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3月, 2015

  1. 昨日は入学式でした

    3月 31, 2015 by dolce

    放送大学大学院の入学式でした。正式には「入学者の集い」と表示されていました。

    学生は年配者が多かったです。

    でも、みな元気で若々しい。

    向学心に燃えているのは、若さを保つ秘訣かもしれません。

    式には先生方の挨拶がありました。

    大学院の先生というと、マイペースで話下手というイメージを持っていましたが、みな短い時間に専門科目の魅力をうまくまとめて話されていました。

    私が無知だったと思いますが、ゴキブリがシーラカンスと同じ時代から姿を変えることなく生き続けていることに驚きました。

    最近は動物の保護法の関係で、犬も実験に使いにくいそうです。

    それで昆虫を使うことが多くなったそうですが、人体実験の代わりに昆虫を使うことで、ほとんど差し支えないとのこと。

    唯一の違いは背骨がないことだそうです。

    ゴキブリを叩き潰しても文句を言う人はいないから安心とのこと。

    式が終わってからは、希望者には個別相談があったので、単位の取り方、試験に必要な英語のレベルなどについて聞いてきました。

    これはいいと思ったのは、発行された学生証で休館日以外は、学習センターという場所を使えることです。

    大学と併設されているような恰好なので、ほとんど大学にいくようなもの。

    問題は自己管理で、ゆとりの時間が多い学生のようなものだから、提出物期限間際になって慌てることのないように注意することです。

    普通の大学が、とにかく通学すれば単位がもらえるような感覚と考えると、テキスト、レポート、認定試験は密度が濃く、普通の大学より難しいかもしれません。

    若いころ勉強しなかった分、取り返すつもりでやろうと思っています。


  2. Windowsをめぐる厄介な問題

    3月 29, 2015 by dolce

    パソコンのOSがWindowsになって久しい。

    こう言うと、パソコンとはWindowsのことではないかと言うひとがいるかもしれない。

    そういう世代の人ならなおさらだが、パソコンを立ち上げて見えてくるWindowsの画面は、パソコンそのだと思っているののかも知れない。

    目的のものが画面上にある。そして、マウスでの操作はもう実物そのものを動かしているという感覚かもしれない。

    それほど、パソコンを身近にしたのはWindowsの功績と言えるのかもしれない。

    しかし、その反面パソコンは簡単だ思ってしまったがための問題が起こるようになった。

    Windowsが登場する前のDOSの時代では、真っ黒な画面上で、パソコンの操作はもっぱら命令語(コマンド)をキーボードからタイプするしかなかった。

    だから、パソコンの操作はまず命令語を覚えることから始まった。

    これは、一般の人には苦痛なことだった。

    だが、それはパソコンというものの構造を認識させるためには、大いに役立っていたと言える。

    ともあれ、Windowsのおかげで誰でも容易に操作できるようになったおかげで、平たく言えば、我流操作がたくさん普及するようになったと思う。

    何を生意気なという人がいるかもしれないが、多くの人は機械の操作に携わる時、表面上何も問題がなければ「なにごともない」「何も問題はない」と認識し操作を続けるようだ。

    本日、高速道路を走っていると、傍らの退避エリアに車を止めて救援を待っている人がいた。

    故障らしい。

    正確な情報はわからないが、車が突然故障するという確率は小さい。

    しかし、昔からそうだが「人は車が止まってしまうまで、何も問題はないと認識し、運転を続ける」のだ。

    もちろん、すべての人がそうだというわけではない。

    多くの人たちは定期点検を実施し、車を運転しているだろう。

    定期点検を行っていれば、問題を未然に防ぐ確率も圧倒的に高くなる。

    同じような状況は、今、Windowsに起こっているような気がする。

    Windowsも日頃から内部状況や、仕組みを知って使っておれば大事に至らないのだが、どうしようもなくなってから救援を頼まれると、回復は大変厄介なものになる。

    特に問題なのは、個人が作ったワープロや大切な写真などのデータを一旦別な場所に退避させなければならない時である。

    「バックアップをとっておいてください」

    この言葉すら通じない人もいるので、結局、使用していた当人と話し合いながら、まずデータのバックアップということになる。

    それで、無事バックアップできたと思いきや、パソコンが無事復旧した時「あ、あのデータがない」という言葉を聞くと一気に疲れが出るのである。


  3. 勉強が元気の源~ただし、正しい勉強を

    3月 28, 2015 by dolce

    老人ホームでのお年寄りたちは、毎日どのように過ごしているのだろうか?

    老人ホームではお年寄りを元気づけるために、様々な取り組みを行ったところ、ゲームや催し物のように、一般に楽しむものより、学校でやるような、先生を前にして講義形式で勉強をすることが一番効果があったという報告があった。

    この話を聞くと、人間は勉強好きであり、勉強は一生であるということに気づかせられる。

    そんな話をすると、いや、勉強が好きな人などいないと言う人は、きっと勉強に懲りてしまったという経験があるのではないかと思う。

    自分のことで恐縮だが、私は受験勉強に巻き込まれなかったから、勉強嫌いにならなかったのではないかと思う。

    ピアノの演奏を聴いて「あんな風にショパンが弾けたらなあ」と思う人もいれば、ピアノに懲りて見向きもしなくなった人もいる。

    音楽だって、取り組み方によって嫌いにもなるのだ。

    ある小学校はかつて、器楽合奏ではほとんど毎年、コンクールで全国一であった。

    私はその指導者に会ったことがある。

    徹底して指導するというその先生は、音楽コンクールだけでなく、参加する協議会では必ず一位にすると言われていた。

    そんな子どもたちが中学校へ行けば、吹奏楽部はきっと良くなるだろうと私は思っていた。

    ところが、顧問に聴いてみると、毎年入部する者は二、三人だと言っていた。

    理由は練習に懲りてしまっているということだった。

    練習が過ぎて懲りてしまうというのは何かが間違っていると思う。

    私が尊敬する音楽家で、ナタン・ミルシテイン(故人)というヴァイオリニストがいる。

    89歳で亡くなった彼の評は

    傑出した超絶技巧の持ち主ではあったが、それを前面に押し出す演奏には消極的だった。むしろイザイを通じて身につけた、歌心と美音を尊重するフランコ・ベ ルギー楽派の優美な演奏スタイルが際立っている。そのためしばしばミルシテインは、「ヴァイオリンの貴公子」と称される。

    と書かれている。(フリー百科事典「ウィキペディア」)

    押しも押されぬ演奏家になってからも、勉強に励み当時有名なイザイのもとに行き教えを受けに行ったところ「君には何も教えることがない」と言われたそうだ。

    彼の生き方は演奏そのものにも出ているような気がするが、89歳まで勉強を続けたということが、元気を保っていた源ではないかと思う。

    これ見よがしに「オレオレ」を出さない、嫌みのない演奏も尊敬に値する。


  4. なぜ独善的になるのか

    3月 26, 2015 by dolce

    大学や大学院の学歴を持つ人が、時に幼稚な意見や発想するのかを不思議に思う。

    具体的には「放射能は燃やせばなくなる」と考えている人。

    「年を取ると細胞分裂が止まる」と考えている人。

    これらは独善の典型である。

    他にもあるが、個人が特定される懸念を感じて伏せておく。

    小学生レベルとも思える発言を聞くと、進学とはいったい何かと思ってしまう。

    ビルを建設するには、まず地下の岩盤にパイルを打ち、その上に基礎を作る。

    つまり、高層ビルは下の階が上の階を支えるための十分な強度を持っていなければならない。

    学歴は高層ビルと同じく、初等教育はより上の教育システムを支えるものであるはずである。

    技能を伴うものは上位のレベルにあるものが、下位に劣るということはない。

    いずれにせよ、学歴が必ずしも実力の証明ではないという現象が見られることは、学校制度に何らかの問題があるのではないかと思うようになった。


  5. 放送大学大学院へ入学しました

    3月 25, 2015 by dolce

    こういう記事を書くと、どこかここかアラを探して否定的な意見を言う人もいるような気がします。

    それはそれで、何を言うのかおもしろいと思っているところです。

    おもしろいと言えば、あれこれ言う人の中には全然面識のない人のことが何でもわかってしまう人がいるようです。

    それだけではない。過去はおろか未来までわかってしまうという、どう見ても超能力者としか思えない人もいます。

    先日、NHKで未解決事件を取り扱った放送がありましたが、こういう時こそ超能力者は協力すべきだと思います。

    前座が長くなりました。

    放送大学大学院については、以前からBSで見ていました。

    講座の中身が濃く魅力的と感じました。

    それで、4月からのの募集に合せて出願しました。

    本日テキストが送られてきました。

    通信教育というのは、一人孤独になって勉強するものかと思いましたら、スクーリングがあり学習センターでの指導があり、仲間との交流があり、楽しそうな気がしてきました。

    会社に勤務しながら、専門の仕事に役立てるためという人もいます。

    私がこういう機会を利用して勉強したいと思ったのは、ひとことで言えば、ひとりよがりな考えを人前で披露したくないと思ったからです。

    しばしば、独自の考えを述べて、まるで新興宗教の教祖みたいになっている人がいるということは、これまでもしばしば述べてきました。

    その意味ではこれも「ああなりたくない」の一つと言えます。

    私は音には関心があり、それで音楽やオーディオに携わっているというところがあります。

    送られてきたテキストは、音楽・情報・脳という題で、さっそくざっと読んでみました。

    すると、以前、超高音を再生できるようにすると、音が変わるということを実感したと、ある掲示板に書いたらまるで相手にされず、何か変な理屈で一蹴されましたが、このテキストを読んでみると、ピアノは人間の広域の可聴周波数範囲の20KHzまでに音域がカバーされているが、チェンバロでは50KHzぐらいまで伸びていて、ガムラン音楽に至っては100KHzまで伸びていると、実験データ付きで解説してありました。

    でも、20KHzまでしか聞こえないのであれば、それ以上の高域は必要ないとの考えも可能ですが、実は20KHzを超える超高域では脳にα波が発生して、心地よさをもたらすとありました。

    自宅へ訪問される人のほとんどは、この超高域再生の効果を感じています。

    そして「あれ、これは何ですか?全然鳴っていないですね」と言います。

    鳴っていないというスピーカーが、超高域を再生するスーパートゥイーターです。

    PANASONICの作ったTechnics製品で高域の再生限界が150KHzです。

    放送大学は講義が進んだところで、レポートの提出があります。

    このレポートが合格しないと、認定試験が受けられません。

    何しろ私は横着な性格なので、この際、まとめて一夜漬けなんてことにならないようにと心がけています。


  6. 自分で自分を褒める

    3月 24, 2015 by dolce

    知人に、自分のことを自分で褒める者がいる。

    実はこれも見ていて嫌なものの一つ。

    誰も褒めてくれないから、じれったくなって自分で褒めるのだろうか?

    「僕、女によくもててねえ」

    冗談で言っているのかと思ったら、本人は至ってまじめである。

    そう言ったから、聞いた人はそのように思うだろうか?

    少なくとも、私はそう思わないどころか、ずいぶん低レベルの人間と思ってしまう。

    恥ずかしくないのだろうかとも思う。

    自分で自分を褒めるというのは、自分で自分を褒めるというのも、同じようなもの。

    そういう言葉を聞くと逆に「大したことないのだ」と思ってしまう。


  7. 他人はみな先生~なりたくない人(5)

    3月 22, 2015 by dolce

    先日の国会では、片山虎之助氏が地方創生について質問に立ちました。

    彼の話は理路整然としていて説得力があります。

    客観的な資料も揃えて話をするので説得力があります。

    誰かのように必要な根拠は、自分の勝手な妄想に置き換えるのとは違います。

    もちろん、国会議員にはいろいろな権限があり、調査するための費用も与えられています。

    彼の切り出しです。

    「・・・ああせい、こうせい、そうせい(創生)と政府はちいと上から目線ではないですか?」

    緊張で静まり返っている中で「そうせい」と言ったものですからドッと笑いが出ました。

    「地方創生担当大臣、石破茂君」議長が言いました。

    「決して上から目線なんてことはございません・・・・」

    と話は続きました。

    ■上から目線の人

    片山氏が言ったように、私も上から目線の人は気になります。

    やはり格好のいいものではないと思うので、私も上から目線と人に感じさせないようにと気をつけることにしました。

    ところで、上から目線の人はいつからそうなのでしょう?

    子どもの頃から?

    大人になってから?

    いずれにしても、上から目線でモノを言うのは偉そうに聞こえます。

    少なくとも私にはそうに聞こえます。

    「やあ、お前ら・・・」

    と運動場で生徒たちを呼んでいる先生がいました。

    たとえ、相手が生徒であっても、こういうのは好きではありません。

    まさに「人の振り見て我が振り直せ」です。

    もちろん、これは私がこう生きたいということを語っているものです。


  8. 他人はみな先生~なりたくない人(4)

    3月 22, 2015 by dolce

    今回も、他人の生き方に干渉するのではなく、他人の生き方を見て、自分はそうなりたくないという視点での投稿です。

    ■文脈が読めない人

    文脈が読めない人というのは、文章が読めない人、すなわち読解力のない人ということになる。
    もちろん私の解釈である。

    文脈が読めない人というのは、文章全体から何を言おうとしているのかが読み取れず、単語に反応する人である。

    例えば、たびたび例に出すのだが、貧困率の問題。

    私が「貧困率が高い」という話題を出したら、興奮して「貧困とは何だ!」と抗議してきた者がいた。

    抗議した彼氏は「貧困」の言葉に異常に反応したのだ。

    あたかも、自分が貧困と言われたかのようだった。

    「なぜガタがくるんだろうと思って、調べたらネジ山が減っていて、ネジがバカになっていたんですよ」

    という文があると「バカ」という単語だけに強く反応するようなもの。

    気になった単語だけに反応して、そこから元の文章とは関係ない妄想に発展し、支離滅裂になっている。

    こういう人が会議の中に一人だけでも存在し、話を引っ掻き回すと会議が全く意味をなさなくなる。

    こういう破壊的な人にはなりたくないと思います。

    そう言えば、最近の国会中継でありました。

    ある野党の議員が質問していました。

    与党の回答が不十分という場面はよくありますが、先日の野党の追求は明らかに論理がおかしかった。

    きちんと答えているのに、答えになっていないという。

    ついに議長が「議論を先に進めたらどうですか」と言い出した。

    議長も嫌気がさしてきたようだった。めずらしいケースであった。

    ■文脈が読めない人は作文もおかしいようだ

    ダラダラと文が長いだけで、結局何を言いたいのかわからない文章がある。

    図に表せば次のような感じだ。

    文章の山文章は普通、何を言いたいのかということがはっきりしていて、それを印象深くしたり際立たせるように書くものだと思う。

    そういう表現方法も一つとして、起承転結があると言うことはかつてブログに書いた。

    起承転結を意識して書くと、他人にもわかりやすい。

    ところが、グダグダと愚痴の連続のような文章がある。

    (実際、このような本も売られていて、ページ数だけは一人前だが、何を主張したいのかがわからにないものもある。
    結局「本を出版したい」ということだけに興味があって、内容には関心がないのではないかと思ってしまう。)

    主張したところに向かって焦点化していくものがなく、途中で関係ない方に脱線し、脱線から方向が迷路のように変わるのはまるで分裂状態を見ているようなものだ。

    文脈が読めないのと、作文ができないのは相関があるような気がする。

    自分がそんな文を書かないよう、推敲をしっかりしようと思うが、幸い読者と会うこともあるので、感想を忌憚なく言ってもらうことにしている。


  9. 他人はみな先生~なりたくない人(3)

    3月 20, 2015 by dolce

    歳を取るにつれ加齢臭が問題になると言います。

    華麗臭ならいいですが、不愉快な臭いなので困るわけです。

    さらに、自分の臭いは自分にはわからない。

    だから臭いは自分の知らないうちについてくると言えます。

    加齢臭のような体臭は身体の清潔さや、環境を整備することで防げます。

    でも、私が問題にしたいのは、性格からくるにおいです。

    「感じのいい人」とか「いやな感じの人」など、その人がいることで周りの人に与える雰囲気というか空気のようなものです。

    赤ちゃんを見ると、人は「かわいい」と言います。感じ悪いと言う人は少ないのではと思います。

    しかし、それが年を経るうちに人に与える感じ、性格のにおいというようなものがついてきます。

    においは、良いにおいは「匂い」と書き、悪いにおいは「臭い」と書くようです。

    良くないにおいは嫌な習慣の積み重ねからくるのではないでしょうか?

    本日は「あのようにはなりたくないな」と思った人のうち、よくない臭いのもとになるのではと思うものの例を挙げてみます。

     ■スケールの小さな人

    ある人が、人の行いについて「~と~とは比例(正比例)関係にある」と言いましたので、私は何の相関関係もないそのことがらについて、それは比例ではないと言いました。

    そして、比例関係にあるなら比例定数があって、例えば次のようにオームの法則のようなものですと言って式を示しました。

    E=R・I       E:電圧(V)  R:抵抗(Ω)  I:電流(A)

    すると、相手は「電圧はEとは書かないVと書く」と言いました。

    私はどちらでもいいのですよと言いました。

    何なら書きなおしましょうか?

    と言っても教科書はVと書いてあるから・・・とこだわっているのです。

    「比例ではない」

    と言われたことがよほど気に入らなかったのか、いつまでも自己流の理屈をつけて、そのあげく「Eを使っている本があったら示せ」と言う始末。

    私がよく読んでいた電気の雑誌はEで表しているので「電波科学」には書かれていますというと「何ページだ」と言ってきました。

    このように、気に入らないと、本題はそっちのけでどうでもいいことに躍起になる人がいます。

    これは一つの例ですが、こういうのは「人間が小さい」「狭い」と感じて、自分はあのようにはなりたくないと思いました。

    まさに「他人は先生」です。

    よくない先生に会って勉強になります。

    心の小さい人の中にはやっかみの強い人もいます。

    「誰に会ってきたんだ?」

    話したくない気分でしたが

    「ライスターです」

    と言うと「ムッ」としました。

    やっぱり言わなきゃよかったと思いました。

    「こっちは○○だ」

    と有名人の名前を出してきました。

    嫌だ嫌だという気持ちになりました。

    だから、だんだん目立たないように気をつけて活動するようになりました。

    自分は「変な競争心」を抱かないようにします。


  10. 他人はみな先生~なりたくない人(2)

    3月 19, 2015 by dolce

    「人のふり見て我が振り直せ」と言うように、他人の姿を見て嫌だ、みっともないと感じることを自分はしないということ。

    これは、自分が人生をどう生きるかという指針であり、他人に指図をするものではない。

    特別に懇意でもない間柄で人の生き方をどうこういうのは、国で言えば内政干渉のようなものだ。

    ■やっかみや嫉妬で人を悪く言う人

    これは嫌な感じがする。だから、自分は決してしないと心がけた。

    やっかみも嫉妬も人を羨ましく思う心で、似たようなニュアンスだが、やっかみ、嫉妬そのものを否定しているわけではない。

    やっかみや嫉妬の感情を抱いた時、自分はどういう行動に出るかだ。

    誰かが立派な家を建てた。それを見て「いいなあ」と思うのはむしろ自然な感情と言える。

    問題は、それで自分はどうするかだ。

    「なんだ、あんな家、10年も経てばオンボロだ」とか「どうせ借金だろう。ローンが大変ですね」などは嫌な言葉だ。

    そうではなく「いいですねえ、自分も将来こんな家が経てられるだろうか?」「自分もがんばろう」はうらやましい気持ちを良い方向に向けているわけで、いいものはいいと素直になるのがいいと思う。

    こういう羨ましさは、相手に素直に伝えてもいい。

    ■良い方向に活かす

    湧き上がる感情はどうしようもない。

    問題はそれをどう活かすかである。

    学校は競争をさせて賞を与えて、讃えるということをするが、これは当人を賞賛するというだけでなく、当人以外の者にも羨む感情を抱かせ、より競争心を高めるという効果もある。

    「おかあさん、◯◯ちゃんてね、作文で総理大臣賞もらって、今度アメリカに行くんだよ」

    「そうなの、それはよかったねえ、あなたもそうなるといいねえ」

    「うん、がんばる」

    こういう会話は健全で、人柄が現れている。

    ■「いけない」と「嫌だ」は違う

    前回の記事「他人はみな先生~なりたくない人(1)」も同様だが、私は誰かに何かを要求しているのではない。

    人を見て「ああいうふうに生きたい」とか逆に「ああいう生き方はしたくない」と自分の指針にしているだけである。

    もっと簡単に言えば、他人の服装を見て、あれは自分の好みかどうか判断するようなものである。

    他人の服装について、特別な場合をのぞいて、いけないという人はいないだろう。

    しかしこういう話をすると、時に「頭が変ではないか」と思う人がいる。

    高校生のルーズソックスのブームが去って、もう何年にもなるが、ある日私は高校生に「私はルーズソックスがいいとか、いけないとかは言わないが『私は好きではない』」と言ったら、高校生は「それは偏見だ」と言って怒った。

    「いい悪いを言っているのではなく、私の好みを言っているんだ」と何度説明しても、理解を得られなかった。

    いつも嫌味タラタラの人を見て「自分はああなりたくない」と思うのであって、嫌味人生を自分の生き方として行くのは当人の自由である。

    デリケートな年頃の中高生と接している先生たちには、よくわかるだろうと思う。

    と言うわけで、自分の生きている周りには先生がたくさんいる。