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4月, 2015

  1. PC用スピーカーを変更しました

    4月 29, 2015 by dolce

    HD-500今までに使っていたPC用のスピーカーも悪くはなかったのですが、このほどもう少しグレードアップしました。
    理由は研究を兼ねて、超高域の再生を試すためです。

    使用するのはONKYOのGX-500HDという右の写真の製品です。
    主なスペックは以下の通りです。

    最大出力    40W+40W(4Ω)
    再生周波数範囲    50Hz~100kHz
    クロスオーバー周波数    3.5kHz
    ウーファー    10cm A-OMF モノコック型
    ツィーター    3cmリング型
    キャビネット内容積    5リットル
    入出力端子    デジタル入力×1(光)
    アナログ入力×2(ステレオRCA)
    サブウーファー出力×1(モノラルRCA)
    ヘッドフォン出力端子×1(φ3.5mm/ステレオ)
    デジタルINサンプリング周波数
    32、44.1、48、96、192kHz/24bit

    念のために説明しておきますが、最大出力40W+40Wとあるのは、スピーカーが出す出力ではありません。
    この製品はパワードスピーカー、つまりアンプ内臓のスピーカーなので、内蔵されているアンプの出力です。
    (何Wというパワーを出すスピーカーはありません)

    再生周波数範囲が50Hz〜100KHzとあるように、100KHzの超高域を再生する能力があります。
    ハイレゾ対応で、DACを搭載しており、光ケーブルでデジタル音声を入力すると、192KHzまでのサンプリングに対応しています。
    ということは192KHz÷2=96KHzということで、最高96KHzまでの高域が再生できることになります。

    いろいろなサンプル音源をいろいろな人にも聴いてもらって、確かめようと思います。
    スピーカーは上限が100KHz再生が普通になりそうです。


  2. センシティブな話

    4月 28, 2015 by dolce

    audio_seikatsu大学院の情報学での科目「音楽・情報・脳」は、オーディオに関心のある人にとっては役立つ勉強だと思います。
    私が情報学を専攻し「音楽・情報・脳」の科目の勉強を始めた時、オーディオに関係する分野の知識がたくさん含まれていたことは、かなり偶然に近いことでした。
    こういう言い方をするのも、私は趣味のオーディオ目的で専攻したわけではないからです。

    世にオーディオマニアと称される人たちがいますが、では誰それがオーデオマニアだという線引きをすることは難しいと感じています。
    ただ、なんとなく感じる部分はあります。

    フリー百科事典「ウィキペディア」には次のような説明があります。

    ・・・オーディオマニア層には特定の機器やメーカーへの思い入れやこだわりを非常に強く抱いている者が少なからず見られ、得てして他者のシステムや自分の気に入 らないメーカーやテクノロジーに対して冷淡な評価を下す傾向があり、その様な言動を声高に行う者が見られる。また、リスニングではなく他者への自慢を目的 に高級機器や希少価値の高い機器を蒐集したり機器を自作するといった唯我独尊タイプや、プロ向けとして高品位を謳う機種を至高としてコンシューマー向け機 器を全否定・唾棄する言動、さらにはコンシューマ向け機器の性能で実用十分と満足している層を「本物の音楽を聞く耳が無い」などという形に決め付けて馬鹿 にする様な言動に終始する者も存在しており、インターネット上の掲示板などで激しい論争や批判に発展することもしばしばある。・・・

    このように、オーディオに関心のある人たちの中には「難しい」人たちもいる。
    ネットにもオーディオに関心のある人たちが集まっているところもあり、掲示板への投稿は注意を要する。
    つまり、マニアの価値観から外れた発言をすると、反感をかうことがあるからだ。

    それがセンシティブな話になりやすいのである。

    センシティブ(sensitive)

    [形動]
    感じやすいさま。敏感。「―な性格」
    微妙で慎重を要するさま。「―な問題」
    (コトバンク)

    だから、オーディオマニアと感じたら、少なくとも距離をおくほうがよいと、私は考えている。どっちみち、こちらの話を受け入れるという態度はないからである。

    CDの規格が策定される際には、人間の耳には20KHzを超える高音は聞こえないという根拠のもとに、上限の周波数は20KHzまでで切られることになった。
    情報学の分野では、音楽、特に西洋音楽のみに偏らず、世界中に存在する民族音楽も視野に入れ、研究対象にしている。

    広い視野に立って、音楽・情報・脳の関係を学術的に分析してみると、人は20KHzを超える高域(超高域)も認識していることがわかった。
    それは、100KHzをも上回るものであった。
    ただ、超高域は他の可聴帯域とともに発せられている場合に認識されるものであって、単独では認識されない。

    最近、ハイレゾが流行ってきて高価なヘッドフォンも売れているということだが、ヘッドフォンでは超高域を認識できない。
    その理由は、超高域は耳からではなく皮膚を通して認識されるからである。

    超高域が再生されることの意味は、身体に心地よさを与えることである。
    同じ動画を見ても、超高域を再生しているものでは画像が美しく見えること、音もまろやかさが加わり、心地よい音として認識されることが、データとして記録された。
    さらに、これはガンなどの抑制物質が増大し、健康を害する要素を押さえるという効果も明らかになってきた。

    私はあるところで「高域は100KHzまで再生できるようにするといい」と書いたら「楽器がどこまで(高域の上限)音を出しているかというより、どこまで聞こえるかの方が大切じゃないですか?」という反論が出てきて、センシティブな空気を感じたので、それ以上は介入しないことにした。

    右上の図に表したように、オーディオは人の生活の一部分を占めるもので、オーディオという限られた範囲だけで考えていると、真実を掴み損ねるのではないかと思う。

    たとえば「静かな空間を求める」という志向もあるが、自然界には様々な雑音が存在し、その中には超高周波が含まれていて、それが人間の健康生活に影響を及ぼしているということである。
    街の雑踏や生活上の一定の雑音は人間の生活に大切なもので、もし、それをなくして、全く雑音のない部屋を仕事部屋にすると、人は不健康になると考えられる。
    森林の雑音が心地よく感じるのも、超高周波の影響ではないかと考えられるのである。

    オーディオマニアの中には、そんなにも超高域まで再生した方がよいとなると、自分の装置が否定されたように思う人がいるのかも知れない。

    しかし、オーディオマニアにみられるセンシティブな感情は、何もオーディオマニアに限ったことではなく、我々の周りにもいるかも知れない。
    特に、教師にあたっては職場や子どもに対して、偏執的なオーディオマニアのような態度を取らないように気をつけなければならない。


  3. 教師はセールスマンではない

    4月 27, 2015 by dolce

    セールスマンは商品を売る人です。

    優秀なセールスマンを多く抱えた企業は、業績も上がると想像できます。

    では優秀なセールスマンとはどんな人なのでしょうか?

    私はその優秀と評判のセールスマンの講義を受けたことがあります。

    学校も分野を問わず、講師を招いて勉強会をすることがありますが、この講義とはそんなようなものです。

    ある会社から紹介してもらったのですが、会社が講師代を出してくれるのかと思ったら、なんと講師代は個人持ちでした。

    しかも3万円ということで、ためらいましたが「3万円払う価値はある」と信頼できる人の言葉がありましたので参加しました。

    参加したのは9人でした。

     

    学んだことで印象に残っていることは「売ろうとするから売れない」でした。

    話は架空の話、いわゆる妄想ではないので説得力がありました。

    そして、教育にも大いに参考になることがありました。

     

    ダメなセールスは売り込み(セールス)に一生懸命になります。

    これは、売る人本人の立場でモノを言っているのに過ぎません。

    いろいろなセールスマンがいます。中でも保険販売は、日本は保険大国というぐらい加入者が多いことが知られています。

    車を運転している人が自動車保険に入っていることは納得できますが、生命保険でも、日本は加入者が多いです。

    しかし、おもしろいことに、保険に加入している人の10人中9人までが、自分の保険の内容を知らないと言われています。

     

    日本での(伝統的な)保険の売り方はGNPと言われています。

    G・・・・義理

    N・・・・人情

    P・・・・プレゼント

    親戚や知人をまわり、加入を依頼す。

    こまごまと、プレゼントをする。

    こういうことで、気を引いて販売するというやり方です。

    しかし、1〜2年もすると親戚や知人をまわり尽くすので廃業。

    こういった状況が続いた中で、金融ビッグバンが起こり外資系がやってきたのです。

    黒船が来たのに似ています。

     

    よいセールスマンは顧客の立場に立って売ります。

    特に保険は、契約後も顧客の人生のパートナーとしていることが大切です。

    数年で売った人がいなくなってしまうのは、顧客としては何ともやりきれない気分になるでしょう。

     

    良い教師は子どもの立場になって教育を進めますが、そうでない教師は、中学校であれば「どうせ3年で卒業してしまうんだから」という視点に立ちます。

    だから、在学中だけ何事もなければよいと考えます。だから、問題があっても「押さえる」ことだけ「外部にもれない」ということだけ考えます。

    子どもの立場に立って根本的解決を考えない。

    出世を考えていれば、問題を隠して見栄えばかりを考える。

    「道徳の研究校になると、不良が出る」と言われた理由です。

    問題があれば力で抑えられると考えるのは、定年間近の校長が多いと言われるのも、自分の在職中だけ格好がつけばよいと考えているからだと言われます。

    (実際のところ、本気で荒れた学校で取り組んだ人は「中学生を力で押さえる」などと言うことはできないと考えているでしょう。)

     

    長くなるので、この辺でまとめますが、良いセールスマンは顧客の立場に立って提案する。販売後も良きパートナーでありたいと考えている。

    そうすると、売れれば良いという考えには立たず、人生のパートナーとなるためには、売りたいものの知識ではなく、人が生きていく中で必要とする知識を持つ必要があると考える。

    教師も子どもの側に立てば、ずっと子どもの人生の先も考えるはずです。教師が勉強し続けるのも必然になります。

    よくないセールスマンは、他社の商品やセールスマンの悪口を言います。そうして、自分の立場を上げようとするのでしょう。

    良い教師は、目の前の子どもがどうであろうと関係なく、自分の指導で引き上げようとする。指導に自信があるからでしょう。

    「教師はセールスマンではない」は「教師は良きセールスマンに習え」とすべきでしょう。

    教師は自分を売るセールスマンではない


  4. 新興宗教

    4月 26, 2015 by dolce

    新興宗教とは、伝統的な宗教にくらべて、成立の新しい宗教のことを言うそうだが、調べてみると実にたくさんの宗教がある。

    ただ、宗教団体は宗教法人としても法人格が与えられた場合、運営費は無税という特典があるので、これを利用して金儲けを企んでいる者もあるようだ。

    悪用しなければ、団体を作るのは何も悪くないし、それで救われる人がいるのなら、大いに結構なことである。

    伝統的な日本の宗教には檀家制度というのがあって、家代々がある宗派に属しているので、お寺を中心とした団体が保たれている。

    しかし、新しく宗教団体を作ろうとすれば信者を集めなければならない。

    問題はどういう目的で宗教団体を作って、どう信者を獲得するかだ。

    社会のため、人々のため教義を説く、その教義に感銘を受けた人たちが信者となる。

    これが、宗教本来のあり方だと思うが、動機が金儲けなど不純であると、問題が出てくる。

     

    自主的に教育研究会を立ち上げるのはいい。

    でもそれはあくまで「教育」の「研究会」で、指導法などについて話し合うことが中心でありたい。

    もちろん、雑談することで、元気が回復して明日の活力になればとてもいいことだ。

    しかし、その会の会員を増やすことが中心になってしまうとしたら、目的は何だろう。

     

    実際、私が知っている会は「勢力拡大」をねらっている。

    かなり強いリーダーがいて、言葉も巧みなのでそれにつられて会員も引っぱられるという具合だ。

    あまり詳しくいうことは差し支えるので、やや曖昧な表現になってしまうが、やたらとリーダーの名前が目立つので、何だろうと思ったら、早い話がリーダーの売名である。

    やたらと、理屈をつけて呑み会が多い。たいていはリーダーのおごりなので、ついていく人も多い。

    リーダーの自宅で宴会をやったこともある。

    酒が回った時「ところで、お前の後継ぎはどうするんだ」と言ったら「オレが死んだあとのことはどうでもいい」と言った。

    酒の席の話とは言え、本心を垣間見た思いだった。

     

    世の中には、この人についていたら得だと考えて集まっている人も多い。

    彼はそのたぐいのボスである。

    こういうボスのもとでは、ボスは絶対君主である。

    これは、ちょうど教祖様がいて、取り巻きやその他大勢は勢力拡大をねらっているので、この図は新興宗教とほとんど変わらない。

    表向きは教育推進とか文化振興といっても、宗教と変わらない。

     

    私は新興宗教も何何の会も反対ではないが、動機が不純なのはいただけない。

    出版も読んでもらうことより、何部売れたかが目標であればいただけない。

    勢力がそこそこ拡大すると、ゴマスリで買う人もいる。

    もっとひどくなると、一人何部というノルマが課されることもある。

    そうした本がBOOKOFFにずらりと並んでいることもある。

    教師たるもの、不純なものに巻き込まれ、子どもを裏切ってはいけない。

    くだらない本のセールスマンになってはいけない。


  5. セールスマンのような教師

    4月 25, 2015 by dolce

    昔の話だが、某小学校の研究発表会に参加した時、児童たちが目の前で素晴らしい活動を見せてくれて感動したことがあった。

    研究発表会と言えば、発表の日に備えていろいろな準備をする。

    中にはシナリオが作ってあって、授業はそれに従っておこなうので、まるで芝居をやっているのと変わりないものがあると聞いたことがある。

    私はそのような授業を見たことがないが、音楽の授業では、シナリオ作りは難しい。

    なぜなら、本当に実力がついていなければ実演できないからだ。

    発表会に備えて練習をして、その結果を発表するということはできる。

    そうすると、それは音楽の研究発表というより音楽会である。

    しかし、私が参加した研究発表は児童が目の前で、与えられた素材をもとに即興曲を作ってしまうというものだったから、ちょっとやそっとでは力がつくものではない。

    そういうと、それ自体がシナリオだろうという人がいるかも知れない。

    だが、素材は前もって用意されたものではなく、その場で与えられたものだから、本当に即席であった。

    それに、一応音楽の指導に携わっているような人だったら、発表のための芝居かどうかは見抜けるだろう。

    発表は2日間にわたって行われたが、児童たちの発表を見たり聞いたりした参加者は、驚いたり感動した。

    その空気は十分に伝わってきた。

     

    すばらしい発表を見たり聞いたりした教師たちが、次に考えたことは「一体どんな指導をしたのだろう」ということだ。

    結果を見て、指導法に関心を持ったわけだ。

    これは、当然と言えば当然だろう。


    ところが、教育に関するある講演会は、教育推進というには違和感があった。

    違和感とは、学校教育は当然子どもが主体であるから、発表も子どもが中心になる。

    発表に子どもが参加していなくても、発表者の話を聞いていれば、子どもの姿が想像されるというか浮かんでくるのである。

    ところが、私が違和感を感じた講演会というのは、全くというほど子どもの姿が見えてこなかった。

    一番印象に残ったのは、結局、講演をしている講師の本の売り込みであった。

    直接、この本を買ってくださいとは言わなかったが、どうしたら自分の指導方法が普及するのかという方向に話が及んだのである。

    講演を聞いている人たちは、当然、その方向に賛同しているとの前提の話になってしまった。

    これは教育推進ではなく、たとえば、保険会社が保険の勧誘員を集めて「どうしたら保険が売れるのか」という講習のようなものだ。

    結局「売れればよい」という話で、子どもの話は全く出てこない教育講演会であった。

    こういうのは、客観的に見ればおかしいのだが、当の本人及び好意的な参加者たちは、そのおかしなことに頭が埋没してしまっているので、変だと気がつかないのだろう。

     

    本来は、はじめに紹介した音楽研究発表会のように、素晴らしい成果を見て、どのようにしたらできるのだろうという指導法に関心を持つものだと思うのだ。

    「子どものために」と口に出すくせに、いっこうに子どもの姿が見えないのは、意図が別にあるのだろう。

    まるで、セールスマンの講習のような教育講演会という、名ばかりの催しものには注意が必要と思った次第である。


  6. 内助の功

    4月 24, 2015 by dolce

    画家、アンリ・ルソーは有名な画家だが、生前は絵が売れないために生活は困窮していたという。

    そんな彼と結婚した妻クレマンスは刺繍の内職をして、生活を支えていたという。

    売れない絵ばっかり描いているルソーに苦情も言わず、献身的だった彼女は37才で亡くなってしまうが、過労がたたってのことではないかと思う。

    確か、肺結核だったと書かれていたような気がする。

    一風変わった絵を描くルソーの絵は嘲笑のまとで、当時の新聞評でも稚拙などと書かれていたという。

    収入がないので、画材商にカンバス代が払えなかったそうだ。

    代金の請求代として、絵との交換にしたそうだが、画材商は引き取った絵の絵の具を洗い流し、画材として売り出したそうである。

    後になってルソーは歴史的画家として名を為すが、彼の名前こそ絵画史に出てくるが、妻クレマンスの名前が出ることはない。

    しかし、生活の中、ルソーを陰で支えた妻クレマンスあってこそ彼の名前が残ったと思うのである。

    今で言う、内助の功である。クレマンスのことを思うと、涙が出そうになる。

     


    内助の功とは、ふつう、陰ながら援助する妻のはたらきの功績を言うが、視野を広げてみれば、何事も名を成す人の陰には多くの人の支えがあることに気づく。

    だから、ヒーローは功績を讃えられても、陰の人のことを忘れず「僕一人の力ではないです」と言う。

    この恩を忘れない態度に「さすが(真のヒーロー)」と思うのだが、珍しいことに「このようによい結果があったのは、私の功績があったからです」という人がいた。

    私にしては驚きの発言だったが、当の本人はまじめにそう思っているらしい。

    それにしても「私の功績があったから」と言えば他人はそう思うだろうか?

     

    「自分一人で大きくなったように言って」とは子どもがしばしば大人(親)から言われることだが、大人になるということは、自分一人で大きくなったのではないと自覚することではないかと思う。

    大勢の人の内助の功に支えられてきたことを知ることだろう。

    外見は大人でも、中身が伴わないのは、自分一人では生きられないことがわからない人だ。


  7. 人気がないから価値がないとは限らない

    4月 22, 2015 by dolce

    ゴッホの絵は価格としては最高ランクに属するものだ。1987年には日本の企業が、「向日葵(ひまわり)」をオークションで53億円で落札した。

    しかし、彼の存命中には1枚しか売れなかったと言われているが、現在ゴッホの絵には価値がないと言う人は珍しいだろう。

    特に絵画などの芸術には、制作者の存命中に価値を見出されたことのないものが多い。

    それは、本当に価値を見出だせる人が少ないからだと言える。

    ずっと後に、誰かが素晴らしいと言い出して、評価の後を追う。

    ストラヴィンスキーの舞踊音楽「春の祭典」も初演では非難轟々で、ホールに警官隊が入って客を鎮めた話は歴史的に有名である。

    これをきっかけに、ストラヴィンスキーは生活苦に陥ったが、それをココ・シャネルが支援した話も有名である。

     

    こういう話を私がするのは、物知り自慢をしたいからではない。

    本物の価値を見出すことがいかに難しいかということは、人を導く役割の教師はよく知らなければならないということである。

    教師たるもの、大衆が騒ぎ出してから後を追うようでは情けないと言いたいのである。

    プロ教師と自負するなら、人気に関係なく「いいものはいい」と価値を見出す力量が欲しいと思うのである。

    幼い時に教師に才能を見出され、大成したという人はたくさんいる。

     

    よく「若い教師は・・・」という発言をする人がいる。

    これは「お前ら若い教師とは、オレは違う」と言う伏線があるのだろうか?

    だとしたら、若い教師と自分は何が(自慢するほど)違うのだろう?

    それは、子どもの非凡な才能を見つけられるということこそ、ベテランの偉さではないかと思うのである。

     

    私はクラシック音楽をよく聴くのだが、困ることの一つに廃盤があることだ。

    クラシックは音楽のジャンルの中でフアンが少ない。

    その中でも特に少ないのは室内楽分野。

    室内楽は著名な作曲家が晩年になって、人生も熟年の境地に立って作曲したものが多い。

    zelenkaつまり、芸術的価値が高いものが多いということだ。

    それだけに、理解できる人も少ない。

    そういう背景のもとで、発売するということは、レコード会社にしては採算のリスクが大きいというか、赤字覚悟での発売も多い。

    いつまでも赤字を続けられるわけでもないので、廃盤となるわけである。

     

    ゼレンカという作曲家を知っている人はどのくらいいるのだろう?

    ゼレンカを知らないという人でも、バッハは知っているだろう。

    ヤン・ディスマス・ゼレンカ(Jan Dismas Zelenka, 1679年10月16日 – 1745年12月23日)は、ボヘミア(現在のチェコ)に生まれ、ザクセン選帝侯国のドレスデンで没した作曲家である。

    ザクセン選帝侯国の宮廷都市ドレスデンのカトリック教会作曲家として活動し、実質的な副楽長として宗教音楽を多数作曲した。器楽曲では6つのトリオ・ソナタがよく演奏される。当時ライプツィヒの聖トーマス教会の作曲家であったヨハン・ゼバスティアン・バッハとは個人的に面識があり、バッハが彼を高く評価したことが知られている。

    作品の多くは第二次世界大戦中に失われたが、残されたものが再発見され、20世紀中葉以降になって高く評価されている作曲家の一人である。
    フリー百科事典「ウィキペディア」より

    私はこのCDをプロヂューサー(録音エンジニア)から頂いたのだが、その折にお話を聞いたところ、クラシックのCDは1000枚売れたらベストセラーと言われた。

    このCDの場合、定価は4500円だが果たしてどのくらい売れただろう。

    とても1000枚に達するとは思われない。

    仮に1000枚売れたとしても、売上は450万円である。

    演奏者にギャラを払い、デザインを・・・と考えていくととても採算に合ったものではない。

    時には、著名な演奏家になると、一人で1000万円のギャラを持っていく人もいるという。

    赤字もいいところだが、そんなにしてまでなぜCDを発売するのだろうと思う人もいるだろう。

     

    赤字でもCDを作成して販売するのは、プロヂューサーや会社が芸術的価値を認めているからだ。

    商売というより文化事業と言った方がいい。

    このCDではないが、私が部活動であるクラシックのCDを生徒たちに紹介したら、一挙に50枚ぐらい売れたことがあった。

    その話をしたら、プロヂューサーは大変喜んでくれた。

     

    ところが、中高の部活動で全国大会に出たと言うと、記念のCDを作ったりすることがある。

    親は嬉しいので、親戚知人に配る分も買う。するとたちまち何千枚と売れる。

    じゃあ、これはベストセラーか?

    カラヤン/ベルリンフィルのCDよりたくさん売れたから、それより価値が高いのかというと、もちろんそうではない。

     

    芸術的に価値の高いものは、それだけ理解できる人も少ないと言える。

    しかし、多くの人はコンクールで優勝とかしたりして話題になると、自分では価値判断ができなくても、素晴らしいのだという判断をする。

     

    つまり、多くの人は大衆に迎合しているだけで、自分自身の価値判断を持たない(持てない)。

    私はそういう現象に対してどうのこうの言うつもりはないが、少なくとも教師はそうではいけないと思う。

     

    教師は人気や噂に惑わされず、自分自身で演奏の価値判断をできるようにすべきだと思うのである。

    もちろん、絵画などの芸術でも同じである。

    たまたま、本日はNHK-BSで「シリーズ巨匠たちの肖像 ルソー 奇跡の素人」を放送していた。

    ルソーの絵は、当時バカにされていて、ほとんど売れなかったそうだが、それでも早くから彼の絵の価値を認めていたのがピカソで、ピカソは彼の絵を買ったそうである。

     

    ピカソほどの力はなくても、教師は本物の価値を知る力を持ちたいものである。


  8. 日曜日が嫌いな人

    4月 21, 2015 by dolce

    「私、日曜日、嫌いです]

    これに対して「私も」という人はどれくらいいるのだろうか?

    ずいぶん昔の話だが、今はどうだろう?

    日曜が嫌いな理由は、やることがないからだそうだ。

    私は自分の時間が多い人生がいいと思っている。

    そういう私としては、やることがないから日曜が嫌いという気持ちがわからない。

    程度の差はあっても、とにかく命令されなければ動けないという人がいるかも知れない。

     

    しかし、不思議に思うのは、子どもは非常に能動的で、親が買い物に連れて行った場合、店にあるものが珍しいのか、すぐに触ろうとして叱られたりする。

    それが、大人になるにつれ、そういう気持ちが何のせいで減退するのか、命令されないと動かなくなる。

    そして、どうみても自己の責任だと思うことでも、うまく行かないことはみな他人のせいとばかりに、責任転嫁する。

    親になると、自分の子どもが受験に失敗したのは先生のせいだと言い出す者もいる。

    学校コンプレックスである。

     

    学校コンプレックスで学校を否定するのはみっともない。

    物理や数学になると、ここで習うことが何のためになるのかという者がいるが、それは本人が勉強しなかったせいか、理解できなかったために、否定しただけで、残念ながら微分や積分は大いに役立つ。

     

    もし、そんなにも学校を否定したいのなら、学校へ行かないという選択もできる

    このことは、かつてブログに書いた。学校へ行かなくても、義務教育に反することはない。

     

    学校は文字が読めるように教えてくれたり、計算ができるように指導してくれる。高校では微分積分も教えてくれる。

    その教えてもらったことを利用して、自由に自分の生活に応用することまでも教えてはくれない。

     

    学校はとかく避難の的にさらされやすい立場にあるが、一部の例外的な先生を除いて、まともに指導をしていると思う。

    その証拠に、世界的に見て、日本人の識字率は高い。

    世の中の進歩とともに、覚えることは増えるはずだが、教科書はかなり精選されている。

    もちろん、批判にさらされる余地はあると思うが、あの薄い教科書によくまとめたものだと思う。

     

    私は、そういう学校の教科書をもらったり、オークションで買ったりして自分の生活に役立てている。

    そう、教科書はとても役立つものなのである。

    学習研究社のエリア教科事典は教科別に小学校から高等学校まで、教科別に学校の学習内容をまとめたようになっていて、学習の系統がわかりやすく、非常に便利である。

     

    一番嫌だと思っているのは、学問と受験勉強を混同している人がいることである。

    本来の学問を忘れて、勉強といえば受験しか頭にない人は、学習塾か予備校の先生になった方がいいのではと思う。

     

    もうひとつ、変というか情けないと思うのは、中学校から中間テストや期末テストが始まり序列化されるせいで、ひどくコンプレックスを持つ者が出てくることである。

    このコンプレックスを植え付けられた者は、学校を否定する。

    だから、時々、中学校の教室の窓ガラスが多量に割られる事件が起こるのではないかと思う。


    事件を起こさないまでも、卒業後も学校を否定する。

    学校が必要であるかないかと言えば必要である。

     

    ある中年女性は、家電店でパソコンを買った。

    買ったのはいいのだが、入っているワードやエクセルの使い方も、家電店が教えてくれるものと思っていた。

    それも、価格の内と考えていたのだ。

    自動車を買ったら、販売店が運転の仕方まで教えてくれる者と思っていいるようなものだ。

    世の中には、このような勘違い人がいるが、この類の人が「日曜は嫌いの考えの人」に似ているような気がする。

     

    あまりにも手とり足取りしなければ、何もできないようであれば、ロボットに仕事を奪われるだろう。


  9. 教員の社会常識

    4月 20, 2015 by dolce

    教員に社会常識がないと言うつもりはない。

    そういう話ではなく、教員だからこそ社会常識は並以上に持っているという、良い意味でのプライドを持っていなければならない。

    「さすが先生」と感じさせるような社会常識が必要だ。

    そのさすがの先生も、時には間違うことがある。

    いや、人は間違うことがあるのだ。

    大切なのは、間違ったことが訂正されるという環境が必要なのだ。

    エラクなってしまうと「先生、それ間違っています」と言ってくれる人がいなくなることに注意したい。

     

    たとえば、文部科学省が中央教育審議会(中教審)に、教育改革について何かを諮問した時、中教審は検討して答申を出す。

    答申というのは、平たく言えば、意見を聞かれたことに対して答えるということである。

    決定ではない。

    国の政治を変える権限を持っているわけではないからだ。

    高等教育について中教審の答申があり、それが教育政策の変更に反映するかどうかはわからないのだ。

    だから、答申について国民がいろいろな意見を持って、中には中教審の答申について実施しないことはあり得るし、不自然なこととは言えない。

    中教審が教育について理想的な意見を出しても、予算など環境が整わないので、実施されないことはあるのだ。

    それを、中教審が答申を出したからと言って、教育政策が変わると考えるのは、社会常識に欠けている。


  10. 聞こえども聴き取れない

    4月 20, 2015 by dolce

    授業の「観察記録」というものがある。

    観察は五感を使ってするものだが、特に視覚、聴覚を使っての観察は大きな比重を占める。

    教育について、斎藤喜博氏は「教師は実践者でなければならない」と言っていた。

    つまらない理屈を並べ立てて、学者気取りでいるのは、教師としては最も恥ずかしいことである。

    しかし、実践は大切だが、実践だけしておればいいというものでもない。

    指揮者は100人のオーケストラのメンバーが、どんな音を出しているか聞き取っている。

    もちろん、誰がどういう音を出しているかわかっている。

    耳だけでなく、目も使っている。

    具体的には、楽譜通り音が出ているかすべての楽器について聴きとっている。

    score_m

    教師にもこういった感覚や技能が必要である。

    そういう力がなければ、いくら実践をしても空回りである。

    だから、児童・生徒を漫然と観察するのではなく、児童・生徒の発している情報を受けとることが大切である。

    指揮者が100人全員を掌握しているように、教師も40人を一人一人掌握していなければならない。

    そういうことが出来てこそ、教師は専門家と言われるのだと思う。

    教師が専門家としてふさわしい活動をしておれば、それに付随して「一人も見捨てない」状態になると言える。

    「一人も見捨てない」は全員をもれなく掌握し、全員に心を配ることができることが第一歩と考える。

    児童・生徒側から見たら「先生は、僕(私)をいつも見ていてくれる。気にかけていてくれる」という気持ちにさせなければならない。

    目や耳が不自由でない限り、映像や音声は入ってきているが、観察力(情報収集能力)がなければ、進歩はないだろう。