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7月, 2015

  1. まともな学習環境にまともな先生

    7月 31, 2015 by dolce

    まずは子どもが落ち着いて勉強できるように、時間割通りに授業ができるようにしてもらいたい。
    時間割を作っても、あまりにも変更が多いのは、定時運行していない列車のようで、時間割をあてにしないようになる。
    さらによくないのは、変更が多いと躾ができない。

    躾も教育の大切な分野で、特に子どもの時期に躾を重視しなければならない。
    計画がよく変わるのは精神的にも落ち着かない。
    学習計画や行事を見直して、安定的に授業を中心とした学校経営がなされるように切望する。

    次に、指導者たる先生の優秀さを問う前に、まともな先生が教壇に立つようにしてもらいたいものだ。
    もっと突っ込んで言えば、常識を問われる先生、異常と思われる先生は、先生という肩書はあっても先生とは言えない。
    子どもに「決まりは守らなくてもよい」とか「子どもに計算を教えなくてもよい」というのは異常である。

    先生は、先生としての仕事に情熱をかけられる人、子どもとともに「共に学ぶ」という姿勢のある人がいい。
    要するに、不通の市民として素朴で誠実な人がいい。

    自分の売名のためにやっているのかと思われる人は、先生としては必要ない。

    教育の再興は「当たり前のことを、当たり前に行うこと」ではないかと思う。


  2. 何のための教育か?

    7月 30, 2015 by dolce

    大げさなタイトルだが、話は大げさなものではない。
    子どもが学校に行って、算数の勉強をするとはどんなことだろうか?
    例えば2+3という問題があった時、5という計算結果を出すことが目的だろうか?
    子どもが、自分の頭で考えて、5という結果を出せるようにすることではないか?

    私の家から城まで徒歩で往復すると、約6000歩である。
    私が朝、城まで行って返ってくるのは何が目的なのか?
    読んでいただいている人は見当がつくと思う。

    私は城へ行きたいのではない。
    健康のために歩いて、城まで往復するのである。
    ただ城へ行きたいという目的のためなら、車で行ったほうが早いし、疲れない、暑くない。

    小学校では、なぜ計算ドリルをやらせるのか?
    答えを書かせることが目的だろうか?
    だとしたら、計算機を使った方が合理的である。
    だが、それは目的が違うということを、普通の人はわかるだろう。
    計算ドリルは、子どもの頭を鍛えるためにやらせるものだ。

    夏休みの宿題に計算ドリルが出たとしよう。
    それを、子どもが電卓を使ってやっているのを見た親は、子どもを叱るだろう。
    なぜ、親は子どもを叱るのか?
    目的が違うことがわかるからだ。

    英語教育にしても然り。
    この時代にして、なぜ英会話が必要かということがわかっていない人は論外として(http://education.fp-guide.com/?p=4834参照)、英語を学ぶのは、学ぶ者の英語力を高めたいのであって、教科書なり英語の読み物の訳を手に入れたいわけではない。

    これを、計算するソフトや機械、翻訳機が間に合うようになるだろうから、学ぶ必要がないと素人が言っているならまだしも、プロ中のプロでなければならないはずの、教育学の教授が言っているのは嘆かわしい限りである。
    一体、この団体は何を研究しているのだろう?


  3. またもがっかり「学び合い」の師

    7月 28, 2015 by dolce

    新国立競技場はご破産になり、新たな計画がスタートになった。
    それでも、この先たくさんの工程を経て、完成に至るのだなという期待ができる。

    しかし例の「学び合い」だけは、いつまで経っても地ならしをしているだけという感じがしてならない。
    当初は、私は勝手に誤解して、いいことが始まるのだなと思っていた。
    それが発言を知る度に落胆するというか、あまりにも何もない(中身が空っぽ)、低レベルで、教祖様が同志と呼びかける人は、あきもせずよくやっているなと思う。

    今回は英語教育についての発言。
    「グローバル化だから英語というのは単純すぎるように思います・・・現状の技術の進歩から考えて、会話レベルを携帯電話で可能となる時代はそう遠くないと思うのです。その場合のコミュニケーションのネックは英会話ではなく、生活習慣や価値観の問題だと思います。・・・最大の障害は英語を話す必然性を持っていないことです」
    と言っている。

    大学院の先生としての見識を疑います。
    もう少し社会の現実を見るために、中小企業の見学もしたらどうかと思います。

    今や社会は労働力不足で、企業研修で来日した外国人をも不法就労させなければいけないほど人では足りないのです。
    部品を加工している工場内に入ってみると、日本人も外国人も入り混じって仕事をしています。

    人事担当や社長から話を聞くと、採用にあたって、作業能力が同じなら、英語も使える人の方がいいと言うわけです。
    そうすると、英語の不得手の日本人は外国人に負けてしまう。
    今や就職のライバルは日本人同士だけではなく、外国人もライバルなのです。

    この話を聞いた時、何年も前、主婦が仕事を探しに言った時「EXCELは使えますか?」と聞かれたというのを思い出した。
    主婦はあわててEXCELの勉強にとりかかったというが、果たして間に合ったかどうかわからない。

    次に、英会話はこの先の技術の進歩で、機械に任せられるから人間が英会話を学ぶ必要はないと言っている。
    これは、同じくこの人が「バーコードを機械が読み取って計算する時代だから、小学生に計算を学ばせる必要はない」と言ったところを思い出した。
    一体、この人は学問を何だと理解しているのか?
    この人の論理から言えば、自動車がある時代だからマラソンをする必要はないと言っているようなものだ。

    「コミュニケーションのネックは英会話ではなく、生活習慣や価値観の問題だと思います」の部分もおかしい。
    英語を学ぶということは、英語で生活習慣や価値観を学ばなければ意味がないだろう。

    あまりにも社会を知らない。学ぶということの意味を知らないこの方が、教育大学大学院の先生として通用しているこの国は何なのだと思わずにはいられない。
    また、そういうこの方を師として、学んでいる「学び合いの会」というのは何を学んでいるのだと思う。

    反論があれば、大いに歓迎します。


  4. ハイレゾに対する誤解

    7月 27, 2015 by dolce

    たまたま、放送大学大学院の情報学の科目「音楽・情報・脳」の単位認定試験で出題されたのだけれど、最近のオーディオのブームとなっている「ハイレゾ」が学習とマッチした。
    誤解のないように断っておくと、「音楽・情報・脳」がハイレゾを研究しているわけではない。この科目がハイレゾの分野をも包含しているという意味である。
    情報学はその名の通り情報の研究をするものであるが、さらに情報を音楽に絞って、音楽という音情報を脳がどのように認識するかを探るのが「音楽・情報・脳」という科目である。

    ハイレゾとはHigh-Resolution Audio(ハイ・レゾルーション・オーディオ)を略したものだが、日本オーディオ協会による定義では以下のようになっている。

    • アナログ機器
      1. 録音マイクの高域周波数性能 – 40kHz以上。
      2. アンプ高域再生性能 – 40kHz以上。
      3. スピーカー・ヘッドホン高域再生性能 – 40kHz以上。
    • デジタル機器
      1. 録音フォーマット – FLAC or WAVファイル 96kHz/24bit以上。
      2. 入出力インターフェイス – 96kHz/24bit以上。
      3. ファイル再生 – FLAC/WAVファイル 96kHz/24bitに対応可能。自己録再機は、FLACまたはWAVのどちらかのみでも良い。
      4. 信号処理 – 96kHz/24bit以上の信号処理性能。
      5. デジタル・アナログ変換 – 96kHz/24bit以上。

    アナログのレコードからCDに変わろうとするとき、CDの規格を定めるにあたり、人の耳の特性を十分にカバーできる音量や音の高さが策定された。
    その結果、音量についてはダイナミックレンジ(音の強弱の幅)を16bit、サンプリング周波数を44.1KHzと定められた。
    これは、大編成のオーケストラの音量をほぼカバーできること、高音は15KHzを超えても音色には影響を及ぼさないと考えられての規格であった。

    人が聞くことができる高域限界は20KHzとされてきたことから、理論上、サンプリング周波数の2分の1がデジタルでの再生限界になるので44.1KHzは十分とされた。
    つまり、20KHz以上の高音は人間の耳には聞こえないのだから記録する必要はないとされたのである。

    ところが、20KHzを超える音も聞こえるのではないかという人が出てきたり、機器の進歩もありスピーカーは50KHzぐらいも余裕で再生できるようになってきたことから、車の馬力競争にも似たオーバースペックの競争にもなってきた感があった。

    長くなるので結論を言うと、人間は20KHzを超える音も聞こえる。
    正確に言うと、聞こえている言うより感じ取っていると言ったほうがよい。

    20KHzを超える高音を超高音と言い換えれば、超高音は耳で聞いているのではなく、体(皮膚)を通して脳が認識してているのである。
    そして、この超高音が再生されることにより、耳で聞いている音も人は美しく感じるのである。美しく感じるのは音だけでなく、画像も同様美しく見えるのである。

    最近はポータブル再生機器がよく販売されている。
    そして、ハイレゾ対応とうたった製品が目立つようになってきた。
    そして、それとペアのイヤフォンやヘッドフォンも売られるようになってきた。

    しかし、ハイレゾにイヤフォンやヘッドフォンはハイレゾのメリットを享受するには意味がない。
    それは、超高域は体を通して伝わるのに、耳からしか音を伝えないからである。
    耳は体全体からすれば、ごく一部分である。

    全く効果がないとは言わないが、言い換えればほとんど効果がない。
    はたして、メーカーはこの辺のことをどれほど認識して製品を出しているのか?

    ハイレゾの効果を享受するには、スピーカーで聴いてください。


  5. 教師がブログを書くときの心構え(5)〜気分だけでモノを言う弊害

    7月 26, 2015 by dolce

    ■書く前に辞書で確認する

    自分の言いたいことを他人に伝えるためには、言葉の意味をきちんとしておかなければならない。
    きちんとと言うのは、自分が言葉をどういう意味で使っているかということである。
    言葉の正確性は、教師であるがゆえに、よけいに求められる。

    知人の家で、私がパソコンをいじっている時、思わず「ドライバー、ドライバー」とつぶやいたら、そばにいたお年寄りがネジを回すドライバーを持ってきてくれたことがあった。
    もちろん、そのドライバーのことではない。

    このように、他人に意思を伝えるための言葉が互いに同じ意味として了解されていなければ、話は通じない。
    この点、裁判の場合は言葉の意味が厳格である。曖昧なところがない。
    例えば「彼の行為は悪意でした」と言えば「悪意」は、悪い心でとか悪い気持ちでという意味でなく「知っていて」という、きちんとした意味である。
    「善意」は「知らなかった」という意味である。

    教師であるなら、傍らに辞書を置いて言葉の意味を確認することは、当たり前と言える。
    もちろん、ネットで検索して確認するでもよい。

    念を入れて確認しても、人間のことだから間違うこともある。
    そういう時、間違いがわかった時は素直に訂正すべきである。

    言葉の意味が曖昧なので、何を言いたいのかが伝わらない言葉の代表として「学力」がある。
    学力ほど自分勝手な解釈の意味で使われている言葉も珍しい。
    いや、自分勝手な意味と言うより、語っている本人自体はっきりしないのではと思うことも多い。

    例えば「・・・したら学力が上がった」という。
    この場合、上がったのは具体的に何か?

    上がったという言い方をする場合「気温が上がった」といえば、温度の数値が上がるということでイメージできる。
    「物価が上がった」といえば、物の値段が高くなるということでイメージできる。

    しかし「学力が上がった」という場合、学力という数値はないのでイメージのしようがない。
    だから、テストの点が上がったことを、学力が上がったと表現しているのだろうかと思う。
    だったら「テストの点がよくなった」と言った方がわかりやすい。

    そうでなければ「私は、学力を・・・という意味で使っています」と断っておくべきだ。

    曖昧さを防ぐために、誤解を招きやすい場合は「・・・という意味で使っています」と断りを入れるのは親切である。
    親切というより、児童・生徒に対して、正しい文章を書くお手本を示すという意味でもそうした方がいいと思う。

    「オレの思っている意味に従え」とでも言っているような文章はいただけない。

    感情的に、気分だけで書くような文章は要注意だろう。


  6. 教師がブログを書くときの心構え(4)

    7月 25, 2015 by dolce

    先日、企業で働いていた人から「先生って、30年毎日同じことやってるんですか?・・・・ふーん」と言われた。
    そう言えばそうだと思った次第。
    もっとも「同じことをやっている」と言っても、個人差はあるだろうが、違うと言っても大同小異。
    一般企業に就職した人たちと比べて大きく違うのは、先生と言うのは「子どもが相手」の時間が長い。
    そして、子どもは卒業していくので、目の前の年代はずっと同じである。
    そうこうしているうちに30年が経ってしまう。

    そんなにも長い間「教える」という仕事をつづけるせいか「教えてやる」という癖がついてしまう。
    「この人、学校の先生だって」と何かの機会に紹介されると、周りの大人たちも態度が変わる。
    その変わり方は人それぞれだが、どうも先生という仕事は、一般からは意識されるようだ。

    大抵の人は、先生と知ると「先生に向かって何かを教える」という口のききかたに気をつけるようになる。
    それは、先生に一目置くとか尊敬しているというものではない。
    中にはそういう人もいるだろうが、ひとことで言えば警戒心を持つということだ。
    その心理は、気に触ることを言って、トラブルを起こしたくないというもなのだろうと思う。

    長年染み付いてしまった姿勢で「教えてやる」という姿勢を考えなおしてみることも必要だと思う。
    今、子どもたちが持っているガラケーやスマホのカタログを見ると、ワンセグ、Bluetooth、パケット、ハイレゾなどの言葉が並んでいる。
    30年間同じことを続ける間に世の中は変わっているのだ。
    「教えてやる」という姿勢を、たまには見直して「・・・・とはどういう意味なんだ」と教えてもらう立場に立ってみた方がいいこともある。
    何でも知ったかぶりをせず「わからないことはわからない」で、心を開いた方が、先生という独特の社会から脱して、色々な人との交流を深めることができるようになる。

    開かれた心で率直に、ブログを書いた方が魅力あるブログになると私は思うのである。


  7. 単位認定試験

    7月 24, 2015 by dolce

    今日は放送大学大学院の単位認定試験の日でした。
    私の受けた科目は、情報学の「音楽・情報・脳」という科目でした。
    テキストは専門的な内容でビッシリでしたが、試験そのものは論文形式でした。
    しかし、すべての科目が論文形式というものではありません。
    科目によっては計算の必要なものやデータの必要なものもありますから、電卓や指定された資料持ち込み可というものもあります。
    今回の私の科目においては、筆記用具以外持ち込み可はありませんでした。

    論文形式のテストと言うと楽に思う人もいるかも知れませんが、そんなことはありません。
    これは、具体的にどんな問題が出題されたかを示した方がわかりやすいかも知れません。

    最近、CDの16bit、44.1KHzのフォーマットに変わって「ハイレゾ」がブームになっているが、どのような理由からか、講義内容やテキスト内容と関連づけて800字以内で述べよ。

    (問題文は要約してあります)

    これが試験問題ですが、講義内容やテキストにはCDの規格やハイレゾの説明は一切ありませんでした。

    こういうところは大学院らしいところかも知れません。
    つまり選択問題や穴埋め問題はないのです。
    要求されているのは記憶を試す問題より、講義やテキストで学んで、それを基礎として自ら応用、発展したことを試験で試そうとしているのだと思われます。

    だから、CDの16bit、44.1KHzが何であるか当然知っていなければ、解答のしようがありません。
    いや、論文ですから、とにかく何か書けば格好はつくでしょうが、それでは通用しないでしょう。
    ハイレゾとは何のことかも知らなければ、内容のある解答もできません。
    中京大学_Sそれに加えて、私が難しいと思ったのは「800字以内」という制限です。
    限られた文字数の中に、中身を濃くまとめなければならないことです。
    つまり、要点をもれなくまとめる力が必要なのです。

    放送大学大学院は学習センターというところで試験が行われます。
    これは私立大学内に併設されたような格好になっているので、始めて行くと迷います。
    表示はありますが、大学と一体化された作りなので、歩いていると現役の大学生とよく会います。
    だから「何でこんなおじさんがいるんだ?」という表情をする学生もいます。
    この日は、学生によっては試験があって、ロビーで勉強している者もいました。
    彼らを見ると、さすがに「若い」と感じ、自分の歳を自覚しました。


  8. 教師がブログを書くときの心構え(3)

    7月 23, 2015 by dolce

    ■どうしても本音は出てしまう

    そもそも、何のためにブログを書くのかということだが、何を書くにしても結局書く人の本音はでてしまうものだと思う。

    私は、昔、交通事故の示談について行ったことがある。
    加害者側の付き添いだが、行ってみると被害者の方は怒っていた。
    機嫌を悪くしないように、上手く話さなければならないのだが、相手はブツブツ不満を言う中で「別に金が欲しいわけじゃないんだけど」と言った。
    こういう場合は金が欲しいのである。
    それを相手の言い分を真に受けて、金は欲しくないんだとと思うと、話はこじれる。

    ほとんどの場合は保険で解決するので、交渉のテクニックで金額が増減することはない。
    事実がはっきりすれば、それに沿って法律をもとに計算するだけだ。
    しかし、人間は感情の動物であるから、入ってくる金が思ったより少ないと不機嫌になる。
    もっと言えば、事故の被害者になったことで儲かると考える人もいる。

    ということで、本音は何なのだということは大切であるが、話をしていても「金が欲しいわけじゃあ・・・」は「金が欲しい」のであって、そこのところを敏感に察しなければならない。

    ブログを書くにしても、この人はいったい何が言いたいのかを察することが「読み」なのだが、特に題材が教育のことになると、耳辺りのよい言葉が出やすい。
    「子どものために」と書く人がさっぱり子どものことなど考えないということもある。
    美しい言葉を書き連ねても、読み終わった時、嫌な臭いが残るような文章は、結局書き手の持つ嫌な臭いが現れるのだと思う。
    文章が臭ってくるということはないのだが、不思議と臭いが付属する。

    読み終わった後は、爽やかな良いにおいのする文章を書きたいものだと思う。


  9. 教師がブログを書くときの心構え(2)

    7月 23, 2015 by dolce

    ■神の視点

    小説を書く時、どういう視点で書くのかが大切と言われる。
    主人公の視点で書くというのは自然だが、そういう場合は次に起こることや、全体像は書けない。

    どういうことかと言えば、私たちが現に生きている社会では、これから起こることは誰もわからない。
    北海道で現役の先生をしている人が、沖縄の先生がその時何をしているのかは、skypeのような装置を常に使うか、TV局のように多元中継でもしない限りわからない。
    まして、全国の小中学校の先生が何をしているのかなど到底わかるはずはない。

    ところが、それがすべて手に取るように、わかってしまうように書く人がいる。
    このように、現実の人間ができないことを、あたかも見えているように書くのを「神の視点」という。

    小説の場合は、読者が予めフィクションであることを意識して読んでいるので、不自然さを感じないが、もし神の視点をあたかも現実のように書いてしまうとしたら不自然であるし、はっきり言えば嘘なのである。

    ■教師は嘘を書いてはいけない

    小説として書くのならいいが、神の視点で、自分がすべて掌握しているように書くのは、いつも自分が嘘つきであると宣伝しているようなものである。
    これを他人から見ると「あの人は常習的な嘘つきである」との認識が定着するので、人は信用しなくなる。

    だから書いていることをまともに受け入れるのではなく、今度はどういう嘘を書くのかということに興味が移っていく。
    こう考えると、神の視点で書くブログは人気ブログとなる秘訣かも知れない。

    私の知人にもいるが、嘘をまことしやかに、平然と言える人物がいる。
    あまりにも言い方が上手いので、かなりの人は信じてしまう。
    しかし、嘘を何の恥じらいもなく言える彼は病気なのだ。
    調べて見たら「性格の病気」という項目にあった。
    話し始めると、自分自身酔ってしまうのか、完全にフィクションの世界にハマリ込んで、彼としては現実と嘘の世界の区別がないところへ入り込んでしまうのだ。

    「教育とは真実を教えることである」とどこかに書いてあったように思うが、我々は真実を語っているか、常に振り返ってみる必要があると思う。


  10. 教師がブログを書くときの心構え(1)

    7月 22, 2015 by dolce

    「教師が・・・」とタイトルを書いたが、何らか教育に関係のある人、教育に関心のある人という意味で書く。
    これは、私自身の心構えでもある。

    ■根拠のないことを書かない

    自分で見聞きしたこと以外はダメとすると、ほとんど文章は書けなくなってしまうだろう。
    だから、それほど厳格である必要はない。
    しかし「伝聞」には気をつける必要がある。
    マスコミで報道されたことでも、自分が取材したわけではないので、事実として扱わないような注意は必要だと思う。
    だから5W1Hは必要だと、私は常に言っている。

    もっとも、何が何でも、いつでも5WIHを明記する必要はない。
    書かなくても「当然に」推定できることは、わざわざ書く必要はない。
    「当然に」と言っても、自分だけが当然にわかっているのではダメであって、他人の立場に立って考えることが大切である。

    人はいろいろ想像してモノを言ったり書いたりするが、想像も過大になると、想像ではなく妄想となってしまう。
    小説でも書くなら妄想もいいだろう。
    たくましい妄想は読者を楽しませるかもしれない。

    妄想で一番気をつけなければならないのは、現実の教育現場のことを書く場合である。
    妄想は根拠のない想像であるから、確定のないことである。

    例えば、新車を買った人に対して「車を運転すると事故に遭って苦しみますよ」と言えば嫌味である。
    車を運転すると必ず事故に遭うというものではないし、人はなぜ車を買うかと言えば、車を手に入れることで、楽しい生活を想像するのであるから、そこに「事故に遭う」と言えば、急に冷水をかけられたようなものである。
    こういう嫌味を書くというのは、書いた方の「うらやましい」という気持ちを吐露しているようなものである。

    未来のことは誰もわからない。
    でも、人間は楽しい未来を思い描いて生きているのであるから、それに水をさすような発言は禁物である。人格が疑われる。
    教室で毎日、マイナス思考の話をしていたら、そのクラスの空気はどうなるだろう?
    決して良くはならないだろう。