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5月, 2015

  1. 思い出に残る先生

    5月 26, 2015 by dolce

    ここで言う思い出に残る先生とは、いい思い出を作ってくれた先生と言っても良い。
    教え方がどうのこうのではなく、個性があって、本当に先生自身が、先生という仕事が好きだったんだなと思える先生である。
    こういうことは、子どもの時は考えなかった。大人になって振り返ってみると、そのようにまとめられるということだ。

    壺井栄 作「二十四の瞳」は私の最も好きな作品の一つで、これが映画化されて高峰秀子が主演した。
    その後も別な主演で制作されたが、私は高峰秀子の主演が最も好きである。
    モノクロで画質はよくないが、そんなことは気にならない。夢中にさせてくれるものがある。

    高峰秀子が演じる大石先生の授業場面は出てこない。
    でも、大石先生は素晴らしい先生である。
    先生といえば、とかく授業が上手いとか指導力が云々いう人がいるが、いい先生かどうかにはそんなことは関係ない。

    私は過去に補欠授業で小1のクラスに、一度だけ行ったことがある。
    1年生は普段は遠くからしか見ていない先生が教室にやってきたことで、興味津々であった。
    すぐに、ギャングになって走り回る1年生が、珍しい先生の一挙一動にくぎ付けである。
    何も言わないが、ニコッとすると1年生もニコッとする。
    これだけで気持ちが繋がったような気がした。


    どういう流れで言ったのかは覚えていないが、私は「みんなのお母さんて美人かな?」と聞いてみた。
    すると「お母さんが美人・・・ゲエ・・・」ととてもそんなこと考えられないという反応だった。
    それではと、私は次の質問をしてみた「それじゃあね。神様が美人のお母さんと交換してしてくれると言ったら、交換してもらう?」と。
    これには、交換して欲しいという子どもはひとりもいなかった。「やだ、やだ」
    という声があちこちで聞こえた。

    ここに、何と言うか、私は「人間」というものを感じた。
    先生には不器用な人もいる。でもそういう先生が嫌われるわけではない。
    先生というのは、機械の性能の評価ではないのだ。

    大きくなってから、また会ってみたいと思うような先生。思い返してみると、自分の人生に影響を与えてくれた先生が、先生と言える存在のように思う。
    個性的で、子どもが好きで、先生という仕事に熱が入っていた先生。
    遠足や修学旅行も子どもと行くのが楽しいと感じていたような先生。

    そんな先生は、大人になってからも、何かの節に「こういう時、先生何と言うのかな」とか「先生はこうしたんだ」と思い出すような先生。
    卒業してからも、先生はずっと一緒という感じがする。


  2. 教師の第一条件は健康であること

    5月 25, 2015 by dolce

    教師は健康でなければならない。
    体の健康は定期健康診断によってチエックを受けているので、管理は行き届いていると言えるだろう。

    これは企業においても同じですが、このほど労働安全衛生法改正において、メンタルヘルス対策の充実・強化が示され、年1回の労働者のストレスチェックを、従業員50人以上の事業場に対して義務付けられることになりました。

    健康は体だけでなく、精神面の健康も大切なのです。
    これは、企業の労働者だけでなく、教員の精神面の健康も大切であることは言うまでもありません。

    ■事実上、仕事をしていない教師

    私が驚いたのは、気分によって通勤したりしなかったりする教師がいたことです。
    特別に休養をもらっていたり、休職等になっているわけではないのに、学校に来たり来なかったりするわけです。
    子どもにもそういう者がいて、問題になっているのはよく知られていますが、教師にもそういう人がいるのです。
    これは私の妄想ではなく、実際に取材した事実です。
    こういう状態の教師は何らかの精神的な問題があると推定できます。

    普通に通勤しているように見える教師にも、おかしな人がいます。
    教室へ授業に行っても、授業にならないので、生徒たちはその教師の授業の時は、各自、自分のやりたい教科の自習をしています。
    この授業にならない教師は、昔はまともでした。
    しかし、病状が悪化したように、教室でまともに授業ができない状態になってきました。
    もちろん、学校中の先生と生徒の知ることになっていますが、何の対策も打たれません。

    こういう教師の存在を知ると、とにかく教師は「まとも」でありさえすればよいという気になってきます。
    指導力がどうのこうのと言ったって、小中学校の教科程度が難しいということはありません。
    簡単に行ってしまえば、知識と技能の伝達であり、教師自身が小中学校の問題ができないとか、危険の伴わない技能教科が教えられないとか、子どもと一緒に簡単な音楽ができないとか水泳ができないという者は、教師にしてはいけません。


    もっとも「人にモノを教えるには、その3倍知っていなければならない」と言われたものですが、大雑把にその位を目安にすればよいのです。
    それよりも、精神的に「おかしい」教師の方が問題です。
    おかしな先生に毎日対面しなければならない子どもは大変です。
    子どもの精神面に与える影響が心配です。
    明らかにおかしく、奇行もある人が教師をやっていてはいけません。

    ここは想像ですが、まともに授業をやっていなければ、実践記録も書けないと思いますから、自分の授業(指導)のことは書けないのではと思います。
    それでも、プライドがあればつじつまを合わせようとするでしょうが、どうしても「やっているふり」の域を免れないでしょう。
    そういう心理状態では、普通に授業ができる教師、普通に仕事ができる教師に対しては強い嫉妬心が起きるのではないでしょうか?
    (そのストレス解消をブログに求めている人がいるかも知れません)
    授業やその他の指導が下手だと言ったって、異常でないまともな先生の方がはるかにマシです。

    そう言えば、私自身、実際に妄想ブログの被害に遭ったことがあります。
    自分のPCがおかしくなると、私が遠隔操作で悪さをしていると書かれました。
    相手になってもしょうがないと無視していたら、さらに過熱し、全くの妄想をブログを使って誹謗中傷してきたので、実名まで出されては捨てておけないと思い、学校へ通報しました。
    学校側の構えた対応を思うと、すでに困っていたらしいと想像できました。
    結局彼はクビになりましたが、とにかく、教師はまず何をおいても健康であるべきと思います。

    厚生労働省だけでなく、文部科学省、教育委員会もこうした教師を放置しないで対策を講じるべきです。
    おかしな教師はおかしな作文をするので、これも診断のよい材料になります。


  3. フーリエ変換

    5月 24, 2015 by dolce

    大学院の過去問を見ていたら、フーリエ変換が出ていた。
    「これはまずい」と感じた。
    ラプラス変換は、昔勉強した覚えがるが、フーリエ変換は勉強していなかったのだ。
    「周期のある波形はいくつかのSinθの集合でで近似できる」ということぐらいしか覚えていない。

    試験に受かることも大切だが、数学は自分の道具として使えるようになることが大切だ。
    説明の中に微分や積分は頻繁に出てくる。
    だから微分や積分は試験のためにだけでなく、道具として使えるようにしておかねばならないのだ。
    小学校では九九を習うが、これを日常道具として使っているのと同じだ。
    フーリエ変換も音声信号を解析するためには必要である。


    手始めに高校数学でわかるフーリエ変換―フーリエ級数からラプラス変換まで (ブルーバックス)
    を読んでみたら、これがなかなかおもしろい。

    出版の世界は玉石混交のような気がする。
    だから、いい本を探すのは難しい。
    だからこそ、出版することのみが目的ではないかと思われる、くだらない本の出版はやめてもらいたと思うのである。

    数学はTKさんの得意分野だろう。
    数学の学び方や、ご自身の経験を、ぜひお聞きしたいと思う。


  4. 何でもありの「学び合い」

    5月 22, 2015 by dolce

    本日、元校長経験者の方々と雑談をしている時、偶然「学び合い」という学習の仕方について、話が及んだ。
    誰が始めたのか、そこまでは言及できなかったが、研究授業があって、その後の反省会ではずいぶん批判があったらしい。
    批判の要旨は「子どもだけに任せて、教師は介入しないそれだけで、学習のレベルアップはできない」というものだったらしい。

    私は、当初は自分で勝手に想像して、何かいいことが始まるのかなと思っていたが、それが次第に失望に変わり、今も失望は加速しつつありというより「これは完全にダメだ」という気持ちに変わった。

    ■無責任

    いつまで経っても正体が見えないどころか、発言が無責任。
    「グループを作ると、その中に2割は有能な者がいる」とは「話し合い(学習)」の出発点になっているが、その理論的裏づけはどこにあるのか、いっこうにはっきりしない。
    だが、こうした時に出てくる回答は「学術的に検証されています」というものだ。でも、その学術的検証が示されたことはない。
    というより、そんな学術的検証はあるはずがないと思う。「学術的検証があります」というのは、その文言自体が反論にたいする抗弁になっているだけだ。

    ■口から出まかせが多い

    「気になる子どもがいたら、声をかけない方がいいです。必ず失敗します」と過去に発言していたが、その本人が最近何処かで飛び込み授業をやったらしい。その報告の中で「気になる子どもがいたので、声をかけると・・・」と言っていた。
    このように、おや?という発言があったかと思うと、その発言に裏づけがあるのではなく、奇をてらった発言で人目を引こうという意図が本音にあるのではと思う。

    こういう発言は注意していると、時々出てくるのだが、教育に対して新しく示唆を与えるものではなく、単に注目されたいだけなのだという気がしてくる。
    (※ 教師なのに日本語が酷い。稚拙という気さえする。もっと、文法的にきちんと書いたらどうだ。)
    このような例は少し気をつけていると、どんどん出てくるのだが、気になる用語として「見取り」というのがある。
    これは何の意味(目的)で使っているのだろうと思ったら「観察」のことらしい。
    素直に観察と言えばいいのに「見取り」なんて言葉を使いたいのは、これも奇をてらって注目を引きたいからだろうと思う。
    「別な言い方をしたい」というだけなら、まだ許されるが「見取り」とは人の死の間際に臨終を見届ける時に使う言葉だ。

    み‐とり【見取り】

    見取ること。見て知ること。また、見て写し取ること。「―芸(=見て覚えた芸)」
    (「看取り」とも書く)病人のそばにいて、いろいろと世話をすること。看病。また、その人の臨終に付き添うこと。

    コトバンク

    教員の世界には、一般に通用するわかりやすい用語を避けて、わざわざ違う用語にしたいという意図を持った人が一部にいるように思う。
    こういうことはやめたほうがいい。かえって中身がないからそうするんだと思われる可能性の方が高い。


    いずれにしても「観察」と言えばいいのに「見取り」が出てくるのは気持ちが悪い(見取り=看取り)。
    気持ちが悪いと言えば「同志」もそうだ。
    何か特異な思想で結束した仲間を想像して、用語の変な使い方と相まって、これが新興宗教を思わせる雰囲気を作るように思う。
    (とにかく「見取り」は即刻やめた方がいい。でないと、一般に教師の非常識を晒すようなものだ。)

    「学び合い」を特別意味ありげに虚飾しなくても、単に「グループ学習」の研究でいいのだ。
    一斉授業においても、教師のセンスで「ここはグループで話し合った方がいい」と思うときはそうすればいいのだ。
    グループ学習を行ったあとは、グループごとの発表をするなり、教師がまとめるなりして、さらに高い次元に導くようにすればいいのだ。
    そういう教師の役目がなければ、教師の意味がない。

    ■何でもあり

    「『学び合い』は教師が何もしない(していない)ようにおもわれますが、そうではありません」という発言があった。
    事実、教師は(ほとんど)何もしていないのだが、このような発言も目立つ。

    最近「アクティブラーニング」が出てくれば「学び合い」は、この要求に応えるものとか、つまり「いいものは、何でも「学び合い」をやることで目的が達するというのだ。「学び合い」はまるで「打出の小槌」のようだ。

    しかし、機能的に論理が構築されているのではなく「口から出まかせ」という印象がピッタリする。
    ※ 「学び合い」をなぜ『学び合い』とするのか、私はわからない。これも、ただ目立ちたいだけの目的か?
    (子どもが真似するとよくない。)

    ■出版

    なぜ、そんなにも出版をしたいのか?
    私には、ただ部数を稼ぎたいだけのように思える。
    中身のない文章だけがダラダラ並んでいるだけで、これも出版が多いというだけが目的で、目立ちたいというのが本音ではないか。
    まあ「同志」の人たちは買うだろうから、一定の部数はあてにできるだろう。こう考えると、本当に有名なカルト(宗教)そっくりである。

    ■問題

    最も懸念するのは、子どもが犠牲になることだ。
    学校では先生が何も教えてくれないと言われるのでは?

    反論があれば歓迎します。


  5. 有名人になるには

    5月 21, 2015 by dolce

    有名人になるには、青色LEDの研究でノーベル賞を受賞した人たちのように素晴らしい業績をあげることだ。
    でもこれは誰でもがおいそれとできることではない。

    優れた業績をあげなくても、慈善活動で有名になる人もいる。
    だが、有名になることを目的として慈善活動をするのはよくない。
    そんなことが見え見えの場合は、売名行為と言われかねない場合もある。
    だから、純粋に人のためにという心のある人の中には、極力名前を隠す人もいる。
    小学校が新築された時、グランドピアノを寄付した人がいたが、名前は載せないでくれと言った人がいた。

    そういう人がいるかと思えば、有名になりたいのだが、いっこうに誰も持ち上げてくれないので、自ら自分の偉さを口に出して誇示する人もいる。
    残念ながら、こういうのはかえって、人間の底の浅さを感じられてしまって、逆効果と思われる。

    有名になるのは、いいことに限らない。
    凶悪犯罪を犯したものは大々的に報道されるので、知名度が上がるにもスピード感がある。
    ふつうの人はそんなことで有名になりたいとは思っていないだろうが、実は犯罪で名をあげても有名になりたいと考える者がいる。

    ■交友関係

    sosiometori教員ならたいてい知っていると思うが、ソシオメトリーの理論と方法 (1959年)は有名である。
    ソシオメトリーの理論により、クラス内の交友関係を調査すると、周辺児とか孤立児と言われる子どもが浮かび上がることがある。

    クラス内の交友関係で、いわゆる嫌われ者がとかく問題になるが、最も問題なのはこういう子どもではなく、クラス内の成因であるにも関わらず、誰からも関心を持たれないというか、誰の意識下にもないという子どもである。
    こういう子どもは村八分に遭っているのではなく、本当に誰の意識下にもない、もしくは存在感が薄いこどもであって、静か、無口、おとなしいので目立たない。

    こういう子どもが問題なのは、こういう子どもの内面である。
    「いつかオレ(私)だって」という意識が、人間である以上潜在している。
    つまり、自分も注目されたいという気持ちが育っていて、いつか大勢から注目されようと大きなことを企んでいる場合がある。

    目立つための善意の合理的手段がない場合、犯罪によって注目を浴びようとの手段に出る。
    これが、たまにニュースになる特異な犯罪であって、取材のコメントでは「中学時代、高校時代はまじめで目立たなかったですが」との報道がされる。

    小中学校では人間関係調査を行って、図解で表し、周辺児孤立児を把握しておく必要があると思う。

    実は、周辺児、孤立児というのは子どもに限らない。
    大人の集団の中にもあり得る。
    やはり、オレだって目立ちたいという意識が潜在しているので、そのストレスを解消する手段によっては社会問題にもなる。
    ブログの投稿で、周辺児、孤立児というストレスを解消しているのは平和的でいいかも知れない。
    それでも、行き過ぎて投稿が個人の誹謗中傷に及んだら問題である。

    ■孤立するという不安

    人は社会的生活をするので、自分は仲間からはずれないかという恐れは、誰でも多かれ少なかれ持っているものと思う。
    私は、昨年英会話のサークルに入れてもらったが、仲間として受け入れてもらえるか、当初不安を持っていた。
    子どもからは「変わった先生」と言われたころがあったので、その変わったところが、他人からみれば拒否感になるのではとも思った。

    幸い、特別なことをしたわけではないが、みなさん打ち解けて仲間に入れてもらえたという実感を抱くようになった。
    そんなわけで、サークルの中で時々ゴルフチームの中に誘っていただくのは、大変嬉しいことである。

    自分が他人から見てどうなのかは、自分ではわからない。
    だからこそ、特に大人になってからの、他人の忠告は大切と思う。
    もちろん、嫉妬や嫌味の類は忠告ではない。
    特に大切なのは、人は耳に心地よいことは聞くがそうでないことには、感情的になって怒ったりしやすいが、自分のために苦いことを言ってくれる人は大切にしなければならない。

    ■優れてもいない悪くもないが有名人と言う人

    Yahooの掲示板が現在の形に変わる前に、非常に有名人がいた。
    スレッド名は「シートベルトについて」であった。

    この人(有名人)の主張は「シートベルトの着用を法律で決めているのはおかしい」というのだ。
    つまり「法律では、シートベルトをすることで衝突を許している」というのだ。

    何人もの人が入れ替わり立ち代わりで「法律の趣旨はそういう意味ではない」と説得に努めたが、この有名人の主張は変わらなかった。
    悪意はないと感じられたが、思考回路そのものが狂っていると言う方が当たっている。

    この掲示板の意見交換は何年も続いたが、誰もが説得するのではなく、あまりにも狂った考え方が面白くて、それを見たさにアクセスが増えたと思われる。

    このように「あまりにも考え方がおかしい」ので面白がって、人気を呼ぶということがネットにはあるのだ。

    ■まとめ

    人気には大別して3つある。

    1.優れた行い、特技による人気
    2.反社会的な行動により報道され注目を引くもの
    3.あまりにもおかしい考えが、注目を引くもの


  6. 受験勉強で洗脳された頭

    5月 20, 2015 by dolce

    勉強は受験のためだけでなく、学んだことを身につけて何かに活かしたいという面があります。
    というより、後者の方が主体ではないでしょうか?

    最近は男性も料理教室に行く人が多くなったと言いますが、Printこれは受験のために行くのではなく、自分が調理ができるような技術を身につけたいためです。

    受験勉強と大きく違うところは、受験の場合は合格が目的化しているので、合格さえすれば学んだことは忘れてしまってもいいというところです。

    長い間受験ベースで思考するクセがついてしまった人は、頭の中のCD-Rに[勉強=受験]と書き込まれてしまったために、勉強の価値観をテストの点数や学歴で考えるようになってしまっています。

    私が今回大学院に入学したのは、大学院の肩書を得ることが目的ではありません。
    自分の知識や技能に足りないところがあり、それらを補うための科目が存在したからです。

    放送大学の大学院には、すでに社会に出て仕事を持ち、より自分の仕事の質を高めたいという人が多いのです。
    大学院の修士課程や博士課程の肩書を持ったから、何かに有利になるという目的のためではありません。

    受験そのものだけにこだわってきた日本の教育は、今、反省の時で、本当に高校の実力があるのか、大学の実力があるかを問いなおしてみるべき時であると思うのです。

    学校の教師も、自分の教科の力がどれほどなのか問いなおしてみるべきではないでしょうか?
    学校の教師は忙しいことが有名になりましたが、放送大学には現役の教師もいます。
    この人たちは、自分の力を問いなおした人たちだと思います。

    学歴だけで中身のない人は、張子の虎のようなもので、実際には役に立ちません。
    学力を問題にするのであれば、今自分がどれほどの力があるのか試してみるべきでしょう?

    私は想像しただけで、日本中のことがわかるほどの超能力は持っていませんが、どうも日本人は実力より肩書を重んじる傾向が強くないかと思います。
    その証拠が学歴偏重志向であり、ドイツが小学校でも落第があって「できない子を進級させてはかわいそうだ」と考えるのに対し、日本では「できなくても、落第させるのはかわいそうだ」との考えが多いということです。

    肩書偏重がよくわかる例として、音楽分野で日本人は「◯◯コンクール優勝」というものに弱いようです。
    優勝とか金賞とかつくと「うまい」と評価するようです。
    本来、音楽は賞で判断するのではなく、実際の演奏を聴いて判断するべきものではないでしょうか?
    賞を頼りにするのは、鑑賞力を育てるという環境や教育が足りなかったと言えるのかも知れません。

    日本人がこのような志向をもっているため、海外には「日本人のための、おみやげコンクール」というものが存在し、留学し、帰国前にこの「おみやげ」を持って帰るという習慣があるようです。

    海外に行って、オーケストラに入団しようとしても、過去の賞は通用せず「あなたは今どれほどの演奏能力があるのか」が問題にされると言います。

    日本がこれから国際競争力を高めるためには、教師そのものの頭に書き込まれたCD-Rの記録を何とかしなければなりません。


  7. 野良猫

    5月 20, 2015 by dolce

    人はどこに生まれるかは選べない。
    猫だってそうである。
    選んだわけではないが、飼い主のいない猫は野良猫と呼ばれる。

    どこに生まれようと、生きていかねばならないので、野良猫は常に餌を探し、たまたま食べられそうなものを探すと「泥棒猫」とののしられ、追い立てられる。
    時には石を投げられたり、水をかけられたり。

    だから、常に人目を気にしコソコソと歩き回る。
    そんな暮らしをしている猫は目つきも鋭い。

    自宅の裏へ出ると、川が流れていてここ、春は桜の名所、夏は花火の名所である。
    川一帯は四季折々の表情を見せ、川岸を歩くのは快適である。

    こういうところには様々な動物がいて、人々の優しい気持ちに包まれて平和な生活を営んでいる。
    鯉や鳥も寄ってきて、餌をねだる。

    私が食パンを持って、はるか遠くで仲良く泳いでいる二羽の鳥に手を振ったら、気がついたらしく近づいて来て岸まで上がって来た。
    それを見た鯉、鳩、雀までがたくさん寄ってきて大騒ぎだった。

    こういう風だから動物の警戒心も少ない。
    堤防は、朝、通学の生徒サラリーマンが通る。
    人々の心も自然と和むようで、動物をいじめたりする人はいない、というよりこの環境を大切にしているような感じがする。

    ここにたどりついた野良猫は、始めこそきつい目でこそこそしているが、次第に穏やかな目になり、近づいても逃げないようになる。
    人々の気持ちと自然環境が猫の心を変えるのだ。
    ここを通る人たちは、みんないい人たちという気がする。cat_kanban
    自然も人を育て、人は環境を大切にする。

    ここら辺りは本当に温かい空気に包まれている。
    猫が人を恐れないで、逃げないのがここの環境を物語っている。

    「ネコに餌をやらないでください」

    と、市役所の看板が立っている。
    その看板に描かれた猫の絵がかわいいので、かえって餌をやりたくなってしまう。

    ここに紛れ込んできた猫によっては、里親を見つけられるものもいるようである。
    人も猫もどこに生まれてくるかは、神のみぞ知るところである。
    猫によっては人間以上に可愛がられているものもいる。

    人も環境によっては、目つきが悪くなり、絶えず人の顔を見て警戒して行動する者もいる。
    私も親がいなかったところを、拾ってくれた人がいたので、野良猫を見ているとたまらなくなるところがある。

    cat_benchi当然、人の場合も素行が悪いと言って邪魔者扱いされるような子どもを見ると、人ごとのようには思えない。
    しかし、やっかいな子どもを過剰な管理をして、時には力で押さえるのもやむを得などと言っている校長を知ると、このクソ校長が、自分の心配ばかりしおってと思う。

    いったい、自分の仕事を自覚しているのか?
    子どもは、あなたの無事平穏にたどりつく定年、年金をもらって悠々自適な生活のために通っているのではないぞと言いたい。
    教育の仕事とは何かという自覚がないのではないか?

    教員になれば生活が安定し、老後も年金で安泰だから教員になろうという者を、教員として採用しないようにしない限り、教育の向上は期待できない。国はこの点を重視してもらいたいものだと思う。


  8. 教師が危ない

    5月 18, 2015 by dolce


    「教師が危ない」とは宝島社の本で、私が時々立ち寄る本屋で目についたものである。

    現役のある小学校教師に聞いた話では、ほとんど学校に出てこない教師がいるとのこと。
    ほとんどと言うのは、全くではなく数カ月にひょっこり現れることもあるということである。

    最近の教師が多忙であるということは、一般にも、少しは認知されるようになってきたが、それでも程度はわからないだろう。
    現在言われるブラック企業と比べてどうだろう?
    厚生労働省では、一ヶ月の残業が100時間を超える企業を問題にしている。

    ほとんど毎日、帰宅が10時を過ぎているという教師は、はるかにこの時間を超えている。
    教師の精神疾患や休職者が多いということは、たびたびニュースになる。

    教師の仕事は、頑張ったからと言って給料が増えるものではない。
    だから、なるべく仕事を回避して要領よくやっている教師もいる。

    要領よくでなくても「仕事はできる人しか仕事ができない」とも言える。
    授業は一応型どおりやればいいのだが、公務分掌によっては、誰でもできるものではないものもある。

    具体的には視聴覚関係は割り当てはできても、機械の操作が苦手とか、時にはハンダ付けもしなければならないこともあれば、できる人がいたほうがよい。でなければ、業者を呼ぶことになるのだが、そうそうは間に合うものではない。
    だから、どの学校にもひとりはそういう人がいるように、配慮することもある。

    私は高校の電気科を採用試験で受けたのだが、小学校へやられたという変な経歴がある。
    これは、小学校の免許状を持っていたということも影響しているかも知れない。
    いずれにしても、このように、意図しない採用だったため、早々に教員は辞めようと思っていた。

    ところが、小学校の先生を経験すると、これが面白くて深みにはまるようになった。
    全国的にはどうかわからないが、私の勤めた地域では、教師としては小学校も中学校も両方の務めができて、先生として一人前という扱いだった。

    だから、片方だけの免許状の人には、もう一方を取得するように指導があった。
    現役で免許状を取得するには、通信教育で単位を取ることに加え、時々スクーリングにも行かねばならない。
    これは、なかなか大変なことだが、免許状が片方しかない人はほとんど、この方針に従った。
    (そういう人には、教育委員会も配慮はしていた)
    もちろん、これに従わなければならないというものではないが、小学校か中学校のどちらかしか勤務できないという人には、差別はないが、事実上、半人前という空気があった。
    そして「教育全体」を語る時「知らないから、そんなことを言うのだ」と言われても仕方がないだろう。
    面と向かってそういう人はいないが、本人自身が僻みっぽくなるし「経験がないから知らない」と言われても、どうしようもない。

    実際、義務教育というものを知ること、小中互いの先生の立場を知るためにも、小中どちらの先生もできることは大切と思う。
    もし、免許状が小中のどちらかしかないという人は、ぜひ両方持つことをおすすめしたい。
    教師が天職と思うなら、絶対そうすべきだし、できるだけ若いうちに実行すべきである。

    話が脱線したが、学校に勤めて実感したことに、男女で給料の差がないこと、仕事のできる人できない人も給料の差がないことだ。
    そのせいか、教師の中には仕事ができなくても偉そうな人がいる。
    要領よく渡ろうとする人は、公務分掌で自分の仕事をなるべく楽にしようと努力する。学校は要領の悪い人、仕事のできる人に仕事量が偏る。

    始めの方でも書いたように、ある学校ではほとんど学校に出てこない教師がいるという。
    教師の登校拒否である。

    不思議なのはクビにならないことだ。
    問題はこの一人分の仕事が他の人に回って、ただでも多忙な教師をますます忙しくする。

    ひょっこり出てくることもあるというが、一体何をしているのだろう。
    恐らく、こういう人はあてにならないから、実質、公務分掌はないだろう。
    こういう人は、部屋の片隅で、ひとり碁将棋をやっているのかも知れない。

    いや、ブログを書いているのかも知れない。
    仕事ができない(しない)で、プライドだけ高い場合、精神的に満足を得るにはブログはいいかも知れない。
    ブログは書くが、自己の実践は書かないというのは、書きたくないのではなく、実践がないから書きようがないのかも知れない。
    だから、リアリティのないブログは、私は信用しない。

    しかし、今や仕事のない人にとって、ブログは「ブログ命」かも知れない。
    考えてみれば、今日多忙な教師にどれくらいブログを書く余裕があるのだろう?


  9. 教員に足りないのは社会経験〜教育改革

    5月 17, 2015 by dolce

    学校を改革するなら、私の考えでは、授業は午前中にする。
    授業は午前中に終わって、午後からは社会教育に移行する。
    市なら体育関係、文化関係の施設を充実し、そこに専門家を置く。
    午前中の授業を終えた子どもは、午後は自ら選択した体育、文化の科目に応じて、充実した施設で専門家の指導を受ける。

    教師の勤務も午前中にして、午後は自由に仕事が選択できるようにする。
    そうすると、子どもはファストフード店で働いている先生の姿を見るといったことがあるかも知れない。

    「教わるなら、専門家に教わりたい」というのが、教えを受ける者の本音だろう。
    私のつたないブログに、コメントをいただくTKさんはバドミントンのプロ指導者だろうから、午後は市のバドミントンコートで生徒を指導するという構図がいいと思う。

    国自体が貧しかった昔の日本では、多くの人たちは食うのがやっとだったから、子どもをピアノ教室に通わせるとか、柔道教室に通わせるなどは裕福なうちの子どもに限られた。
    しかし、昔と違って親の学歴自体が高くなってきた今日では「適当な先生」では要求に応えられなくなってきたと言える。
    言い方を変えれば、先生と名がつけば何でも教えられるというものではない。
    武道の必修化はいいとしても、ろくに柔道をやったこともない先生が、わずかの講習を受けるだけで指導できるという認可をするのはおかしい。


    教育改革と言えば誰でも自由な意見を言うことができるのだが、妄想や空想に近いことを言っても何の参考にもならない。
    意見は実現可能性の高いものがいい。
    どんな意見でもいいというのなら、私はすべての学校をドーム化するといいと思っている。
    そうすれば、どんなメリットがあるか、いろいろ想像ができるだろう。

    午後は社会教育として選択制にするという考えは、即席の指導者を作ってトラブルを起こすということも減少するだろうし、優れた指導能力があるのに活用されないという人材が生きることになる。

    子どもがどういうところから、事実上の教育的影響を受けるか(受けているか)と言えば、昔の「何でも学校」から現代は学校以外からの影響大きくなっている。
    現代は十代からオリンピック選手の候補が現れるように、学校以外の教育力が見逃せない。
    これらの、子どもは学校の正規の教科外からの指導(教育)を受けているわけで、部活動や学校の授業が終わってから練習に行くという部分が大きくなっており、従来の学校教育が邪魔をしているとさえ言える。

    教師の方も、大学卒業後すぐに教員になると、若いうちからかなり社会から隔絶した生活をして歳をとってしまうことになる。
    それが、中年にもなると、自信のなさを生んでいるように思う。

    アメリカでは夏休みは、先生も休みで別の仕事に就いたりしている。
    それは、社会経験にも寄与しているだろうと思われる。

    言わば、現代の学校制度は時代に合わなくなってきていて、学校以外の教育力を効果的に取り入れるべきと思う。
    SLは楽しい乗り物であるが、新幹線の走る現代では人を運ぶという目的では合わないのと同じだろうと思う。


  10. 1人も見捨てないとはどういうことか(4)

    5月 16, 2015 by dolce

    見捨てないということは、忘れないということでもある。
    そして、その子どもの将来の幸せを願っていることだと言える。

    受験戦争によってズタズタにされた心には「勝ち組、負け組」という概念が、無意識のうちに植え付けられてきたのかも知れない。
    そういう人の発言には「切り捨て」の発想がにじみ出ている場合があって、これこそ「見捨てている」証拠である。

    ところで、先生は若いうちは「ぬるま湯」に浸かっていないで、力をつけることだと最近の記事で書いた。
    多忙とは言え、教師は民間企業と違って守られている。
    それが「ぬるま湯に浸かる」に繋がるわけだが、実力のないまま40代にもなればもう人生の方向転換もできない。
    それは、弱みにもなるわけで、偉そうなことを言って先輩づらをしても虚しいだけだ。

    ■「人を見捨てない」には力が必要

    「力」と言ってもいろいろな力があるが「決定権」も力の一つである。
    たとえば、社長のように自分の一存で「採用」が決定できること。
    もっとも、社長だからと言っても、実質決定権を持たない場合もあるので、ここは注意すべきところだが、要するに、人にものを頼む場合には決定権のある人に頼むべきである。

    これは、それ相応の年齢になった時は、自分が決定権を持てるような立場になっていることが大切ということである。
    人を見捨てないとは、その人を記憶に留めている、いつも意識化にあるということが、まず必須条件であるが、決定権がないと人を救うことができない。

    ■決定権を補佐するのは人脈である


    若い人には時間がある。年配者には若い人ほど時間はないが、歳を経ただけ人脈があるというのが普通である。
    自分に決定権がなくても、決定権のある人との人脈があれば、人の援助ができる。
    つまり、人を見捨てなくて済むことだってできる。

    私は先輩たちの助言もあって、吹奏楽の指導を続けたわけだが、高校からお呼びがあって何年か指導者を務めた。
    高校の部活動が中学校と違うのは、高校生の場合は卒業すると就職する者がいることだ。
    私が指導者としている時、就職が難しい時期があって、かなり遅くまで就職が決まらなかった生徒がいた。

    私は、自信はなかったが某企業に採用のお願いしてみた。もちろん、それまでその企業とは縁があったので話ができたのだが、専務の一言で採用が決まった。
    これは、私にも人脈があったという例だが、大切なのは生徒の性格、人柄といったものを掌握していた、つまり「見捨てていなかった」ということで、そうでなければ推薦できなかったと思うのである。

    ただ歳を取るだけなら、単に老化が進んだというだけである。
    しかし人脈を作るには、ある程度の期間が必要である。
    ここは若い人が真似できないところと言える。