持っている大学の先生は、論文を当然英語で書いたのだろうから、英語が苦手ということはないはずだが。


  5. 賢明な大学選び

    11月 26, 2015 by dolce

    いい大学とはどういう大学だろうか?
    それは立派な建物の大学のことを言うのではない。
    いい大学とは、ズバリ、いい先生がいる大学と言えるのだと思う。

    大学に何をしにいくかと言えば、ブランドを獲得しに行くのが本命ではない。
    学びにいくわけだから、いい学びができる大学がいいということになる。

    東大の価値はいい先生がいるということであり、そういう先生に学びたいというのが本来の目的であるはず。
    だから、東大以外にもいい先生はいるので、東大選びが全てとも言えない。

    例えば、静岡大学工学部には、世界で最初にテレビを発明した高柳健次郎という先生がいた。
    その影響だろうと思うが、ここは伝統的に電子工学科の専門性が高かったように思う(現在のランキングは知らない)。

    私が中学校で理科を学んだ時、理科の先生は電気関係にめっぽう強い人であった。
    中学校の理科ではそれほどレベルの高いことを学ぶわけではないが、それでも、この先生は電気に強い人なのだということは伝わってきた。
    先生は自慢するわけではないが、電気関係については自信に溢れているという空気は伝わってきたし、安心感もあった。
    それに、先生自身が電気関係のことが好きであった。

    そのため、私は影響を受け、理科が好きになった。
    先生がどこの出身なのかということは始めから知っていたわけではないが、理科好きになると、どういう先生なのかということにも関心が向くのである。

    先生に関心が向くというのは、先生がいいからだけではない。
    反対にひどい先生の場合も、こんな酷い先生、どこの出身なのだろうということになり、それが大学なら大学の名誉が落ちることになる。

    先生は、未来の社会についての展望を持っていることが必要である。

    技術革新の激しい今日では、児童・生徒に未来に希望を持たせる先生の頭が時代遅れであってはならない。

    今日の日本では外国語の習得が急務である。
    まずは英語は大切である。

    しかし、英語(外国語)は翻訳プログラムの進化で、それほど重要ではないと言う人がいる。
    これを、一般社会人の誰かが、茶のみ話で言うならともかく、大学の先生でそういう人がいるとしたら、その大学のイメージはずいぶん落ちる。
    「その程度の大学?」と言うことになる。

    そんなことを言うなら、将来、人間自体が必要なくなるだろう。
    科学技術の進歩で、ロボットの能力はどんどん人間に近づいている。

    川端康成は日本人で最初にノーベル文学賞を受賞した。
    文学作品は、作家が自分の国の言葉で書くので、世界に知ってもらうには、当然翻訳が必要である。

    川端の作品がノーベル文学賞を受賞したのは、翻訳家の功績が大きいと言われている。
    英訳でもっとも貢献したのが、アメリカ人の日本文学研究者で、「源氏物語」の英訳などでも知られるエドワード・ジョージ・サイデンステッカーさんでした。(NHK「かぶんブログ」より)

    川端のどの作品が受賞の大賞になったのかと言えば、それは「雪国」である。

    では、この作品の何が優れているかと言えば

    選考委員会は、「心理描写に優れていて芸術性も高い」と川端の作品を高く評価し(NHK「かぶんブログ」より)

    とあるように「心理描写」「芸術性」を訳した人の功績は大きいと言える。


    世に出ている翻訳本は、本によっては一種類ではなく、複数冊発刊されている場合がある。
    そして、どの訳がいいなどと話題にのぼることがある。

    訳というのは、一対一の単語の置き換えではなく「何をどう伝えたいのか」という「人間性」をもが問題になる。
    それは翻訳家自体の生き方、人生観、知識、教養も問題になるので、翻訳は誰が行っても同じということにはならない。

    私は自主的に英語を学ぶ会に参加しているが、そこには様々な経歴を持った人がいて、みな英語のレベルは高い。
    問題となるのは、言葉の置き換えではない。

    翻訳には「名訳」というのも存在し、機械がノーベル賞に関わる翻訳ができるようになることは容易ではない。
    と言うより、人間自体が時代とともに変化するから、翻訳機が追いつくのは不可能と言えるだろう。
    そもそも、翻訳機に翻訳を教えるのは人間だから、人間が外国語(英語)を学ばなければ、翻訳機を教える人がいなくなる。

    大学選びはその大学の先生の知見を見て、選ぶべきだろう。
    機械翻訳で翻訳家が失業するだろう、などの発言レベルの先生の大学は、それなりのレベルの大学だろう。


  6. いまさら放り出されても

    11月 25, 2015 by dolce

    昔は街で野良犬をよく見たものだが、今日ではすっかり見なくなった。
    野良犬が多い頃は、野良犬たちが集まって群れとなった。
    群れは何となく集まっているのではなく、ボスがいて統制されていた。
    やはり、祖先が狼なのだろう。
    犬たちはたくましく生きていた。

    野良犬がいなくなって、管理が行き届いたおかげで安全になったのはいい。
    そういうより、近頃の犬は大切にされすぎている感じもする。

    そのせいか、家から放り出されると、昔の犬のように一人(一匹)では生きていけないそうである。
    心細いと誰にでもついて行ってしまうらしい。
    そのぐらい、人間に頼りきりに飼いならされてしまったようである。

    人間の子どもは、ひたすら受験戦争に向かうように飼いならされたようで、いい大学、一流企業というコースが既定路線になった。
    子どもは成長とともに生意気になる。
    そうでなければ心配でもある。
    女の子は小4ぐらいになると、父親が風呂に誘っても拒否するようになる。
    男の子であっても、親とべったりではなくなる。

    独立心が出てきて生意気になっても、やはり大人の言うことには気になるので「勉強しなさい」に従うのが「いい子」という認識があるのだろう。
    だから、ほとんどは親が決めた(大人が決めた)路線を歩む。

    路線に乗ってめでたく一流企業に入社したら「勝ち組」ですか?

    ところが、以前書いたように、金融ビッグバンのころから様子が変わってきた。
    企業の経営の仕方が変わったのだ。
    終身雇用制度が崩れたのだ。

    それは会計基準が変わったことに起因する。

    それまで企業は入社した社員のための退職金は、その社員が定年退職するまでに貯めればよかった。
    ところが、社員がいつ退職しても、それ相当の退職金を用意しておかなければいけないとなったものだから、企業には余裕がなくなった。

    経営に行き詰まった企業が、希望退職者を募るようになったのも、会計制度の変更があったからできるのだろう。


    つまり、終身雇用が崩れてきて、採用の仕方も変わってきたのである。
    しかし、それまで「言うとおり」「指示されるまで」に慣らされてきたものはすぐにはなじめない。

    だから、学校を卒業すれば、誰かが仕事を与えてくれるものだという気持ちから抜け切れない。
    ここは、飯時には主人が餌をくれるものだと待っているポチのようなものだ。

    会社は昔からあったわけではないし、地面から生えてきたものでもない。
    誰かが作ったものである。
    だから、会社に雇ってもらうのではなく、自分が会社を作ろうという気持ちにはなれないものかと思う。

    アメリカの情報では、大学生が学生時代にすでに会社を作っているというのが珍しくない。

    Yahooだってもとはそうしてできた会社である。

    日本では進路指導の先生すら「雇ってもらう」が当たり前という認識でいるのは情けない。


  7. 子どもを足踏みさせていないか?

    11月 25, 2015 by dolce

    android_Androidのアプリを作った女子中学生。それで年収三千万円。
    この子どもが決して例外ではない。他にもこのような中学生、高校生がいる。
    ビル・ゲイツがマイクロソフトを作ったのは19歳だった。

    私が某中学校に勤めていた時、ある研究所から中学生たちを連れて見学にきて欲しいという話があった。
    行ってみると、何人かの博士号の肩書を持った人たちから名刺をいただいた。

    何が目的だろうと思っていたら

    「これからは、この子たちぐらいから始めないとだめです」

    というような話をされた。

    つまり、プログラミングを始めるには大学に入ってからは遅いという話をされたのだ。
    そして、時々はここへ中学生たちを遊びに来させてほしいと言われた。

    思えばAndroidのアプリを開発するソフトウエアは無償で提供されているとはいえ、プログラミングはそう簡単ではない。
    しかし、中学生がそれを作ってしまうというのは、すごいことだと思う。

    いや、すごいと言うよりは、中学生にはそのぐらいの能力があるのではないか、と思うほうが正しいのではないかと思うのである。
    いったい、どこからそんな力が出てくるのだろう。
    それは「こんなものがあったら便利なんだろうな」と思う発想ではないか?

    だったら、ちまちまと練習問題の解き方など教えているより、子どもの心に火を灯すようなきっかけを作ることの方が大切ではないかと思うようになった。
    そう言えば、小学生を教えている時、ある男子がアマチュア無線の資格を取りたいので、と練習問題の解き方を教えて欲しいと言ってきたことがある。
    確か6年生だったと思うが、問題を見ると、交流理論の問題が出ていた。
    問題を特には、無理数(√:ルート)の知識が必要だった。

    理解はできないだろうと思いながら、一応説明した。
    ハイハイと聞いていた彼は「先生、それでは今の説明をここに書いてください」と言った。
    そして、ノートを持ち帰った彼は、それを理解してしまったのである。

    最近の子どもは国体やオリンピックの選手の候補になっている者もいる。

    音楽コンクールでも大人にひけをとらない者もいる。
    かつて、ショパンコンクールに優勝したブーニンは19歳だった。

    パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールで優勝した、 庄司紗矢香は14歳だった。

    このように、十代で活躍する子どもは多い。

    これは、最近の子どもが凄いのではなく、もともとそういう力を持っていたと考えた方が正解なのかも知れない。
    もともと才能があるのに、足踏みさせていたのかも知れない。

    もっとも、経済的環境の充実、指導法の確立も大きいのだろう。

    大人が「オレが教えてやる」の姿勢ではなく、才能を引き出すという視線で接するべきではないか。

    しかし、子どもには才能があるからと言って、放置しているのはよくないと思う。
    やはり、経験のある水先案内人が必要だと思う。
    それは、才能を開花する子どものもとには、必ず名コーチがいるからである。

    このような思いが頭をめぐるようになったせいか、私の日本が飛躍するための案として、中学校入学と同時に、国が子ども全員にノートパソコンを配るようにしたらと考えている。

    そして、年一回、全国プログラムコンテストを行う。
    一位賞金は5億円。
    一位の者には国の支援で、会社を設立する。

    かなり生かされないパソコンも出てくるかも知れない。
    でも、まれにビル・ゲーツ程度の者が出てくるかもしれない。
    そうなれば、国としても有効な投資である。

    青春時代を、ムダな点取り競争で過ごすこともなくなるのでもないか。
    東大へ入ることが至上主義の親の中には、目の色が変わる者がいるかも知れない。

    そのぐらい大胆な発想が出ない今の日本は残念である。

    イラストでよくわかるAndroidアプリのつくり方 Android Studio対応版


  8. フリーエージェントと言う生き方

    11月 23, 2015 by dolce

    フリーエージェントとはプロ野球で自由契約になった選手に使われる言葉です。
    しかし、組織に束縛されず自由に生きる人にも使われる言葉です。
    そういうと、会社から解雇されて、ホームレスのような生活をしている人を想像する人もいるかも知れませんが、そうではありません。

    ところで、人生における成功とは何でしょうか?
    従来、日本では大人になってから、どれほどの収入があるかで測ってきたということはないでしょうか?

    社長になった人、大臣になった人など社会的に認知度の高い地位に就いた人たちは成功者なのでしょうか?
    芸術家はどうでしょう?
    多くの芸術家は貧しい暮らしをしています。

    昔の日本は国自体が貧しく、国民も貧しい人が多かったので、金持ちに憧れていた人も多かったと思います。
    だから、収入の多さが人生の成功の尺度ということが、いつしか身についたのかも知れません。

    敗戦を経て再スタートした日本は、いい大学、いい企業というコースが出世街道というイメージが定着しました。
    その街道をまっしぐらに歩いた人は、収入も多く豊かな生活を送るようになったことは確かです。

    しかし、コンピュータやインターネットの発明をきっかけに、時代は変革を遂げています。
    なのに、頭は依然として切り替わらない人たちもいます。

    再びフリーエージェントの話に戻しましょう。

    今、フリーエージェントと呼ばれている人たちは、生活のための仕事はせず、毎日自分の好きなことをして生活をしています。
    それでいて、彼らは月にして100万円以上の収入を得ています。
    毎月、100万円の給料をもらっているサラリーマンはどれほどいるでしょう?

    よく年収1000万円以上の富裕層という言葉を聞きますが、そう言われる彼らも雇用されていて、組織に縛られています。
    フリーエージェントの場合、雇われているという形はありません。

    具体的には、私のFacebookのある友だちは、一旦は会社に勤めたものの、20代でフリーエージェントの基礎を作ったため、会社を辞めました。
    彼の年収は1億円を超えています。
    だから、買いたいと思うものはたいてい買えると言っています。

    24時間はすべて自分の時間ですから、彼は日本を離れて自宅を持ち、世界中の行きたいところへ行っています。

    彼が年収1億円を超えているように、フリーエージェントと呼ばれている人たちは裕福です。
    月収100万円というのは少ない方の人に思えます。
    1億どころかその10倍以上の人も少なくないのです。

    年収1億以上の彼の学歴と言えば、大したものではありません。だから、もちろん東大ではありません。
    資金があったわけでもありません。なのにそういう地位にいるのは、コンピュータとインターネットの力です。

    年収を成功の物差しにしていた人は、フリーエージェントの彼らがどう見えるのでしょうか?

    しかし、あいも変わらず、有名大学、有名企業と、この道を外したら負け組などと力説している人がいます。
    そして、オレの本を買ったら、将来負け組にならないで済むと言いたげに宣伝している人もいます。
    まあ、その本が少しはためになればよいのですが、買った人から「間違っている」とか「嘘が書いてある」とか「中身が違う」など批評されているのは、詐欺師に近いように思います。

    新幹線が走っているのに、頭の中はSLに乗り遅れるなと言っていいるようなものです。

    コンピュータとインターネットが、どれほど世の中に革命をもたらしたのか気づいていない人が、これから世に出ようというのは、敗戦間近に米国のグラマンに竹槍で対抗しようとするのに似ていると感じました。

    日本には優れた学者がいますが、とんでもない先生もいることを頭に入れて、学生諸君は自分の未来を考えるべきだと思います。

    フリーエージェント (free agent) とは、組織に雇われない働き方をする人々である。

    主にインターネットを使って自宅で働き、アメリカでは労働人口の四分の一がこの働き方を選んでいる。

    近年アメリカで注目されているフリーエージェントの議論は、日本ではまださほど議論されていない。 日本において学術的にフリーエージェントの議論を展開しているのは、今のところ玄田有史と三島重顕である。 玄田はDaniel Pink(2001)の邦訳である『フリーエージェント社会の到来』(ダイヤモンド社)に付録としてコメントを載せている。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)


  9. IT機器を使った方がよいか?

    11月 23, 2015 by dolce

    IT機器(ICT機器を含む)を使うと、ものごとが捗るのかという疑問を持つようになった。

    私は英語を自主的に学ぶクラブに参加している。
    参加者はもれなく電子辞書を持ってくる。

    私も持っていたので持参していたが、ある日故障してしまった。
    新しく買おうにも、そんなに安いものではないので、どうしようかと思案した結果、普通の紙の辞書を持って行くことにした。

    使用してみた感想。

    荷物にはなるが、ひきにくいということはない。
    だいたいこの辺りと見当をつけて、目的の単語にたどりつくというのは、みながやっていることだが、こういう作業をやっていることで気がついたことがある。

    電子辞書は目的の単語にまっしぐらという感じだが、紙の辞書はたどりつくまでに、他の単語に出会う。
    実はこのことが紙の辞書の大きなメリットらしい。

    英語の辞書に限らず、国語辞典でも、百科事典でも売れ行きは落ちているそうだ。
    それでも、紙の辞書を廃止しようとしない出版社もある。
    その編集者が語っていたことは、紙の辞書の良さは「偶然の出会い」であるという。

    つまり、目的の単語を探している時に、目的外の単語に出会ったことが役に立つということなのだ。
    私にしてみれば、それは楽しさでもある。

    それに、これは文章に表しにくいのだが、紙の辞書には親しみを感じる。
    電子辞書に限らず、スマホやタブレットもそうだが便利であっても親しみがわかない。

    また、電子辞書より紙の辞書で調べたものの方が印象が強く、記憶に残る。
    紙独特の質感や雰囲気が、感覚に残るような気がする。

    こういうことを考えると、ただ効率化だけでタブレットで教科書の代わりにするというのは味気ない気がする。

    dictionary


  10. 点取り競争の限界

    11月 21, 2015 by dolce

    戦後の日本は受験競争で、学歴による階層作りを行ってきた。
    外国からは、日本は「学歴という階級がある」とも言われてきた。
    しかし、学歴そのものは何も生産しない。
    そのことが、一時は米国に続く世界第二位の経済大国と言われる国を作ってきた。

    学歴というブランドの頂点に立つ大学の例として、東大が君臨してきたが、近年その栄光はかつてほどではない。
    それは東大自身の責任でもなく、世界が変わってきたことによる。

    その変化にいち早く気づきだしたのは富裕層である。
    富裕層が日本型の受験戦争に巻き込まれず、海外の大学を目指すようになってきた。
    近年、海外留学に日本の高校生が積極的でないという報告があるのだが、社会を客観的に見つめる層にとって海外の有名大学は魅力的なようだ。

    それは、単に外国留学がブランドになるという勘違いの視点ではなく、真の実力をつけるためにはと考えた結果である。

    海外へ目を向け始めたきっかけは何だろう。
    私が思うには、1996年から2001年にかけての金融ビッグバンの影響が大きいと思う。
    ちょうどその頃私は損害保険会社の社員だったから、金融改革の風の影響をもろに受けた。

    金融ビッグバン(きんゆうビッグバン)は、日本で1996年から2001年度にかけて行われた大規模な金融制度改革を指す経済用語。
    この時期に銀行など金融機関の「護送船団方式」を崩壊させるような改革が進行し、その後、2002年以降には、銀行業・保険業・証券の各代理業解禁など規制緩和が進行したことから、これらの時期を分けて、2001年度までは「第1次」、2002年度以降を「第2次」と分けて指すこともある。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

    この頃は、金融再編成にどう対応すべきか、学習会と研究会が頻繁に行われた。
    銀行や保険会社が破綻したのもこのころである。


    日本の経済界に大激震が起こったこのことについて、教育関係者はどのくらい周知しているのだろう?
    社会の大変革に、教育関係者が無関心であることは、その国の教育を時代遅れにすることは言うまでもない。

    親方日の丸でいた人たちが、呑気にやっているから、今なお脳天気なことを言っている人もいる。
    自分だけが脳天気ならいいが、その脳天気ぶりを子どもに向かって振る舞ったら、本気にした子どもたちに被害が及ぶ。
    折しも、今日は海外の大学に留学し、日本の大企業へ入社し数年働いている青年が訪れた。
    彼は親から言われたのではなく、自ら決断し、外国の大学を選んだ。

    金融ビッグバンは橋本内閣の時に行われた。
    その意図は、このままでは日本は取り残されると気づき、海外と日本が対等に取引するには、銀行は国際基準である自己資本比率を8%以上にしなければならないとしたのである。
    そのため、8%の基準に達しない銀行が潰れたのである。
    その上、それまで護送船団方式と言われた、もっとも力のない銀行でも経営が成り立つ金利を大蔵省が設定していたのを廃止し、金利の自由化が始まったのである。
    かつて、銀行の金利は全て同じ、保険会社の料率が同じであったことを知っている教師はどのくらいいるのだろう?

    護送船団方式とは、大蔵省が金融の利率、保険の料率を一律に決めて、金融機関はそれに従って経営するだけであり、どこも経営が成り立つように、大蔵省の船に乗って守られていたことを言う。

    以上のことを総括すると、ペリー来航につぐ第二の開国が日本に訪れたと言ってよい。
    だから、外国と日本との様々な取引が自由化され、外国語の習得は必須になってきたのである。
    そういう事情があるのに、今もなお英語は一部のエリートだけに必要で学ぶ必要はないとか、東大の何学部に入学するものだけがエリートだと言ったりする甚だ時代感覚のずれている大学の先生がいる。
    まあ、自分は井の中にいて給料だけもらっていたのだろう。

    今日本は行き詰まり状態だが、これというのも「ただ点さえ取れば、いい地位に着ける」という教育に洗脳されてきた、社会人予備軍のせいと言える。
    旧態然とした指導のもとで、与えられるまで待っているという姿勢で、就職戦線を勝ち抜き、企業が雇ってくれるのが当たり前という感覚がぬぐいきれないのだろう。

    自らの力で起業するという理念を持たなければならないのである。

    今や大企業だけが強いわけではない。
    大企業から飛び出て10人足らずで、大企業と対等に取引する時代でもある。

    中学生の女の子がスマホのアプリを作って、年収三千万円の時代でもある。

    東大へ行くのもいいが、東大で何を学び、どんな力をつけたいのかはっきり目標を持つように教師は指導しなければならない。
    そのためには、指導者である教師が現実の社会に明るくなければならない