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8月, 2015

  1. 経験の豊かさでものの見え方が違ってくる

    8月 31, 2015 by dolce

    同一の情報を同じ場所で、同時に受け取ったとしても、そこに同席する人たちの、情報の受け止め方はそれぞれ違うということを、いつも前提にしていることは非常に大切である。

    リンゴが1つ置いてあって、そのリンゴを10人が見ても、10人それぞれの見ているリンゴはみな違うのである。

    リンゴは1つなのに、見え方は10種類あるということだ。

    他人が見ているリンゴがどう見えているかは知る術もないが、それでも自分とは違う見え方をしていると言えるのは根拠がある。

    それは、情報は脳に到達することで認識されるからである。
    脳が情報を認識する時には、予め脳に記憶されている情報と照合して認識するからである。

    人は生まれてから、成長するに従いみな違う経験をする。
    みな違う経験をするということは、照合された情報もみな違うということである。
    この「みな違う」とはCD=Rのように、一度だけ書き込まれ訂正できない(ライトワンス)情報のことである。

    以上のことは、教師にあっては特に注意すべきことであると思う。
    もっと踏み込んで表現するなら
    「みんなも自分と同じ考えを持っている」
    と、決めつけてしまうことである。

    ブログは不特定多数に対して発せられるものであるが、自分がいくら自信があると思って発表したところで、どれほどの人が納得してくれるかは未知のことである。
    にもかかわらず、みんな自分を理解してくれていると勝手に決めつけている態度は傲慢というべきだろう。
    傲慢では人はついてこないと思う。

    相手が大人、子どもに限らずついてこないと思う。


  2. 情報学から見た脳の働き〜幼児教育の重要性

    8月 30, 2015 by dolce

    情報学の科目の一つである「音楽・情報・脳」を学んだことで、人が受け取る情報はすべて脳が認識しているということを再認識した。
    映像は目で、音は耳で、においは鼻で、触覚は皮膚でというように、器官が情報を捉えているとつい思ってしまうが、すべての情報は最終的には脳に送られ、そこで判断しているわけである。


    脳は生まれてから大人の脳へと次第に完成していくわけだが、知的データーベースとしての脳は大きく次の3つに分けられる。

    1.生物としての人間が共通に持っている脳の部分
    2.生まれてから、ある年齢になるまでに書き込まれる情報の部分
    3.生活経験を通して蓄積される情報の部分

    私が特に関心を持ったのは、2のある年齢になるまでに書き込まれる部分である。
    この部分はCD-Rのように、一度だけ書き込み可能な部分である。
    年齢では、生まれてから幼児の間ぐらいである。

    一度しか書き込みができないということは、後から修正不可能ということである。
    これは、この時期に愛情に恵まれなかったとか、躾が不十分であった時、学齢期になって修正が難しいということになる。
    だから、幼児教育は大切ということになる。

    大人になっても、嫉妬深い、意地悪と言った性格が表に出る人は、幼児期に書き込まれた情報がよくないのかも知れない。

    保育園と幼稚園の一元化は進まないようだが、ぜひ幼児教育の一元化を達成して、充実した幼児教育が成されることを願うばかりである。


  3. 疑い深い人は嫌だ〜人を信じて生きる

    8月 29, 2015 by dolce

    人は何を考えているのかわからない。
    面識のない者同志ならなおのこと。

    でも、信じて任せるという気持ちがなければ、相手も同様信じてくれないだろうと思う。
    特に中学生という時期は、大人が信じてくれるかくれないかには敏感なように思う。

    人を疑いながら生きていく人生は嫌だと思う。
    人を信じることで、諸問題を解決したい。

    ■教師は刑事ではない

    部活中に金がなくなったということがあった。
    余計な金は持ってこないように、という指導はどこの学校もやっているだろう。
    しかし、その日はその余計な金を持ってきた者がいたので、事件は起きた。

    持ってきては行けない物を、咎めることもできるが、むしろそれを正直に申し出た心を認めるべきだろうと思った。
    だから、そのことで叱るということはしなかった。
    持ってきた生徒の顔を見ると、いかにも申し訳ないと下向きだったので、余計に叱ろうとは思わなかった。

    それより問題は、どう解決するかということであった。
    部員全員同席していても、みな暗い顔で、名案を出す者もいなかった。

    これは難題だと思った。
    金額としては大したものではなかったので、私のポケットマネーでとか、部員全員でカンパとかと頭をよぎった。
    では、アリバイを調べて怪しい者を絞り込んで・・・いやいやこれは教育ではない。学校は警察ではない。

    問題は、金さえ戻ればいいというものではなく、誰もが傷つかないということが大切なのだ、と思った。

    思案のあげく、浮かんだのが、生徒を信じるということだった。

    生徒全員に向かって言った。

    「・・・日まで待つことにする。そして、もしできごころだったと思った人がいあたら、こそっと先生のところへ返して欲しい。
    それでお金が返ったら、できごころだった人は反省したということで、犯人探しはしないということにしたのだが・・・」

    2日後だったと思う。
    その頃、私の母は入院していたのだが、見舞いに行くと「女の子と男の子二人がきてね、先生にこれ渡していただけますか」と言って、持ってきたよ」と母が言った。
    話を聞いて、姉弟でやってきたのだと思った。男の子が姉に諭されて持ってきたのだと推察した。

    翌日、部員を集めて「約束通りお金は返ったので、これ以上追及しないということでいいか」と念を押した。
    みんな承知してくれた。


  4. 全体と部分の区別がなく支離滅裂

    8月 27, 2015 by dolce

    野球部のなかった学校で、野球部を作ることになったとしよう。
    そこで、A先生が顧問に命じられた。

    部活動始めの日、それぞれの部活は、それぞれの顧問は生徒たちを集め、今年の目標や内容について話をした。
    ところが、A先生だけは生徒を集めるということはせず、生徒たちはグランドでそれぞれ思いつくことをやっていた。
    生徒たちは、そのうち招集がかかるかと思いながら、好きなことをやっていたが、ついぞ部活の終了時間までA先生からの声はかからなかった。
    唯一A先生から発せられた言葉は「おーい、部活終わりだぞ」だけだった。

    この様子を知った、部活動の総責任者であるB先生は、A先生に「野球部はA先生の指導はないのですか?」と言った。
    A先生は次のように言った。

    「指導はしません。生徒のやり方について、ああだこうだも言いません。野球の能力は試合を通じて多様な人と関わることによって、自らの課題を解決するように求めるのです」

    B先生は言葉がなかった。

    野球部に限らず、運動部は試合に勝つという目標を持って練習するものだと思う。
    そこで、顧問は試合に勝つために、バッティング、守備など細かく指導をする。
    それが、試合になってどれほど発揮されたかを見るのだろう。

    もちろん、生徒たちは実際の試合を経験して、学んでいくことも多いと思う。
    しかし、試合を目指して練習するということは、顧問が方針を打ち出し、練習方法を計画し、試合に必要な技術を磨いて試合に挑むものである。

    つまり[部分練習→試合]という順序である。
    これは[いい練習→いい試合]ということでもある。

    これを「練習は必要ない。いい試合をすることだ」と言ったら変だろう。
    こういう変な文を書いているのが次の例だ。

    教師は何をするか?授業もしません、評価もしません。その代わりに、人にとって一番大事な能力は「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する能力」であることを求めるのです。そして、地域を巻き込んだ特活等を企画することが仕事です。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/

    学校は、ここで言っている
    「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する能力」
    が身につくために
    「授業をし」
    「評価をし」
    をしているわけで、学校の教科が、国社数理音美技家保体英と分かれているのもそれぞれ専門の教師が指導することで、最終的には卒業をして社会に出た時、それらの教科で学んだことが総合的に結びついて、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する能力が獲得されていると気づくものだろう。

    この人は、恐らく頭にある知識がゴミ箱の中のように渾然と捨てられており、収集がつかない状態になっているのではないか?
    この人の主張を実践するとしたら、学校すら必要はない。
    どっちみち、学校に行っても、教師は授業もしない、評価もしないのであるから学校へ行ってもムダである。
    いきなり社会に出て「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する能力」を磨けばよいのであるから。

    「全体と部分の区別がなく支離滅裂」な文章を、いつも書いている、この人の主張が実際、教育界に通用しているのか疑問に思う。


  5. バランス思考

    8月 26, 2015 by dolce

    公平な判断先日、マルチ思考について書きましたが、今回はバランス思考について述べてみたいと思います。

    ものごとの行く末を判断する時、大きく分けて「良い」「悪い」の二通りがある、というか頭の働きとして両者を考えてみるのがバランス思考だと思う。
    また、そう考えてみなければならないと思う。

    人間だから感情に支配され、どちらかに偏るという場合があるだろうと思うが、そこは理性でコントロールしなければならない。
    教師にあっては、特に要求される資質と言えるだろう。

    例えば悪い予想の判断の例としては、ある人がいい車を買った時、

    1.そんな車を買えば、金に困って借金をすることになるだろう→金に困ることもあるだろうが、借金するとは限らない
    2.車を買って運転すると交通事故に遭います→交通事故の可能性はあるが、事故に遭うとは限らない
    3.3年もすれば古くなってしまいます→古くはなるだろうが、手入れ次第ということもあるし、下取りで新車を買うかも知れない
    4.いたずらで傷をつけられるよ→そういうこともあるかも知れないが、必ずそうなるとは言い切れない

    と言うような人がいる。
    未来のことがわかる人(断定できる)人は、人間にはいない。
    ものごとの先は、良いか悪いか五分五分と考えるのがバランス思考である。

    それを、あえて悪い面だけ選択し続けるのは、思考回路が始めから壊れているか(この場合は精神障害)、始めからそういう結論決めて話しているのだろう。
    この場合は、相手に対して強いコンプレックス、嫉妬、やっかみを持っているのだろう。

    教師の仕事は、子どもに接する時、精神(心)が安定していて、子どもに不安を与えないことが大切な仕事である。
    どの子どもに対しても平等・公平でなければならない。
    好き嫌いを根に持って、判断を歪めることはもってのほかである。

    ただでも、子どもは自分の未来には不安を持っているだろう。
    だから、どうなるかわからないマイナス面ばかり選択して、言葉にするのではなく、逆に「きっと上手く行くよ、あんなに頑張ったんだから」とか、希望を感じさせる言葉をかけるべきである。

    子どもの人格を見るときも、良い面、悪い面、両方見るべきである。

    というわけで、悪い面ばかり連続して言葉にする人、決めつける人は「普通ではない」と私は感じている。


  6. 富裕層は私立へ、貧乏人は公立へ

    8月 25, 2015 by dolce

    アメリカでは金持ちの子どもは私立学校へ、貧乏人の子どもは公立へ行くと聞いた。
    ずいぶん昔、聞いた話だが今もそうらしい。
    教育の質も私立の方が高いという。また、日本の私立と比べても学費が高いらしい。
    アメリカで暮らす人の話では「アメリカでは教育は金で買う」という感覚が強いという。
    日本での私立、公立はどうだろう?

    私の地域では中学校での成績の良いものは公立志向である。例外もある。私立の有名な進学校が少し存在するからだ。
    それでも、そういう進学校を目指す子どもは、ごく稀である。

    私の中学生時代を思い出してみると、私立へいく者は間違いなく金持ちの家庭の子どもだった。
    しかし、誰でもというぐらい高校へ行くようになってからは、様子が違ってきた。
    依然として、成績順でみると公立上位は変わらないが、親の所得と学校の関係を調べてみると、公立へ通う生徒の家庭の方が所得が高いのだ。

    昔は家が貧乏で、おまけに成績がよくない者が私立なんてとんでもないという感覚だったが、高校へ行かない者が例外となる時代となって、様子が変わった。
    高校へ行かない女子は、将来結婚に差し支えるという風潮になったのだ。
    男子とて、高校も卒業していない者は、女性から選んでもらえないというハンディを感じるようになった。

    学歴が身分の違い、階級のようになったのだ。まさに「日本には学歴という階級がある」と言った外人のようになった。

    だが、今日、私立と公立の違いはまた別の意味合いを持つようになってきた。
    富裕層の家庭では、アメリカのように「質の高い教育は金で買う」という志向が出てきたことだ。
    私立中学校ができて、これは結構人気を呼んだ。
    人気の一つに「荒れていない」ということがある。

    私立に関心が高まったのは、教師の問題もある。
    公立の不人気度が高くなったと言ってもよい。

    端的に言えば、公立には「おかしな先生」がいる場合がある。
    例えば

    教師は何をするか?授業もしません、評価もしません。

    こういう先生はどうみても「変」だろう。
    この先生が変だと思うのは「計算機があるから、計算を教える必要はない」とか「翻訳機が進化するから、英語を学ぶ必要がない」など、発言をする度に「変」がある。

    こういう先生でも、公立では通ってしまう。
    なぜ通ってしまうか?
    誰も責任を感じないからだ。
    公立は生徒を募集する必要もないし、変な先生がいても、校長は何かを言って恨まれたくないから無視。
    教育委員会も同様。
    財源は税金だから、経営の心配もない。

    私立はそういうわけには行かない。
    私の経験だが「パソコンを遠隔操作して壊した。警察に通報する・・・」などといちゃもんをつけてきた(私立の)先生がいた。
    どうみても「おかしい」と思ったが、無視していたら、私の本名をネット上に晒して、あることないことを書いたので、放置できないと感じて、学校に通報したら、間もなくクビになった。

    私立では「変な先生がいる」との評判が立ってはまずいだろうから、対応は早い。
    近年、精神的な疾患を持った先生は多いと言うが、重症の人は「病識がない」と言われる。
    病識がないというのは「自分が病気だという認識がない」という意味である。
    だから、精神科に行くように言っても、はねつけて行かないのである。
    ということは、言われて病院へ行く人はまだいいということである。

    日本も「質の高い教育は金で買う」という方向が進むだろうと思う。
    問題は、貧しくても優秀という生徒の処遇だ。
    私立によっては、あるレベル以上の生徒は授業料全面的免除で受け入れている学校もある。


  7. 学校は選択制がいいかも

    8月 25, 2015 by dolce


    小中学校での話です。
    最近、小学生の子どもの保護者(父親)と話す機会がありました。
    その話の中で父親が

    「夏休みの宿題の◯☓は、親がやって提出するんですよ・・・」

    と言った。
    最近の学校はそうなのかと、私はびっくりした。
    続いて話を続けていくうちに「先生は何にもやらない・・・」という不満が出てきた。
    作文を書かせても、ドリルをやらせてもやりっぱなしという話しであった。

    学校に入り込んで実態を観察したわけではないので、あまり詳しいことはわからないが、親としては「先生はやってくれない・・・学校はやってくれない」という不満の気持ちは伝わってきた。

    教師は何をするか?授業もしません評価もしません。その代わりに、人にとって一番大事な能力は「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する能力」であることを求めるのです。そして、地域を巻き込んだ特活等を企画することが仕事です。

    これが学校の方針だったら、どれほどの保護者がこの学校へ通わせたいと思うでしょう?
    私はこれを読んで、先ほどの「先生は何にもやらない・・・」と併せて、こういう学校へ勤務する先生は、結局何もやらなくていいんだと思いました。
    それでピンきたのが「学び合い」です。
    「学び合い」がどのくらい流行っているのかわかりませんが、何もやりたくないという先生にとっては、まことに都合のよいのが「学び合い」ではないかと思うようになったのです。

    ですから、強制的にこういう学校へ行かせられるのは、拒否したい保護者もいるのではと思ったので、学校は選択制がよいのではと思うようになったのです。


  8. 偏差値はほどほどに、青春を大切にしよう

    8月 25, 2015 by dolce

    中高の成績に対する考えは地域によって違うと思う。
    都会は私立が多く、田舎は私立が少ないので、進学に対する考えも違ってくる。
    私の住んでいる田舎は、公立思考が強く私立はほとんど、万一の時のための、滑り止め。

    ところで、代議士になったK子さんはピアノもたいそう上手であった。
    プロにもなれた腕前だったと思う。

    進路をどうするか迷いはあっただろうか?
    ピアニストにならなかったから、ピアノの練習はムダだったということはない。
    人生で、大勢の人と交流する中で、ピアノが弾けるということはいいことだ。
    プロにならなくても、若い頃練習したことはムダにはならない。

    若い頃に練習しておかなければ、年を取ってからでは無理なものは、他にもたくさんある。
    「遅すぎることはない」と言われるものはあるが「もう遅い」と言われるものもある。

    若い頃考えていた進路と、結局違ったという人もいる。
    Sさんは大学で化学を専攻していたが、卒業後はプロのオーケストラに入っていた。
    受験勉強一途で、偏差値ばかり追っている生活ではオーケストラには入れなかっただろう。

    統計を専門とするある会社の調べでは、65歳以上の人たちに、若い頃しておけばよかったと思うものはとアンケートを取ったら「趣味になるようなものをしておくべきだった」という回答がかなり多かった。
    というより、ドイツではリタイアしてからが人生だと考え、退職後の人生を楽しむ人が多いと聞いた。

    長生きの日本人は、退職後の人生が長い。
    何もすることのない人が、早くボケるとも言われれる。

    青春時代は長い一生を眺めて、どう生きるかを考えることも大切だと思う。
    教師も偏差値一途ではなく、子どもの性格、個性を見て進路の助言をすることが大切だと思う。
    そのためには、広い教養、見識を持たねばならない。


  9. マルチ思考のできない人は厄介

    8月 23, 2015 by dolce

    マルチ思考とは、説明の便宜のために私が作った言葉です。
    マルチ(multi-)とは複数のを表す接頭語です。
    「マルチ思考」とは「複数の思考」という意味になります。

    普通の人は、無意識にマルチ思考をしています。
    だから、通常は人と人の会話は何の支障もなく行われますが、稀にマルチ思考ができない人に会うと、コミュニケーションが取れなくて厄介なことになります。
    具体的に例を挙げてみます。


    何年も前のyahooの掲示板であったことですが、医療保険についてのスレッドがありました。
    何人もの人が、質問をしていました。
    それに対して、以下のような回答をしている人がいました。

    「医療保険は高いから、その分貯金しておいた方がいいですよ」

    この回答に疑問を持った私は

    「それでは、300万円貯金ができたところで、500万円の治療代が必要な病気になったらどうするんですか?」

    と質問をしました。

    すると回答は

    「そういうことはめったにないし・・・」

    というものでした。

    これなどはマルチ思考ができない典型と思われます。

    1.普通の人なら、毎月保険料を払うのは負担だなあ
    2.でも、病気で急に多額の出費になったらどうしよう

    と1.2.をマルチ思考でバランスを考えます。
    しかし、マルチ思考ができない人は、一度に2つを考えられるように思考回路ができていないのです。
    常に一つしか選択できないように、頭の中にデータがバラバラに存在するだけなのです。
    つまり「分裂思考」なのです。

    自動車保険についても「1年間無事故の場合、お金が返ってこないから損だ」と言っていた人がいますが、これも同様、マルチ思考ができない人です。

    こういう人との話し合いはできない、というかコミュニケーションが成り立たないのです。
    では、こういう人に対してはどうするか?・・・関わりあいにならないのが最善の策と考えています。


  10. 偏差値のために教育をするんですか?

    8月 22, 2015 by dolce

    偏差値自体は統計の手法として優れたものである。
    問題は偏差値を求めるための標本(データ)である。
    具体的には、試験の点数である。
    点数が高ければ偏差値も高くなる。

    問題は偏差値に直結する試験である。
    自分が中学生だった頃を思い出してみると、高校受験を目的とした学校の枠を超えたテストがあった。
    これは今でも同じだろう。
    私の中学校はなにしろ田舎で、都会より受験熱は高くなかった。

    私は親ひとり子ひとりの母子家庭だったことから、進学にあまり関心がなく、テストにも気持ちは入っていなかったせいで、テストのできもよくなかった。
    しかし、学校の枠を超えたテストは、高校進学するには有力な資料になるので、先生たちは重きをおいていた。
    そんな中で、要領よく点を取っていた者たちがいた。

    それは、前年や過去の問題を手に入れて勉強してきた者たちだった。
    「過去の問題をやるといいよ」と話し合いをしていた者たちがいたのも覚えている。
    私は、なるほどと思ったが、過去の問題を手に入れる手段もなかったので、そういう対策はしなかった。
    正直なところ、部活に夢中になっていてというか、面白いと思う方に惹かれたということである。

    そんな昔から、入試問題は大して代わり映えしないので、過去問を勉強しておくという対策は今でも有効である。
    入試問題が代わり映えしないことの弊害は、暗記力のみを問うという偏りをもたらしたことだ。

    これは大人も含む人々の思考でさえ変えてきたように思う。
    「言われたことしかできない」とか「指示待ち人間」というのもその影響だろうと、私は思っている。

    先月私が受けた大学院の単位認定試験は、試験寸前まで教科書を読んでいったにも関わらず、ほとんどムダだった。
    というのも、意味を書けという問題、つまり記憶が頼りの問題は全く出なかったからだ。
    教科書を理解しているのは当たり前という前提で、教科書の内容を自らがどれほど発展させて勉強したかが問われたと言ってよい。
    こういう試験を受けたのは初めてであった。

    話がやや脱線したが、出る問題とその答えを知らせて、忠実に答えを覚えておけば、テストの点はよくなるだろう。
    簡単に言ってしまえば、現行の入試対策は、出る問題だけにターゲットを絞ってその答えを覚えさせる訓練をしているようなものだ。
    だから、予想問題の的中率が高い塾や予備校は人気がいい。

    最近、大学が入試を改革するというのは、答えを覚えた者が偏差値が高くなるという現象に疑問を感じているからだろう。

    校内でも、中間、期末テスト対策の指導で人気のある先生がいた。
    「今日は授業後テスト対策の指導をする」とその先生が言えば、生徒たちが殺到していた。
    早い話が、出題する問題を教えているようなものだったからである。

    こうした偏差値が教育の目標だろうか?