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9月, 2015

  1. データベースと情報管理

    9月 29, 2015 by dolce

    「データベースと情報管理」は二学期から、放送大学大学院の情報学で私が学ぶ科目です。
    データベースと言えば、身近なところではマイクロソフトのACCESSが浮かびますが、これはデータベースソフトの一つです。

    「データベースと情報管理」では、特定のソフトについて学ぶのではなく、もっと広範囲にデータを管理する方法や概念について学びます。
    これまでに、在庫管理、名簿管理、不動産情報管理などのプログラミングなどを通じて経験してきましたが、私がコンピュータを学び始めたころは、ちょうどPCが一般人の前にも現れたころで、ほとんどの人が独学という状態でした。

    NECのPC-8001が世の中を席巻していましたが、私はこのNECという会社によいイメージを持っていません。
    というのは、薄っぺらなA5の冊子が説明書としてついてきただけで、しかも内容といったら専門用語のオンパレードで意味がわからないという状態でした。
    専門語の解説書もなかったので、しばらくは途方にくれていました。

    それに比べるとSHARPは親切で、説明書も親しみやすく、おまけに近所の電器店にエンジニアが来てくれて、半日ぐらいかかってプログラミングを教えてくれました。
    だから、SHARPについては好印象を持っています。

    昔は、先生たちも関心のある人たちが集まって、よく情報交換をしました。
    今はそういう世界ではなくなっているようです。

    パソコンの黎明期は「みんな独学」という感じで、私も例外ではありません。
    だから身につけたことも「我流」の懸念があります。

    私が一番恐れることの一つは我流です。
    我流でやってきたという不安を持っていますから、データベースについても学問的体系を基本から身につけたという実感がありません。
    虫食いのように欠けたところがあるような気がするのです。

    このほど「情報学」で「データベースと情報管理」が学べるのはよい機会だと思っています。

    先日、教科書が送られてきましたが、常にカバンのなかに入れて持ち歩き、喫茶店で人を待っているような時でも読んでいます。
    すると、予想したとおり、知らない概念がたくさんあります。

    私のこの勉強は「学歴」ではなく、不足した知識の穴埋めです。

    若い人は時間があっていいなあと思いますが、今年の放送大学の卒業生の最高齢が96歳だったことを思うと、自分が年寄りなどと言うのは恥ずかしい気がします。

    ともあれ、マイペースで大学院の勉強ができる環境には感謝しています。
    しかも、先生は超一流で中身の濃い勉強ができる充実感があります。

     


  2. 18歳選挙権の影響は如何に

    9月 28, 2015 by dolce

    新たに18歳、19歳の人口が選挙権を持つことになった。来年夏の参院選から投票できることになる。
    この選挙権の年齢引き下げについては、いろいろ論議の末決まったものだ。

    18歳では若いのではないかという意見もあった。
    なにしろ、大学生でも、昔日本が米国と戦争をしたことを知らない者もいる。
    私の身近では、ショスタコービチを知らない音大生がいたことが、話題になっていたこともある。
    ショスタコービチは有名な作曲だが、音大生でなくても、社会科の先生なら、スターリンの圧政下で生きた芸術家として知っているべきだろうと思う。

    ところで、社会常識として当然知っているべき、と思われることを知らない若者がいることを笑うのは簡単だが、教育に携わるものなら、もう一歩踏み込んで考えてみてはどうかと思う。

    覚えられないのは、頭が悪いからだろうか?

    私は、そうとも言い切れないと思う。

    ■感動が記憶を強くする

    人は如何にして物事を覚えるのだろうかと考えた時、それは脳の仕組みを絵画的に見ただけでわかるものではないと思う。

    私の環境下では、大学のように実験をしたり、アンケートでデータを収集するような手段はない。
    そこで、自分の過去から考えてみるしかないと思い、子どもの頃の記憶をたどって考えてみた。

    すると、どうでもいいと思われることを、よく覚えているものだということに気がついた。
    例えば、真空管の名前。6WC5、6D6、6ZDH3A、6ZP1、12F。

    なぜこんなものを覚えているのだろう?

    小学生の時、我が家ではラジオを新しく買うことになった。
    そして、今まで使っていた古いラジオを、私がもらうことになった。

    私はワクワクして、ラジオの裏蓋を開け、ホコリを払って中を探索した。
    その時、並んでいた真空管の名前が、6WC5、6D6、6ZDH3A、6ZP1、12Fだったのである。

    電気に興味があった私は、初歩のラジオと言う雑誌を買ってもらっていたが、まだ電気回路などわかっていなかった。
    ただ、雑誌には実体配線図というものがあって、電気回路はわからなくても、実体配線図という絵を参考にして、見様見真似で作れば何かが完成するというものであった。
    もらったラジオはもう寿命ということで、私に払い下げられたのだが、その時の私にはラジオを修理するという術を持っていなかった。

    そうした読者も想定してか、雑誌には修理方法の一つとして「空手チョップ法」というものが、マンガで描かれていた。

    そんなポンコツラジオではあったが、私は自分専用のラジオが持てたということが嬉しくてたまらなかった。
    その感動が、6WC5、6D6、6ZDH3A、6ZP1、12Fという暗号のような真空管の名前を忘れないものにしたのだった。

    だから、感動が記憶を強くすると、私は思うようになったのだ。

    小中高と経てきた大学生が、一度も太平洋戦争の説明を聞いたことがないとは考えられない。
    なのに、日本とアメリカの戦争を知らないのは、学んだ時の感動がない、薄いと私は考える。

    音大生がショスタコービチを知らなかったというのは、同様な理由によるのだろう。
    ショスタコービチと言えば、代表作が交響曲第5番だが、音大へ行くような学生が、この曲を聴いて印象に残らないはずがないと思うのである。

    こう考えてくると、18歳という年齢が「大人として若い」という問題ではないと思う。
    最近、元高校の英語教師をしていたという83歳の男性に会ったのだが、この方は今日の社会のあり方を憂いて「自分の教え方が悪かったのか?」としきりに反省の言葉を漏らしていたのが印象に残った。


  3. 知能を高める教育は行われているか

    9月 27, 2015 by dolce

    ガラケーやスマホは、現代の知恵を最も集結したものの一つだと思う。
    販売店に行くと、若い女性がカウンターで対応していることが多い。

    感心するのは、次から次に発売されるガラケーやスマホなどの携帯端末の説明をする、この若い女性たちたちである。
    携帯端末はコンピュータと言えるものであり、通常のノート型PCやデスクトップ型PCより技術の集積度は高い。

    CPU、OS、アプリ、その他の付属機構のあらゆるものを取り込んでなお拡張が進んでいる。
    それに伴って、ソフトウエアの拡大も肥大化している。
    そのため、機種が新しくなる度に機能は拡張される。

    できることが多くなるのはいいことだが、窓口で販売する女性たち(販売員)は盛り込まれた機能を理解し、客に説明しなければならない。
    新機種の開発ペースは加速しており、販売員が覚えなければならないことは膨大になっている。

    私は新機種が出るごとに機種変更をするというほどではないが、ポイントがたまって0円またはそれに近くなると新機種にしている。
    その度に感心するのは20代の女性が、誠に手際よく製品の特徴や料金体系を説明することだ。

    「頭がよくないとできない仕事だ」と感じた。

    新機種が発売される前には、販売員を集めて講習会が行われるだろうが、決められた時間内に販売員たちは覚えなければならない。
    恐らく、覚えられないような女性は採用されないだろう。

    かように優秀と思われる女性たちが担当している店で、驚きの対応があったことがわかった。

    父親が亡くなったある家庭で、長女が父親のガラケーの解約に行ったところ

    「解約は本人でなければできません」

    と言われたそうだ。
    長女は、当然、父親が亡くなったことを伝えたと思われるが、解約は本人でなければできないと言われたそうである。

    長女は「A社は死人を連れていかないと、携帯の解約ができない」と怒っていた。

    この話を聞いた私は信じられなかったし、私が行く店ではそんな頭の悪い店員に会ったことはない。

    こういう場合の対応は、死亡診断書か戸籍謄本を示すことで解決することだが、頭の悪い店員に会うとこんなことがあるのかも知れない。

    ■詰め込み教育

    詰め込み教育としばしば批判される日本の教育だが、私はただちにそれがいけないというつもりはない。
    頭の鍛錬は記憶するだけでなく、知能の鍛錬もしなくてはならない。
    つまり[知識+知能]のバランスが大切なのだが、知能の比重が低いのが問題なのだ。

    企業は教育する余裕がなくなり、求める人材は、即戦力やマニュアル通り動く人間を求める割合が多くなっている。
    だから、店員の対応がまるで文章を朗読しているように感じる場合がある。

    実際、インターネット契約の関係の電話で、担当者が変わる度に、全く同じ説明をするので「もう、それは聞いたので・・・」と言うと「マニュアル通りやっていますので」という返事があった。

    ■センシティブ情報

    センシシティブ情報

    プライバシーや国家機密など、慎重に扱われるべき情報のこと。機微情報ともいう。定義として、OECDの個人情報保護ガイドラインでは、広く、『(情報漏えいによって)社会的差別を受けうる情報』と規定されている。また、個人情報保護に関するコンプライアンスプログラムの要求事項(JIS Q 15001: 2006)では、センシティブ情報の具体的項目に関して、以下の6項目を挙げている。(1)思想及び信条に関する事項(2)政治的権利の行使に関する事項(3)労働者の団体交渉に関する事項(4)医療、性に関する事項(5)犯罪の経歴、人種、民族、社会的身分、門地並びに出生地及び本籍地など社会的差別の原因となる事項である。コトバンク

    簡単に言えば、個人が秘密にしたい情報で、プライバシーの名でよく問題にされるが、個人情報とプライバシーは意味が異なる
    詳しくはこちらを参照。
    教員は人に物を教える立場だから、これらを正確に覚えておく必要がある。

    特に、頭の悪い人はプライバシーと聞くだけで「いけない」と反応する傾向がある。
    前述の携帯の解約の例のような場合は、機械的に「個人情報=プライバシー」と覚えているだけだと、対応に問題が生じたりする。
    しかし、何が問題になるのかを考える知能さえあれば、対応はわかるはずである。

    教員は児童・生徒の情報をたくさん掌握しているので、特に気をつけなければいけない。
    例えば、児童・生徒の名簿を学習塾に提供する、などということがあってはならない。

    しかし、本人が自ら自分の情報を公開することは、問題はない。
    例えば、自分がガンであることを自らのブロフで公開することは、何ら問題ない。

    だから、個人情報が公開されているから、直ちに問題ということはない。
    ◯◯商店が看板に店主の携帯番号を表示したり、姓名を表示しているのは、本人が承知でやっているだろうから問題ない。

    児童・生徒の知能を高めるには、教師も知能を高める必要がある。


  4. 未来のことは誰もわからない

    9月 26, 2015 by dolce

    時代が進むに連れ、今の仕事は変わっていくだろうと予想されます。
    今ある仕事もなくなるかも知れません。
    これから何年か学校に通って、将来何らかの仕事に就くだろうという子どもたちは、今と違った仕事をすることになるかも知れません。
    もしかすると、就こうと思っていた仕事は、その時になると、なくなっているかも知れません。

    そうすると、将来なくならないと思われる仕事を予想して、今から準備しておくという考えは一見正しいかのように思えます。

    だから正しい反応は、今は無い仕事は何かということです。そして子どもたちを、今は無い仕事を生み出せる能力を育てるべきなのです。

    二通りあります。一つはみんながうらやましくなるような新たな職業を生み出す人です。これを生み出せば大きな産業が生まれます。政府はそのような人材を育てようと必死です。が、これは一部の天才のみが出来ることです。

    これは「ある人」の意見です。
    これをどれほどの人が納得するのかと思います。

    疑問点は

    1.「今は無い仕事を生み出せる能力を育てるべき」と言っていますが、どのようにするとそれができるのでしょうか?
    2.「みんながうらやましくなるような新たな職業を生み出す人です」は具体的にどうするのでしょうか?
    3.「これを生み出せば大きな産業が生まれます」という保証の根拠はあるのでしょうか?
    4.「政府はそのような人材を育てようと必死です」はどこに(書いて)ありますか?

    とまず4つあります。

    それぞれについて検討するより、こういう考え方そのものが最大の問題と考えます。
    思考が地についていないというか、頭の中がバラバラ(分裂している)と思えます。

    ■未来は現在の延長である

    未来は変わるでしょうが、未来は現在の延長上であり、現代と連続しています。
    突然、まるで変わった世の中になるわけではないと思います。

    昔、映写機を作っている会社を訪問したことがあります。
    その時の技術者の説明を覚えています。

    「今は増幅回路がトランジスタなので、何年も前に入社した技術者は真空管はわかるが、トランジスタはわかりません」
    「最近入社した技術者はトランジスタはわかるが、真空管はわかりません」

    このような説明がありました。
    つまり、時代によって技術も変わっていくということ、しかし時代によって異なる技術を社内では得意な人が担当することで、連携を保っているということです。

    真空管からトランジスタに変わって行く時、技術者同士の交流があって、技術が伝達されて行くのです。

    いろいろな産業分野を見ると、時代の文化や技術は伝達されていることがわかります。

    メルセデス・ベンツ第一号は車体が馬車を改造したものでした。
    自動車の前は、馬車が交通機関として栄えた時代があったのです。
    ベンツは馬の部分を内燃機関に変えたのです。

    こういう例を挙げて行けばきりがないほどありますが、どんなに時代が変わっても不変なものがあります。

    例えば、物理法則です。

    だから、学校は職業を追っかけるところではなく、万物に共通した原理を学ぶところなのです。

    かつて、アメリカが教育改革を模索している時「(学校は)原理を教えよ」と言いました。

    時代は変わっていくでしょうが、時代を超越した原理を、その時その時の材料をもとに勉強するところが学校なのです。
    発想力や想像力を生み出すために、原理を学び基礎力を高めるわけです。
    それが、環境が違っても、柔軟に対応できる能力を高めると言えると言えるでしょう。

    「この人」は突如として、何の根拠のないものを思いつきのように持ち出してくるという傾向があるようです。

    この季節はさつまいもがとれますが、掘るとたくさんのいもがつながって出てきます。
    このさつまいものように知識の連携のない意見はどうかと思います。

    それに、教員養成の先生が、臆面もなく嘘を言うのはどうかと思います。
    (みんながうらやましくなるような新たな職業を生み出す人→「政府はそのような人材を育てようと必死です」)
    (証明されてもいないのに「証明されています」もやめましょう。「STAP細胞はあります」を思い出します。)

    ■地についた勉強をする

    誇大妄想のようなことはやめて、直近の自分の足元から勉強をしましょう(指導案を書きましょう→将来の教員のためにお手本を)。

    未来はどうなるかわかりませんが、今あることにまじめに取り組み、そこから未来を予想するべきと思います。


  5. 連続性のない思考

    9月 25, 2015 by dolce

    学生時代、ドイツ語の試験が間近に迫っていたので、部室で勉強していた時、ある先輩が

    「自慢じゃないが、僕はドイツ語はさっぱりわからん」

    と言った。

    それで

    「では、先輩はどうして試験、受かったんですか?」

    と聞くと

    「そりゃあな、試験範囲の訳を丸暗記していって、この単語があったなと思うところの訳を全部書くんだよ」

    と言った。

    つまり、解答としては余分かも知れないが、範囲の訳文を全部書いておくことで、採点者は正解が書いてあるということで、点を与えるということなのだ。

    私はなるほどと思った。

    なるほど、丸暗記も大切だなと思った次第だ。

    こんなことを思い出したのは、いろいろなブログを読んでいるうちに、どうも変だ、しっくりしないと感じるものがあったからだ。
    そして、この「変だ」「しっくりしない」という文を書く傾向のある特定の人たちが、いるのではないかとも思うようになった。

    なぜ変なのだろうと考えてみたところ、ある結論に達した。

    ■人はたくさんの知識を記憶しているが

    人の脳の記憶容量は140テラ・ビットと言われています。
    この説の真偽はともかく、膨大な記憶量であると想像できます。
    普通の単行本は余裕で暗記できてしまいます。

    高校生の頃の話ですが、コンサイス英和辞典を全部暗記した人がいるという話を聞きました。
    それが本当なら、単語の試験は絶対大丈夫と言えます。
    高校の単語の試験なら、全部含まれているでしょうから。

    そのように記憶がいいということは、素晴らしいことですが、それだけで作文ができるというわけにはいかないでしょう。
    なぜなら、作文というのは単なる単語の羅列ではできないからです。
    文法はもちろん、大切ですがそれより、論理を展開するには、記憶している知識の断片を有機的に結びつけていかなければならないからです。

    私が初めて料理に取り組んだ時、味噌汁の味噌は一番最後に入れると学びました。
    それはなぜか?
    味噌は煮過ぎるとまずくなるからです。
    鍋に入れるものの順序は・・・・煮えにくいものか先に入れる・・・・そうしないと味噌を長く煮てしまうから・・・など、などものごとには論理があります。

    私たちは日常生活の中で、そういった論理を無意識に駆使して仕事をしています。
    子どもは、大人と生活する中でやはりそういう知恵(論理)を獲得していきます。

    家庭科には調理の時間があります。
    この時間の目的は料理を食べることではありません。
    調理を通じて、合理性や論理を学ぶわけです。
    これを、出前を頼んだほうが早いなんて言い出す人は、家庭科が何なのかわかっていない人です。

    でも、このような考え方をする人が、いるのだなあと思ったことがあります。
    算数科で計算を教える必要はない。計算機があるからとか、翻訳機ができるから英語を学ぶ必要はないなどと言う人です。

    こういう人の書いたものをいくつか読んでみると、家を建てるとき土台を作り、柱を建て、壁を塗りというような論理の構築がありません。
    文の量は多くても、知識の断片が羅列してあるだけだったり、屋根を作ってから柱を建てるなどのような、ドキッとする文章が出てきます(要するに支離滅裂)。

    模型の組み立てセットがあっても、各パーツをどう組み合わせるかわからないようなものです。
    戦艦大和の組み立てセットを買えば、必要なパーツは全部入っていますが、組み立てられないようなものです。

    こういう状態を見て、この人は知識が漫然と頭の中にあるだけと感じました。
    バラバラに存在しているだけの知識
    連続思考
    組み立てられないのは、思考の連続性がないからと言えます。
    だから、野菜を切るのはムダだ料理は出前を頼んだ方がよいとか、レストランに行った方が早いなどのようなことを言い出すのです。

    ■一体誰がそんなことをやっているのか?

    それは「学び合い」です。
    私の言っていることが、誹謗中傷かどうかは当該の文章を読んでみればわかることです。

    指導案を「あんなもの書きません」というのは、論理的にものごとを並べることができないので、否定したいのでしょう。
    さらに「授業はしません」とまで言い出すのは、授業に取り組んでもどう進めたらいいかわからないからでしょう。
    グループを作って、子どもに任せてさらに教師の指導書まで渡すと言っているのは「子どもに丸投げ」と言われても仕方がないのでは?
    (授業をしたくない先生にとっては、誠に都合がよいかも知れません)

    ある先生は「学び合い」の集会に参加したら「雑談をしているだけだった」と遠慮がちに言っていました。

    「学び合い」は勢いよく旗をあげたものの、未だに港に停泊しているだけで、1mも進んでないと感じます。
    そもそも、土台である理論

    ・子どもは有能である・・・・有能であるの根拠の説明がありません。「有能」の定義がありません。
    ・グループを作ると二割は有能な子どもがいる・・・・なぜ(必ず)有能な子どもがいるという根拠の説明がありません

    だから、旗をあげても一向に船出ができないのです。

    当事者の反論があれば、大いに歓迎します。


  6. ハードディスクが壊れると

    9月 24, 2015 by dolce

    パソコンの記録媒体は、依然として、ハードディスクが主流である。
    そのハードディスクも巨大化し、少し前までは2Tバイトが普通かと思っていたら、最近は8Tバイトの商品も現れるようになった。

    たくさんデータが保存できるのはいいことだが、逆にリスク(危険)も大きい。
    ハードディスクが壊れると、一挙に大きなデータが消滅するからだ。

    そういうリスクに備えて、バックアップ(別の場所に保存)している人は多いと思うが、何度言ってもバックアップをしない人もいる。
    ハードディスクは消耗品と考えた方がよく、いつか壊れると心得ていた方がよい。

    問題は壊れた場合、データの復旧は必ずできるとは限らないことだ。
    専門業者でも復旧の約束はしない。
    復旧依頼すると、確実にできるとは限らない、との旨の誓約書を書かされれる。

    アプリケーションは再インストールだけでいいが、作成したデータはバックアップがなければどうしようもない。

    データの復旧依頼を頼まれることはあるが、この点を強調しておくのだが、中には「家族の思いでの大切な写真が入っている」と言われ「いつできるんですか?」と興奮する人もいる。

    自分の都合だけを優先し、もとの状態に戻らないのはこちらの責任とでも言う人もいる。

    思うようにならないと不機嫌になるというわがままは、子どもに限ったことではなく、大人にも言えることだ。

    みんながそうだとは言えないが、世の中が便利になるにつれ、一旦便利さが損なわれると、不機嫌になりわがままを発揮するという傾向が強くなるように思う。

    だから、恨みをかうだけだから親切にしない方がいいと言う人もいる。

    親切にするかしないかも、人を選ばなければならない。


  7. ドキュメンタリーのない話はインパクトが弱い

    9月 23, 2015 by dolce

    夏休みが終わって1ヶ月が経とうとしている。
    夏休みの宿題の定番として、読書感想文がある。

    青少年読書感想文全国コンクールは権威あるコンクールだが、入賞したりして評価が高い感想文には共通したものがある。
    それは、作者自身の生活記録が記されていることである。

    つまり、ドキュメンタリーがあるということだ。
    だから、作者のドキュメンタリーのない作品は評価されないと言える。

    作文といえば、生活作文と呼ばれるジャンルがある。
    読書感想文と生活作文はどう違うのだろう?


    私が思うには、読書感想文も生活作文なのだと言うこと。
    もっと丁寧に言えば、作者がある本に刺激を受けて、自分の生活を振り返り、感想や意見をまとめたものと言える。

    プロの小説家の出世作も、フィクションと言いながら、作者の自伝をもとにしたり、そうでなければ、実存したモデルがいたりする。
    そういう文章でなければ、人の心を打たないのである。つまりインパクトがないということ。

    松本清張は推理小説家だが、歴史家と言われるほど近代史についても詳しい。
    それは、作品にリアリティを盛り込みたかったから、自分の足で取材し資料を集めたのだろうと思う。

    生の人間が生きたというドラマが感じられなければ、人々の共感は得られない。
    共感を得るということは、読者が自分の生き方とどこかで響きあうということであり、それが作品の魅力ともなるのである。

    シャーロック・ホームズもフィクションであり、読者はホームズが実在の人物でないということは知っている。
    この小説では、ホームズはロンドンのベーカー街221Bというところに、住んでいたことになっている。
    熱心なフアンが世界中に、ここに手紙を出すそうだが、担当者がいて返事が届くそうである。

    すぐれたフィクションは、ノンフィクションのように人々の心を惹きつけるものであり、ブログを書く者(私)も大いに手本にしなければならないと思っている。

    ブログでフィクションを書くにしても、土台にノンフィクションは必要であろう。


  8. 人間の重さ

    9月 22, 2015 by dolce

    プロ野球も終盤になった。
    どこが優勝かという話題も盛んだが、一方では表舞台から去る選手もいる。

    中日の朝倉投手は、最後のワンポイントリリーフに涙して投げていた。
    投球が終わると、マウンド上で監督からごくろうさんと声をかけられたそうだ。

    プロ野球の選手の在籍年数は短く、平均8.5年だそうだ。
    一軍の試合に一度も出ることなく去る選手もいる。

    事情はどうあれ、実体験はその人の人生に「重み」を加える。
    人間すなわち人格に重みが増すと、何がよいのか?
    それは他人に対する説得力が増すことだろう。

    プロ野球を引退してコーチになった人と、そうでない人(素人)とでは当然、コーチを受ける側の気持ちは変わってくるだろう。
    それは、元プロという肩書を示さなくても、何かしら相手に伝わるものは違うだろうと思う。

    学校の教師の場合、昔は「学校の先生」というだけで、親に対して説得力があったが、今はそういう時代ではない。
    「学校の先生」と言えば、お世辞を言ってくれる人がいるかも知れない。
    でも、それでいい気になっていたら、かえってバカにされるかも知れない。

    学校の先生は昔のことを思うと、軽くなったのである。

    その理由として、ある人は親の学歴が上がったからだという。
    確かにそう言えるだろうと思うが、学歴が上がったから教養も高くなった。利口になったとも言えない。

    高学歴で本当に教養を身につけた人は、かえって謙虚になると私は感じている。

    現代は学歴が上がったために、中身は空でプライドだけ高い人が増えたのではないか?

    「教師は・・・だ」という言い方には気をつけなければならない。
    教師にもいろいろな人がいるからだ。

    例えば、画家として人生を歩みたいのだが、画家だけでは生活が成り立たないので、教師としての安定を得て、画家としての活動をしている人がいる。
    この人は、日展などに応募している。
    私の先輩である国語の先生は、小説を書きながら学校に勤めていた。文学賞も得て、新聞社などからも記事の依頼があり、後に小説家として自立した。

    学校の先生もいろいろなのである。

    自分のことを、自画自賛するのではなく、先生をやりながら力をつけて行く人がいる。
    こういう人はまさに、重くなっているのである。

    逆にとりたてて取り柄はないが、何にでも知ったかぶりをして口出しする人もいる。
    これは「軽い人」だが、自分はあのようにはなりたくないと思うのである。
    他人のことなのだが、見ていて恥ずかしくなる。


  9. 子どもは体験を通じて成長していく

    9月 21, 2015 by dolce

    子どもは生まれると、外界のものを見たり触れたりして、経験を積んで成長していくものである。
    「転んでも起こすな」は誰が言ったのだろう?

    当然、起こさなければならない場面もあるだろうが、基本的にはそうである。

    買い物の帰りに子どもがおねだりをしてぐずっていた。
    母親は無視して、さっさと店の出口に向かうと、出ていってしまった。
    ぐずって寝転んでいた子どもは、慌てて起きて母親の後を追った。

    この光景を見て、笑えてきた。
    同時に賢明な母親だと思った。

    しつこくねだれば買ってもらえるという癖をつけることが、子どものためにならないということは大人は知っている。
    だが、子どもの要望を拒否することができる大人は、どのくらいいるのだろう。

    私がもっと問題にするのは「九九ができていないから、指導してください」と連絡帳に書いた教師がいたことだ。
    九九を指導するのは誰の仕事なのだろう?

    「九九ができていないから、授業後30分ぐらい残して指導します」

    とでも書くべきだろう。

    普通の教師なら、子どもがどこで間違えるのか観察して(「見とる」のではない・・・「見とる」のは死の間際に同席すること」)、そこで指導をする。
    子どもにとっては失敗の経験であり、ここから次のステップを覚える。

    勉強以外の生活でも、子どもはいろいろ体験をして、そこから学んで成長していくのである。
    「失敗は成功の母」である。

    取り返しのできない失敗をさせてはいけないが、安全を確認してできるだけ試させる場を作るのが教師の仕事なのに、下手をすると「小学校のことができてから、小学校へ入学してください」とでも言う教師がいそうなのは、誠に残念である。

    怪我で医者に行ったら「怪我を治してから来てください」と言われたようなものだ。

    何か狂っている。


  10. 人を幸せにするきまり

    9月 20, 2015 by dolce

    「君たちのためのきまりだ」と言えば、子どもはどう感じるだろうか?

    あれをするな、これをするなという、何何を禁止というきまり。髪型は・・・、スカートの丈は・・・、などなどいわゆる校則盛りだくさん。
    「校則=拘束」は「君たちを縛るものではない。君たちのためだ」と言っても、これは言っていることと中身が矛盾している。
    「◯◯のためだ」の◯◯には「管理職」「先生」の文字が入った方がピッタリするだろう。

    70以上の校則が存在する学校があるそうだ。
    変な校則として、まとめてあるサイトもある。

    読んでいるだけで笑えるが、まじめにきまりを考えているのかと思ってしまう。

    私の場合は「きまり」と言ったら、嫌な感じを持つものではなく「いい感じ」を持つものを考えた。

    例えば、中学校では宿題が多い日がある。
    それで「宿題が多くて大変だと思う日は、部活を休んで早く下校してよい」というきまりを作った。
    また「部活を休みたいという場合は、前日までの帰りのミーティングで、半数以上の者の同意を得たら休んでよい」というきまりを作った。

    つまり、私が考えるきまりは、生徒の生活を想像し、生徒の立場を考えて作るのである。

    これは、きまりを作る考えの土台が「生徒を信頼する」という者から発している。

    中学生に「君たちを信頼している」と言っても、それが伝わるかどうかはわからない。
    「言葉で言えばよい」というものではない。
    本当に信頼しているという態度を示すことが大切だと思うのである。

    こういうところは、子どもが敏感に感じるところだと思う。

    逆に「◯◯をするな」の類の決まりは「君たちが信用できない」とのメッセージを間接的に伝えているようなものである。
    人を信用できないというきまりを作っていて「君たちのことを考えて・・・」はないだろうと言うのが、私の考えである。

    教師が生徒を縛るのではなく、逆になるべく自由を与えようというのが私の考えである。
    だから、生活の中で「生徒が判断すればいい」というものは、なるべく生徒に任せるようにした。

    その方が、生徒からの自由な発想やユニークな発想が出てくる。
    また、こういうやり方で何か問題が起きたということもなかったし、逆にこういう信頼を大切にしようという空気が生まれたように思う。

    自由のない雁字搦め(がんじがらめ)の学校からよい教育は生まれないというのが、自論である。