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6月, 2015

  1. 結果はテスト前にほとんど決まっている

    6月 30, 2015 by dolce

    毎月、最終日曜日の午後0時15分〜2時、NHK-FMに日曜喫茶室という番組がある。
    レギュラーは、はかま満緒(はかま・みつお 放送タレント) 、小泉裕美子(こいずみ・ゆみこ フリーアナウンサー) 、安野光雅(あんの・みつまさ 画家)、池内 紀(いけうち・おさむ ドイツ文学者)、轡田隆史(くつわだ・たかふみ ジャーナリスト)、荻野アンナ(おぎの・あんな 作家・慶応義塾大学教授)でゲスト出演もある。
    含蓄のある言葉にいつも感心して聞いている。

    先日の日曜日の放送での話。
    外国での学生との話の途中で、学生が「勉強がありますから失礼します」と席を立ったので「ああ、勉強は大切(important)だからね」と言ったら、学生は出かける前にもう一度戻って「勉強はinterestです」と言ったそうである。

    そう言えば、勉強と言うと、試験(受験)が頭に浮かび、高校、大学・・・という学歴をはじめとして、試験に受かることや合格点がどうのこうのという試験そのものが目的になったり、人生におけるランク付けなどが専ら関心事になっていないかということである。
    勉強は確かにimportantであるが、それ以上にinterestでなければならないだろう。
    勉強といえば生徒はノルマのように押しつけられて、教師の方は目標の点数にこだわって尻を叩く。
    当の教師自身は、どのくらい自分が指導している勉強にinterestを感じているのだろうか?

    さて、テストと言えば、テスト当日に何点とれたかに関心が集中しがちだが、私の考えではテスト当日に結果が出るのではなく、それ以前に結果はほとんど決まっていると言うのが自論である。

    テスト前図に示すように勉強の成果はテスト前までに蓄積されてきている。
    テスト当日には運も左右するだろうが、その日だけで決するものではないと思うのである。

    私はある人に勧められて、ファイナンシャルプランナーという資格を取ったのだが、これは、試験としてはそんなに難しいものではない。
    しかし。難しくないとなめてかかると、結構、不合格になる。合格点がとれないわけである。

    テストは2時間で100問。
    ということは1問あたり平均1分12秒で解かなければならない。
    これは、試験中に考えていると、最後の問題までたどりつかないことになる。
    ではどう取り組んだらよいか?

    勉強がしてあれば、問題の半分は見た瞬間、これだとわかる。
    すべて選択問題であるが、選択だからやさしいと考える人は、試験というものを、あまり研究していない人と思う。
    世のほとんどのテストは選択式である。
    これは何度も言っているが、テストは公平が第一条件だからである。採点者によって点数が変わるテストは公平ではない

    100問のうち、30分ぐらいで半分以上を片付ける。
    時間をかけるのは10問ぐらいである。
    ということは、実際の勝負は10問ぐらいと考えられる。
    だから、10問に時間がかけられるように、勉強しておかないと、解ける問題も「時間がない」という物理条件のため突破できない。

    ここまではテストを通過するためのテクニックのようなもので、本来の勉強はinterestを感じる部分にある。
    私が放送大学の大学院の単位を取ろうと思ったのは、interestであって、肩書のためではない。
    勉強を受験の手段や肩書のためとしか見ない心貧しき人は、勉強はinterestだという経験がないのかも知れない。

    しかし教師が自分の指導する科目にinterestを感じていないのでは、生徒もinterestを感じないのではないか?


  2. 企業に学ぶ(2)

    6月 28, 2015 by dolce

    企業は研修として、しばしばロールプレイングを行います。
    学校ではどのくらい行われているんでしょうか?
    私は授業を子どもに丸投げなどしないで、こういうものを取り入れた方がいいと思います。
    ロールプレイングの効果は、

    1.合意形成や他者受容などの能力を高める
    2.ある課題についての理解を深める
    3.多様な社会集団の関係について理解を深める

    などです。
    詳しくは「ロールプレイ」とはを参照してください。


    ロールプレイは必然的に複数の人で行うことになりますから、グループを作る必要があります。
    グループが大人である場合は、特に配慮は必要ないと思いますが、学校で行う場合はグループ作りは適当ではいけないと思います。
    適当ではいけないとは、等質グループを作るといって、成績の合計で機械的に割り振るとか、好きな子同士で集まりなさいなどのやり方です。
    子どものグループ作りは、まず学級経営に大きく影響すると思います。

    話は変わりますが、健康講演会に参加した時、人が年を取ると不健康になり体に支障が出てくるのは、人の体も金属と同様錆びるからだと説明がありました。
    錆びる原因として活性酸素の影響があるとのことで、酸素を除去するために水素イオン水がよいとのことでした。
    私は水素イオン水の効能はまだ確かめていませんが、教師も長年やっていると錆びるのではないかと思いました。

    教師は人にもよりますが、プライドの高い人もいて、何でも自分は知っているような言い方をする人がいます。
    学校は教師と子どもだけの世界で、この範囲だけで閉鎖社会を作ると、時代から取り残されかねません。
    私の家のオーディオを見て「あ、これ古いやつ」と言った人も、生活領域が閉鎖的なのでしょう。
    竜宮城で宴会をしていたうちに、世の中が加速度的に変わっていたことに気がつかない本人が「これ何十年も前」と知ったかぶりをして、恥さらしにならないようにしたいものです。

    指導案も授業前に書くものと決めつけないで、授業後にもどう授業をしたのか思い出しながら書くのもよいと思います。
    その場合フローチャートがいいと思いますが、JISで決められた形式でなくてもいいと思います。
    フローチャートは流れ図と言いますが、工場の生産現場でもカード形式のフローチャートを置いて、常に順序など検討し、数秒の時間でも合理化のために節約することを考えています。
    myaudioそういうことが、企業の競争力となってあらわれるわけです。

    学校は企業ではありませんが、だからこそ良い意味での競争力がなくなると言えます。
    ここで言う競争力とは、子ども同士の競争力のことではありません。
    大人同士の競争力です。
    教師が企業の現場に入った時「さすが先生」と言われるようになりたいものです。


  3. 企業に学ぶ(1)

    6月 27, 2015 by dolce

    ここでは一流企業での話である。
    一流企業では教育を重視している。
    それは、商売は結局「人」であるから。

    今年は大企業の新卒採用時期が、例年より4ヶ月遅くなるということだが、今までは募集が早すぎて学生の勉強に支障を来していたからというのが理由らしい。
    募集時期を経て採用されると、新卒研修が始まる。
    大企業では研修専用の設備があって、それも風光明媚な充実した環境が用意されていることが多い。

    研修期間は数カ月に及ぶこともあるが、研修期間中に自殺者が出ることもあると聞いた。
    その企業は、今ではそうでもないが、大学生の就職先人気ナンバーワンであった。かつてはと言っても、今でも人気上位である。
    応募者は超難関の国立大学である、と言えば想像がつくだろう。
    そういう者たちの集まりでも自殺者が出るのである。
    こういう方面に明るい人に話を聞くと「負けたことのない弱さだろう」と言う。

    ところで、こういった一流企業でトップクラスの人材を集めて、どんな研修をするのだろう?
    何か特別な研修をするかと言うと、そうでもない。
    主体は、いわゆる一斉授業である。
    講演がプログラムに組み込まれている場合もある。

    研修内容全体から見ると、一斉授業型(講演も含む)がすべてではなく、グループに分けられ討議する、レポートを書くなどの時間も含まれている。
    夜は食事の後、懇談形式で講師の話を聞く、集まった同士が意見交換をするなどの時間があったりする。

    競争力のある一流企業は何か特別なことをやっているかといえば、そんなことはない。
    主体は一斉授業型である。

    話は変わるが、大学入試などの受験生の中には、成績が上げるには何かいい秘訣があると思っている者がいる。
    成績の上がる参考書があると思っている者もいる。
    そういう者に限って、自分でしなければならない努力を怠っているという傾向があるように思う。
    こういった考え方は、たいていのことに共通する。
    だが、言い古された言葉であるが、学問に王道なしを忘れてはならないと思うのである。

    教師の中にも、何か指導の秘訣のようなものがあって、己の研究不足を考慮していないと考えられる場合がある。
    かつて、合唱指導について討論した時、ある人が「そんないい方法があるなら、ここに書いてくれ」と皮肉っぽく言ったことがある。
    しかし、マニュアル通りやれば間違いなく上手になるという方法はない。
    (そういう方法があれば、誰でもフルトヴェングラーやカラヤンのようになれるだろう)
    優れた指導者はこういうことをよく知っている。
    マニュアル通りやれば間違いなくうまくいくのは、料理の本ぐらいではではないか。

    あるメーカーが作った真空管のアンプが、たいへん音がいいと評判になったことがある。
    それで、ある人がメーカーに回路図を譲ってくれないかと頼んだことがある。
    メーカーは快く提供した。
    ここでまた評判になったのは、回路図も部品も忠実に守って作ったのに、メーカーのものと同じ音にならなかったということである。

    私が新卒から間もない頃、先輩から聞いた話だが、私が「学校は流行にとらわれず勉強できるからいいですね」と言ったら「いや、流行を追っているのが学校ですよ」という返事が返ってきた。

    そう言えば、学校は研究発表とやらを行うのだが、その時「わが校はこんな新しいことをやっている」という、いかにも進歩的、先端を言っていると発表している場合がある。
    何か新味を出さなければいけないという意識が働くのか、特に新しくもないのに造語も多い。あるいは、普段使わないような言葉を持ってくる。
    かえってわかりにくくしている。いやわかりにくい方がいいのかも知れない。例えば、観察を「見取り(看取り)」なんて言うのは恥ずかしいからやめてもらいたい。

    大企業は常に競争にさらされて、人材の養成には真剣である。
    その大企業の研修方法は一斉授業(講演)やグループ学習(討論)であることを認識すべきである。

    では、成果の違いは何かと言えば講師の質であると言える。
    ちなみに、講師料はどんなものかといえば、一流講師であれば100万の大台である。
    当然それだけの価値があるから呼ばれるわけである。
    最近、ソフトバンク、ニケシュ・アローラ氏に165億円の役員報酬というニュースが話題になったが、会社としてはそれ以上の利益があるから払うわけである。

    学校の教師も、価値を認められれば、100万でお願いしたいという講師依頼もあるだろう。
    あるいは、退職後の引き合い、いや在職中もありうるだろう。
    しばしば、紹介するのだが、私が中学生時代の理科の先生は、途中で研究所に引きぬかれた。


  4. ニンニクとドラキュラ

    6月 26, 2015 by dolce

    satanドラキュラはニンニクが嫌いなようですが、なぜニンニクなのでしょう?
    吸血鬼の弱点というサイトを参考にさせていただいた。

    ニンニクが悪に対して効果を持つという言い伝えの源はエジプトである。またニンニクは万病に効く薬としても重用されてきた。中国とマレーシアでは吸血鬼避けのためにニンニクを子供に額に、フィリピンでは腋のしたに擦り込んだ。スマトラのバタク(吸血鬼と闘う力を持つウィッチドクター)は反魂の術にニンニクを使用した。古代ローマでは、戦いに赴く兵士が勇気を奮い立たせる為にニンニクを身に付けたという。
    ニンニクは月の欠けている間に成長する為、月の女神ヘカテと関連が有るとされている。

    キリスト教ではサタンと呼ばれる悪魔が、神に対抗して人間界に降りてきて、人々を誘惑し不幸にしようと画策していると言われている。
    ではドラキュラがニンニクを嫌うように、サタンが嫌うものはないかと考えた。
    すると、サタンは「感動」が嫌いなのではという気がしてきた。

    なぜなら、感動は人を幸せにするものだからである。
    サタンの目的は人間を不幸にすることであるから、人間の喜ぶ姿が最も嫌いなのではと思うからである。
    逆に、人間の不幸な姿は大好きで、常に人が気分を悪くすること、将来を不安にすることを探しているのだろうと思った。

    指導案を練って、感動のある授業をし、子どもたちが未来に向かって希望を持つようなことをしては、サタン王国が滅んでしまう。
    教師たちはサタンの陰謀に負けないで、感動のある授業をしなければならない。


  5. 個人の感想です

    6月 26, 2015 by dolce

    テレビのショッピング番組をみていると、商品の良さを説明し、その後使用者の感想を放映しているという形は多い。
    それをみていると、思わず買おうかという気持ちにさせられることも多い。
    しかし、よく見ると画面の角に小さな字で「個人の感想です」と表示されている。

    なかなか説得力のある番組なのに、注意深いと思う。
    視聴者は多いだろうから、中にはクレームをつける人もいるんだろうと想像している。

    それにしては、文章がずさんと感じる人もいる。
    問題はモノを書くことが仕事と思われる人にあることだ。

    例としては、かつて紹介したことのある元大学の先生の文章。
    この方、専門も多少は関係があるせいで、オーディオに関心がある。
    分析的に、オーデイオに関するデータを紹介し、主張は「臨界価格」で、低価格から高価格に渡る製品の中で最も効率のよい投資は40万と言っている。
    つまり、金をかければ音はよくなるが、これ以上は金をかけてもそれほどよくならないとする限界点を臨界価格と称している。

    ここの掲示板に私は投稿した。

    人の耳では聞こえないとされている、20KHzを超える音を再生できるようにしたら、聞こえないはずなのに音が良くなりました(改善されました)。

    すると、この方からの返事

    あなたの言っていることは、個人の思い込みに過ぎず、客観的データも根拠もありません。

    と一蹴された。

    感想を言うのに、いちいちデータや裏づけが必要なのかと思った。
    それより、根拠はわからないが、率直な感想をデータとして解析するのが、科学的態度ではないかと思った。
    企業が一般の人を対象にしてアンケートをとるのも、率直な感想が欲しいからで、どうしてそういう感想を持たれるのだろうと解析するのは、企業の仕事ではないかと思った。
    そもそも、この人の言うオーディオの最も投資効率がいいのは40万円ということ自体、思い込みで、客観的データや根拠がないのではないか。
    つまり、個人の感想だろう。

    思い込みで、客観的データや根拠がないと言えば、次の文章。

    私は最底辺の状態でもがいている子どもたちを見続けることが教師の原体験です。・・・・一人も見捨てないということを極限に行けばどうなるかを考えます。

    この人がここで言っている「最底辺の状態」とはどんな状態だろう。
    モノを書くこと、研究が仕事の人なら、この場合こそ、ここで言っている「最底辺の状態」を示す必要があるだろう。

    私の家の来客で始めて訪問した人は、たいていちょっと驚いた感じで部屋の感想を言う。

    「あっ、これ古いやつ」・・・・・・・・・・(1)
    「何かみすぼらしい」・・・・・・・・・・・(2)
    「すごいですね」・・・・・・・・・・・・・・・(3)

    (1)(2)は中年の女性(もっとも、若い女性が来ることはない)。
    (3)は男性。

    「古いやつ」という感想を持った理由は、家電店のミニコンポしか見ていないから。大きなオーディオは昔のものという先入観を持っているから。
    「みすぼらしい」というのは、一般家庭にあるような家具がないから。私の部屋のものはガラクタに見えるらしい。
    「すごい」というのは機械に関心があるからと思われる。
    個人の感想である。

    再び、子どもを見て「最底辺の状態」とはどういう状態なのだろう。
    学者、研究者、モノ書きなら、たとえば海外の国を訪問した時

    「1日の生活費が1ドルぐらいの貧しい彼らの・・・・」

    のように書く。
    つまり、生活費を基準に書いているのだ。
    しかし「最底辺の状態」だけではこの人が何を基準に最低辺と思っているのかわからない。

    どういう作文を書くかは個人の自由だが、少なくとも研究者ならこういう書き方はどうかと思う。
    まして、指導的な立場にあるなら、論文の手本を意識する必要があるのではないか。
    「最底辺の状態」も、単なる個人の感想である。

    言葉の定義が抽象的な、つまりボケているのは研究者とは言えないし、実績があるとは思えない。
    この人の文章はほとんど、いやすべてこういう感じで、

    私は平均的な教科教育研究者の二、三十倍の業績があります。

    これも「平均的な教科教育研究者」がはっきりしないし、どう計算したかもわかりません。
    論文の数なのか?
    だとしたら、論文は数より質ではないのか?

    というより、ハッタリ、誇大妄想の類に思えます。


  6. 並列処理と人間の仕事

    6月 25, 2015 by dolce

    インターネット環境のある家庭ではルーターも使っていると思います。
    今では当たり前のように使われているルーターですが、普及期には珍しいものでした。

    そのルーターが何をしているのか、知っている人はどのくらいいるのでしょうか?
    ルーターは routerと書きますが通信経路を選択してつなぐものです。
    もっと簡単に説明すると、何台ものコンピュータを一度に使えるようにしたものです。

    ルーターがあるので、契約回線は一回線でも複数のコンピュータが使えるのです。
    どのようにして複数のコンピュータを使えるようにしているのかと言うと、いくらコンピュータと言えども同時にいくつかの仕事はできないので、何台ものコンピュータを高速で巡回し、使用者からはあたかも同時に仕事をしているように見せかけているのです。
    ここまでは、そんなことお前にいちいち言われなくても知っている、という人もいるかと思います。

    私が言いたいのは、機械と言えどももとは人間の考えたものですから、機械の仕組みを考えてみると、逆に人間の行っている仕事の参考になることがあると言いたいわけです。

    仕事の能率の悪い人は、いくつかの仕事を並行して行えないということがあります。
    これは複数の仕事が重なった時、調整できないという能力に関係があるような気がします。

    生まれつきその部分に欠陥があったのか、それともその後の成長期にそういう能力が養われなかったのかわかりませんが、私が問題だと思っているのは、社会に出るまでにこういう能力を要求される場面が少ないことに影響しているのではないかと言うことです。

    料理を作る時、まず湯を沸かして、その間に野菜を切って・・・という計画性が要求されますが、これは正にいくつかの仕事を並行して行うという能力が要求される場面の連続と言えます。
    だから、私は料理をいつも誰かに任せっきりでなくて、自分でもやった方がいいと言うのです。
    料理は脳のトレーニング、つまり脳トレになると思うのです。

    退職した旦那が、居間に座り込んで、奥さんがお茶を出したり・・・昔から据え膳盛飯(すえぜんもりめし)と言いますが、これはよくないと思います。
    これをやっていると脳は退化するように思います。

    奥さんが出かけて、夕方戻ってきた時、その間何も食べなかった旦那もいるそうです。
    こうなると、大人と言っても幼児と変わらないような気がします。

    熟年離婚もこういうことが原因の一つになっているのかも知れません。
    「旦那のおもりがいやだ」という主婦は案外多いような気がします。

    話がそれましたが、忙しいと言う教員の仕事を少しでも緩和するには制度不満を言っているだけではダメだと思います。
    事務員や助手を増やす、教員定数を増やすと言うのはそう簡単に実現するものではありません。
    そうしたら、今の仕事を見直して合理化するしかないと思います。

    ところで、普通の人の2、30倍の仕事をすると豪語している人がいますが、では、普通の人は1日何時間仕事をしているのでしょう?
    普通の人が8時間仕事をしているとすれば、8☓20=160〜8☓30=240時間仕事をしているということになりますね。
    1日は24時間しかありませんから、1日不眠不休で働いたとしても、160÷24=6.66・・・、240÷24=10となり、この人は普通の人の7倍から10倍のスピードで仕事をするということになります。
    はっきり言ってこれはホラでしょう。

    以前にも紹介しましたが、私は500枚ほどの採点を3分少々でやりました。
    ホラではありません。1分間で160枚を採点する機械を開発したのです。
    そうです、機械採点は無味乾燥です。心を込めるなんてことはありません。
    テストの採点は無味乾燥で、心を込める必要がないからいいのです。
    それは、テストは公平でなければならないからです。
    記述的テストがいいテストと頭から決めつけているいる人がいたら、問題です。
    なぜなら、作文をテストに使うということは、採点に感情が働くからです。
    人の感情には起伏がありますから、何枚ものテストを変わらない気持ちで採点することは難しい。
    採点者の好みで点数が左右される可能性がる。
    などの理由で公平が保たれない恐れがあります。
    テストの採点は、違う人が行っても同じ点数にならなければいけないのです。
    記述式で、採点後「◯◯さんの回答と私の回答では点数が違うのはなぜですか?」との質問が続出する恐れもあります。
    そもそも、50分の中間、期末テストで「教育成果の心」を採点しようとするところに無理があるのです。

    ということで、私は中間、期末テストは割りきって考えました。
    心の入り込むことは、テスト以外の活動で評価すればよいのです。

    ということで、私のテストは500枚を3分少々で採点が終わりました。
    採点が終わったところで、コンピュータがすぐに集計しますから、偏差値、標準偏差、ヒストグラムなどもほとんど同時に計算が終わります。

    テストが終わると、生徒たちは急に精神的にも時間的にも余裕ができますから、こういう時に先生は職員室に閉じこもっていないで、生徒たちと会って有用な指導をする方がいいと思います。

    ■並列処理

    並列処理とは、コンピュータであれば、複数のCPUで同時に仕事をしていくやり方です。
    一台のコンピュータでも、一つのコアに2つとか4つとかCPUが入っていて、並列処理を行うものが近年普及してきました。
    DUAL COREとかQUAD COREと呼ばれるものです。

    そういう並列処理もありますが、私はコンピュータ(パソコン)そのものを何台も使って分業しています。
    具体的には、自宅には6台のパソコンがあって、仕事を分けています。

    Windows VISTAが3台、Windows 7とWindows 8.1の両方が入っているもの1台、LINUXが2台の計6台です。
    2台は音楽専用、1台は業務で会社のコンピュータと接続するもの、1台は日頃インターネットにつないでこのブログを書いたり、検索をしたりすることに使っています。
    もう1台はノートパソコンです。
    ノートパソコン以外のデスクトップは自作しますから、それぞれの仕事に特化するように作っています。

    このように、複数台使うことで、パソコンが一つの仕事に占用されなくなります。
    つまり、複数台が並列で仕事をしているわけです。本来の並列処理とは一つの仕事を複数台で行うことですが、私の場合は分業で同時に動いているということです。

    今ブログを書いているパソコンはLINUXなので、ウィルスに対してはガードが強力です。というか、ほとんど気にしなくて済みます。

    人が大勢いると、複数の仕事が同時並行で進み、時間の節約になります。
    同様にパソコンも複数台で時間の節約を考えたらどうかと思います。


  7. 指導案を書く前にフローチャートを書こう

    6月 24, 2015 by dolce

    flowchart昔は教員も、全員ではないが、コンピュータのプログラムを作っていたことがある。
    その頃はフローチャートを書くということも行われていた。
    そういう経緯があったせいか、フローチャートはコンピュータに関係するものという印象を持った人が多かったと思う。
    しかし、フローチャートは何か仕事をする時の手順を図に表すものであって、仕事を合理的に行うための計画には便利なものである。

    フローチャートを書く利点が、フリー百科事典「ウィキペディア」にまとめてあるので、引用する。

    問題解決においてフローチャートを作成する意味は、

    1. 問題解決の方法を視覚的に明確に表せる。
    2. 処理手順を追いやすい。そのため手順に問題がある時、それを発見・修正するのが容易になる。
    3. 問題解決を複数人数で行う時、担当箇所の明確化や、説明する際の理解向上に役立つ。

    などがある。

    「問題解決において」とあるが、授業計画にも好適である。


    こういうことを提案すると、すぐ反対する人が出てきたりするが、フローチャートを書くことのデメリットはない。むしろメリットが多い。
    反対する人の本音は「これ以上頭は使いたくない」というものだろうと思う。
    最近、学校の教師は忙しいという話をよく聞く、だから、やらなくてもいいことをやって、さらに忙しくしたくないという気持ちはわからないでもない。
    だが、教師としてに力量を高めることには積極的に挑む気持ちが薄れては、教師としての自らのクビを締めることになる。
    逆に、教師としての仕事を丸投げするプランに積極的になれば、加速度的に教師の価値がなくなる。

    フローチャートを書くことに挑んだ教師の中には「フローチャートでは指導案は書けないことがわかりました」と言った人がいた。
    これは、フローチャートで指導案が書けないのではなく、書いているうちに考えに行き詰まって挫折したというだけだ。
    行き詰まれば、かえって、そこに問題があるということを発見できたということである。


  8. 思考回路研究(3)〜教師に必要な能力

    6月 23, 2015 by dolce

    教師の能力を問われるものはいくつかありますが、決められた時間内に授業(講演)ができる、というのは大切な能力の一つであると思います。
    あれも教えたい、これも教えたいとたくさんの要素が浮かんでくる中で、取捨選択し、順序や山場を考え、一授業のまとまりとして構成し、期待通りの成果が出るようにしなければなりません。
    演出も考え、受講者が感動して深く心に残る授業(講演)をしなければなりません。

    私は幸いなことに、1年に何回かは一流講師の講演を聞くことができます。
    一流とは、時々マスコミに登場するような人と考えてもらえたらよいと思います。

    先月、講演を聞いたのですが、一時間半と決められた時間内にピッタリ終わりました。
    パワーポイントとビデオを使うタイミングも実に洗練されており、話も上手で一時間半という時間を、聴衆は十分堪能したと思います。
    学校の教師も時にはこのような講演を聞くといいと思いますが、いい講師は人気があってスケジュールが合わない、講師料が高いなどでなか難しいかも知れません。

    ■資料を取捨選択してまとめる力

    ビデオの編集も、数分の録画でも数時間かかることがあります。
    実際に一つの作品としてまとめるという仕事をしている人は、実感していると思います。

    捨てる、採用する、合成する、効果を考える。
    最後に通して出来栄えを見る。

    授業も同じようなものです。

    授業を構成するには、やはり捨てたり採用したり、全体の流れを考えねばなりませんが、こういうことは人間の最も知的な活動の一つと思います。


    指導案を書くことを嫌がるのは、知的活動で頭を使うことに拒否反応を示すからだと思います。
    しかし、この作業を拒否していては授業の能力は高まらないと言えます。

    何かと理屈をつけて指導案の意義を認めない人がいますが、これは自身が指導案を書けないというのが本音でしょう。
    もっとも、指導案の意義を認めない人に、私は会ったことがありません。

    指導案を認めない人は、その理由を言いません。
    再度言いますが、自分が書けないからです。

    なぜ書けないかといえば、ABCと要素(材料)があった場合、ABCを単純に並べると3時間かかってしまうものを、ABCを同時に考えてDという50分にするということができないからです。
    つまり、こういう人の思考構造はデータが単独に存在しているだけで、AかBかCかの選択しかできないことになっているからだと思います。

    私は調理を奥さんだけに任せないで、自分もやるようにしたほうがいいと言います。
    インスタントラーメンはまずいという人がいますが、麺を茹でた湯を一度捨ててつゆを入れる。昨日の野菜炒めが残っていたらそれを入れて、野菜ラーメンにする。さらに卵を入れると、結構いいラーメンができたりします。

    しかし、選択しかできない思考の持ち主では、このような思考ができないのです。
    もともとそういう思考だったのか、衰えてきたのかわかりませんが、40歳ころから子ども並みの知能だなと思える大人(先生)がいます。
    これは、頭を使わなくなったからではないかと思います。
    小学生並みのレベルで大学生を教えようと思っても、無理な話です。

    まとめると言えば、授業を観察して観察記録にまとめるというのも、かなりの知的作業です。
    場合によっては、授業が済んだあと10分足らずでまとめなければならないこともあります。
    それでも、まとめる力があれば、現場を見ているのですから、生々しい記録は書けます。
    できないと言う人は、授業の開始から終わりまで録音機かビデオ録画のように順番にしか書けないからでしょう。
    つまり、取捨選択してまとめる能力の問題です。
    教育実習生を指導する機会があったとしたら、指導者自身が手本を見せられなければ指導にならないと思います。


  9. 似た人はいるものだ(2)

    6月 23, 2015 by dolce

    「似た人はいるものだ」は、付き合う上で注意した方がいいと思う人、ということでもある。
    その11の項目を再掲する。

    1.自己顕示欲が強い
    2.感動を嫌う
    3.2つ以上の案をまとめられない
    4.目立つ用語を使いたがる
    5.言葉がボケている
    6.自分で自分を褒める
    7.ユーモアがない
    8.妄想が多い
    9.嘘が多い
    10.他人の批判はするが自己批判はない
    11.作文が下手

    1.自己顕示欲が強い

    自己顕示欲と言えば、目立ちたい、有名になりたいという欲があるということである。
    そういう欲のため、自分で自分を褒めて、自分は凄いんだと認めてもらたいという願望を持っているのかも知れない。
    目立つ用語を使いたがるのも、他人の注目を浴びたいという意識からかも知れない。
    関連して妄想が多くなり、それに伴い嘘も多くなる。

    2.感動を嫌う

    これは人が喜ぶ姿が嫌いということのようである。
    自分は、他人の不幸を見て喜ぶという傾向があるので、自分が感動することは否定していないようだ。

    3.2つ以上の案をまとめられない

    脳内の記憶には、データが単独に記憶されているというだけで、それらが関連を持っているわけではない。
    あるいは、合成して新しいデータを作るという機能に欠けていると考えられる。

    4.目立つ用語を使いたがる

    目立つ用語を使いたがる例としては、人が間違いを訂正した時「訂正しました」と言えばよいのだが「自白した」という。
    掲示板にパスワードが設定してあって、会員でなければ入れないようにしてあるものを「検閲性の掲示板」と言う。
    とにかく、素直に普通の用語を使うことを避けるようである。これも「目立ちたい」からくるものなのか。
    (「見取り(看取り)というのも、この類かも知れない。「観察」の方が一般にはわかりやすいと思うのだが「見取り」と言われると、ドキッとするので、それが狙いなのかも知れない)

    5.言葉がボケている

    言葉を使うのは何らかのことを、相手に理解してもらうためと思うのだが、長々と書いても少しも核心に迫らない。
    普通は相手に理解してもらうために、概要を記述したあと具体例を書いたりするのだが、具体例を挙げることはない。
    一見具体例を挙げたように見えても、実際には具体性がない。だからリアリティ(現実感)のない文章になる。
    このような文章になるのは、現実にない(なかった)ことを書こうとしていることもあるが、現実にあったことを書こうとしても、2つ以上(複数のこと)を有機的に結合させて文章を組み立てることができない(前述のように、データがバラバラに存在するだけ)ので、現実と妄想の入り混じった文章になるからだと思われる。

    だから、もう少しわかりやすく書くために、いつ、どこで、誰が、何を、どうして、どうなったという5WIHを提案すると、猛烈な抵抗を示す。
    起承転結を意識して書いたら、という提案にしても然りである。

    6.自分で自分を褒める

    これは、常に自分が主役でありたい目立ちたいという願望が根底にあるからだろうが「凄いですねえ」という言葉がないと、認めてもらいたいという欲望が満たされないのだろう、自分で自分を褒めることになる。見栄の類でもある。
    (例)
    ・僕は昔は女の子に持てて困ったんだ・・・・・本当に持てる人はそんなことはいない
    ・ウチの家内の親戚は皆東大出です・・・・・・全部調べていないのにそう言う
    ・僕は普通の人の30倍仕事をしています・・・1日は24時間しかない、普通の人とはどのくらい仕事をしているのか言わない(嘘だから)

    7.ユーモアがない

    ユーモアは「身についたセンス」というところがあって、自然ににじみ出てくるというところがある。
    だから、人を笑わせようと思っても、そうできるものではない。センスのない人があえてユーモアをと思っても、ぎこちなくなったりしておかしくなることが多い。

    また、他人のユーモアを解するセンスもない。もともと「人が笑う」とか「楽しくなる」ということが嫌いなのだ。
    反対に、人の不幸を見て心の中でほくそ笑んでいるというのが、この人のスタイルである。

    8.妄想が多い

    常に妄想が基底にあるので、文章も大半は妄想に支配されている。
    そのため、事実があったとしても妄想との境がなくなることがあるので、文章のリアリティがなく、5W1Hを明示することができない。

    9.嘘が多い

    自己顕示欲と妄想のため自然と嘘は多くなる。目立つ言葉を使いたがる心理も嘘を加速していると言えるだろう。

    10.他人の批判はするが自己批判はない

    自分が目立ちたいという心理があるから、他人は自分より下であるという宣伝をしたいという気持ちからだろう。
    当然、謙遜するとか控えめという自己を下げる発言はしない。
    いわゆる「自分のことは棚に上げて」というやつである。

    11.作文が下手

    作文の素材となるデータが単独で存在しているしかないので、全体として作文の統一感がない。
    突如、無関係な文章が出てきたり、思いつき的な断定が入ったりする。
    突如入ってきた文の根拠も示されない。たとえば「気になる子どもには声をかけないようしたほうがいい。失敗します」と突如言い出しても、その根拠は説明しない。驚く発言をして人目を引くという効果をねらっているだけかもしれない。

    文章の特徴として、長文なのに何が言いたいのかわからない文章が多い。だらだらといつまでも長く続くという感じである。
    常に自分をアピールしたいというエネルギーがそうさせているのかもしれない。
    そして、自分の文章がどれぐらいの人に受け入れられているのかに感知しない、というか多くは賛成していると思っているようだ。

    以上、似た人がいるとと思う中でちょっと変と感じる人の特徴をまとめてみた。
    ブログは嘘も書きやすいので、こうした人たちには都合がよいのかも知れない。
    特に、職場でストレスがたまっている場合は好都合なメディアと言える。
    対人関係の中で、人を見抜く力をつけ、騙されて貴重な時間をなくすことがないよう、役に立てば幸いである。
    ご意見、感想があれば賜りたい。


  10. 似た人はいるものだ(1)

    6月 22, 2015 by dolce

    たくさんの人に会ったり、たくさんの人の文を読むことで、似た人はいるものだと考えるようになった。
    「似た人がいる」というのは人を類型化すること、俗に言うパターン化にもなるので、気をつけなければならないと思う。
    人は非常に複雑なもので、類型化ですべての人を分類し、単純化することはできないからだ。

    日常、街で見る人の中に、誰かと似ている人を見つけることはよくある。
    しかし、それらは同じ人ではない。

    それでも、人を分類するとき、男女をはじめ、血液型など分類はあって、分類することによって、社会生活に寄与していることは多い。
    「型にはめる」「きめつけ」によって、類型化がかえって人を見えなくすることのないように、注意深く結果を利用することを念頭に置き「似た人」を見つけていこうと思っている。

    ■どこか変わっていると思う人の共通点

    1.自己顕示欲が強い
    2.感動を嫌う
    3.2つ以上の案をまとめられない
    4.目立つ用語を使いたがる
    5.言葉がボケている
    6.自分で自分を褒める
    7.ユーモアがない
    8.妄想が多い
    9.嘘が多い
    10.他人の批判はするが自己批判はない
    11.作文が下手

    研究というと大げさだが、大学の先生からレポートを提出するよう、課題をもらったつもりで、この先まとめていこうと思っている。