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2月, 2015

  1. しくみが見えにくくなっていることの懸念

    2月 28, 2015 by dolce

    エジソンが蓄音器を発明し、レコードが作られた時代は音の出る仕組みが外からよくわかった。

    その後テープレコーダーが発明され、CDが発明されと再生装置が進化してくると、仕組みは次第に隠れるようになった。

    今やメモリカードが増え、いよいよ見えなくなってきた。

    最近、車を換えナビもつけたが、カセットテープの再生装置はない。
    CDは再生できるが、これは再生のついでにメモリチップに録音してしまうので、次からはCDを挿入する必要がない。

    ガラケーもポケットかカバンに入れて、運転席に座ればナビと連動しハンズフリー電話になる。
    もし、ガラケーを忘れて車に乗れば警告が出る。

    実に便利だが、これが当たり前の感覚になると恐ろしい気もする。

    それは、人間がわがままになるのではと思うのだが、もっと不安を感じるのは、考えなくなるのではということだ。

    テレビが普及しだしたころの、大宅壮一氏の「一億総白痴化」をまた思い出した。

    アナログのレコードが復活のきざしだが、あの円盤をターンテーブルに乗せ、針のついたアームを円盤に乗せるという操作は、溝に刻まれた音声信号を拾って音に変換するという仕組みを自然に想起させる。

    SLもあの姿を見れば、動輪が回って列車を引っ張っていくという仕組みを捉えることができる。

    仕組みが見えることで、無意識のうちに人は学習していると言える。
    それも強制された学習ではない。
    学習としては、理想的なありかたではないかと思う。

    今や、便利な機械類の中核を担っているのはICであり、歴史的にはコンピュータの頭脳であるCPUはLSIからVLSIになり、始めに作られたENIACが真空管を1800本使われ、大きさは一つのビルぐらいで、電力は数百キロWだったものが、今や5mm四方の指先に乗る大きさの中に億単位のトランジスタが凝縮されている。それが小さな電池でも動いてしまうのだから驚異的である。

    真空管アンプを作っていたころは、はんだごてを握り、ケーブルを1本1本配線していて、これも、その作業を通じて自然に仕組みを覚えていった。

    「ICは産業の米」という言葉は「鉄は産業の米」にとって代ってから久しいが、今やICなくては何もできないような社会になってきた。

    ICの中身まで知っている人はそう多くないだろうから、世の中仕組みを知らない人、考えない人が増加し再び総白痴化の再来を懸念する。

    私は古い人間だから、パソコンを使うにもプログラムを作ってからという時代だった。
    職員室では毎日、数人がプログラムの話をするという生活だった。

    というわけで、プログラミングを教えてくれと言う人が多かったが、それがいつしか、ワープロを教えてくれに変わった。
    (そんなことは、自分で本を読んでやれと言いたかった)

    ところで、こんな時代になっても依然として九九を覚える、四則計算を学ぶなどの基礎教育の重要性は変わらないと思うのに、バーコードで数字が読める時代だから、そういう勉強は必要ないとか、理科の学習に実験は必要ないなどの意見を大学の先生が言うのだから、この先は暗いと思わざるを得ない。

    教育のリーダーシップを取らなければいけない人間は、大局的に社会を眺め、教育が誤った道を歩まないようにかじ取りをしなければならないと思うのだが、今の教育系の大学はどうなっているのだろう?

    こんな時代だから、小学生には電卓を持たせて、算数のドリルをやる必要はない、無駄だとは言わないだろうな?


  2. デジタル時代の常識(2)

    2月 26, 2015 by dolce

    自動車運転免許証を取得するためには、運転技能、法律、構造の三つの試験に合格する必要がある。

    構造の知識が必要なのは、自動車の仕組みに危険な要素があるからだ。

    (私は知ったかぶりをするつもりはないが、デジタルの危険性を確認するために、要点を簡単に説明する・・・かえってわかりにくいかも?)

    デジタル時代にどんな危険要素があるのだろうか?

    それは、コンピュータがビット(bit)をもとにして構築されているからであり、1ビットは単なる一個のパルスに過ぎない。

    コンピュータの中核は単純な一個のパルスの連続に過ぎないわけで、数字に置き換えれば「1」しかないわけだ。

    パルスのない瞬間を「0」とすれば「1」と「0」の世界である。

    こういうことは多くの人の知っているところだろうが、それがなぜ危険に結びつくのかというと、ピンとこない人がいるかもしれない。

    11111110011111111011111111011111111110101111111111・・・・・

    と1とoの連続でコンピュータは動いているわけだが、これはデータだけの連続ではなく、命令も含まれているのだ。

    どこがデータで、どこが命令なのかこの連続を見ただけではわからない。
    データと命令の区別は、先頭から4個ずつに区切っていき、例えば「1111」「1110」という風にするわけだ。

    そして、1と0の連続では桁が非常に長くなってしまうので、1個の区切りごとに16進数に変換する。

    1111はF、1110はEと言うことになる。

    (なぜこういうことになるのかは、数学の先生に聞いてください)

    もし、雷が発生してパルス波がコンピュータに入るとそれが1と認識されてしまうことがある。

    そうすると、11111110は本来FEなのだが、ここに1が割り込むため、11111111となって、FFになってしまう。

    命令とデータの区切りはないので、コンピュータの動作はでたらめになる。

    これがコンピュータの暴走である。

    コンピュータは、今や人の命に関わるところで働いている。

    飛行機に乗っている乗客の1人が、ライターでパルスを発生させたら、それがコンピュータを暴走させ、飛行機の操縦不能ということも考えられる。

    現実の飛行機にはそういう対策がしてあるが、誰かが立ち入り禁止のところへ入ってたばこを吸ったらそれがコンピュータの暴走になるかも知れない。

    コンピュータはたった一つのパルス(1)で暴走するというもろさを抱えている。

    だから、大人(先生)はデジタルの基礎を習得していて、子どもたちに常識として教えていかなければならないと思うのだ。

    世の中は危険に満ちている。


  3. 所得格差

    2月 26, 2015 by dolce

    ピケティの本が売れていることで、所得格差に関心を持つ人が増えているのだろうか?

    それはそうと、ピケティの言わんとするところは何だろうか?

    「本質」をうるさく問う人は本質を理解しているのだろうか?

    ピケティの「21世紀の資本」の素晴らしいところは、古い時代からの税金の膨大な資料を丹念に調べて整理したところと、専門家たちは認めている。

    経済論には必ずしも同意しない人もいる。

    だからと言って、私ごときが偉そうに経済論をぶちまけるつもりはない。

    私が言いたいことは、ピケティの言わんとするところを正しく理解しているのだろうかと疑問を感じる人がいるので、ひとこと言いたい。

    ピケティは単に所得格差を問題にしているのではない。

    所得の多い人の中には自身は全く働かないのに、親や先祖からの財産が生み出す利益を得ている人がいること。

    そしてその利益たるや、自力で一生懸命働いて所得を得ている人より多くなっているということだ。

    言いかえれば、まじめに努力しても(一生懸命働いても)何もしない人の利益を追い越せない社会になってきていること。

    まじめに働けば貧困から脱出できないようでは、働く意欲はなくなるだろうと考えられる。

    希望がなくなれば犯罪も増え、治安も悪くなる。

    対策は経済学者によってまちまちである。

    読書は、本質を理解できるような読み方をしましょう。

     


  4. デジタル時代の常識(1)

    2月 25, 2015 by dolce

    パソコンが学校に入り始めたころ「先生が子どもより未熟で、どうやって教えるんだ」との言葉が聞かれました。

    その頃のことを振り返ってみると、パソコンは黒船のようだったと言えるのかも知れません。

    パソコンの登場は特異なものでした。

    それは、文部科学省からお達しがあったものではなく、パソコンの普及は独学が起源だったことです。

    どういうことことかピンとこない人のために少し説明すると、電子工作の人たちが、メーカーから売り出されるコンピュータボードのキットを組み立てるところが始めでした。

    それまでのキットと言えば、ラジオのように完成すればすぐ動作するというものでしたがコンピュータのキットは組み立てが完成しても、それだけでは何もならないもので、プログラムが必要だったのです。

    雑誌の巻末の「売りたし」欄には、これらのキットを売りたいという記事がよく出ていました。

    組み立てただけでは何もできないということが知られると、キットは次第に売れなくなり、販売から撤退するメーカーが多くなりましたが、NECだけは最後まで粘り強く販売を続けました。

    NECは売るだけでなく、ユーザーへのサービスを充実しようと、各地にBIT-INというサービスステーションを作りました。

    ところが、ユーザーサービスの充実を目的に作ったメーカーの方が訪れるユーザーから教えてもらうことが多くなったのです。

    パソコンの進歩は熱心な、独学の人たちの力に負うところが多いと思います。

    学校からのノルマ的な勉強をすることだけが、勉強だけでなく自発的に勉強する独学の人たちの力の大きさは、教育分野にも大きな変革をもたらしたと言えます。

    長い間、言われてやる勉強に慣れてきたのは、子どもだけではなく先生も同様だった思います。

    だから「子どもの方がよく知っていて、知らない先生がどうして教えられるのか?」という言葉が発せられるようになったのだと思います。

    先生に採用されたのだから、もうこれ以上勉強する必要はない。知識の切り売りだけでよいという考えを改める必要があります。

    新しい文化が登場したら、先生も生徒も新たに勉強するという態度が望まれると思います。

    スマホが登場したら、子どもの方が先行して、先生の方はわからないというのは情けない気がします。

    前置きが長くなりました。

    とりあえず、デジタル時代で恥をかかないために、とりあえず次の二つは押さえておきたいものだと思います。

    1.割り込み

    コンピュータは割り込みの仕事を常に受ける準備をしています。

    パソコンはWindowsの画面を表示するだけで、常に仕事をしています。
    そこで、ユーザーがマウスをクリックしたり、キーを押すとWindowsの表示の仕事を中断し、割り込みの仕事を受け付けます。
    その速さは超高速であるため、人間には二つの仕事を同時に行っているように見えます。
    しかもその仕事ぶりは、完全に一つの仕事を終えてから次の仕事に移るのではなく、複数の仕事を交互に超高速で行うのです。

    だから、複数のユーザーがネットワークから仕事を要求しても、要求された仕事をほんの少しずつ順番にこなして行くのです。
    一巡すると、まだ終わっていない仕事にとりかかり、また少し仕事をして次に移るということを繰り返します。

    仕事が多くなると、一巡するまでに時間がかかりますから、コンピュータは遅くなっていきます。

    マイクロソフトのような大きな会社から、ソフトをダウンロードしようとすれば、恐らく億単位のユーザーが要求を出しているでしょうから、かなり遅くなることはあります。

    大切なことは、たくさんの仕事をいっきに行うことで、コンピュータがダウンするのではないということです。必ず、順番をつけて行っているということです。

    もし、トラブルがあるとしたら、病院へ押しかけた患者が多いので、待合室に入りきれないというように、一時的な待機場所の問題です。
    コンピュータの中核である、病院で言えば医師の先生は1人で、順番に患者を診ているというイメージです。一挙に複数の患者の治療をしようとしてパニックになるわけではありません。

    2.パケット通信

    テレビがデジタル化したことにより、テレビの時報が表示されなくなったことに気づいた人は多いと思います。

    これは、デジタル通信特有のパケット通信によるものです。
    パケット通信は、通信内容をいくつかの小包のように区分けして送信する方法です。

    例えば、ある一つの仕事(通信データ)を10個の小包のように分割したとすると、この小包に1から10までの番号をつけ、1から順番に目的のところへ宅配便のように送り、10番目までの小包が送られたら終了とするわけです。

    なぜこのようなことをするかと言えば、一度に全部を送ると、途中で事故があると全部だめになってしまうからです。区分けして送れば途中で問題があっても、中断ができます。
    問題が解消されたら、次の小包から送ればよいのです。

    こうして、回線の状態の不都合を回避しようとしているわけです。

    そのかわり、回線状態の都合で待たされる小包もあったりするので、その時の都合で、小包が遅れたりして完全に送れたという状態には差が出る可能性が起こる可能性があるわけです。

    だから、デジタルテレビ放送では秒針までピッタリ合わせる放送はできないのです。

    そのため、テレビとラジオで同じ放送を受信すると、テレビの方が遅れて聞こえます。


  5. 自分の言っていることは何でも正しいのか

    2月 23, 2015 by dolce

    大学時代、吹奏楽でずいぶんお世話になった先生がいた。

    「お前たちは先生になって行くんだから、間違ったことを覚えていくと子どもに害を流す」

    と言って、指揮法から各楽器の奏法、その他ずいぶん広範囲にわたって勉強させられた。

    先生は他界されているが、いつもこの先生の言葉を忘れないように、現場に臨んでいる。

    「先生の言っていることは何でも正しいんですか?」

    とある高校生に言われたことがあると、かつてブログに書いたことがある。

    その高校生は、親と喧嘩して気分が悪かったので、つい先生にあたってしまいましたと謝ってきた。

    でも、私にしてはよくぞ言ってくれたという気分であった。
    (恩師の言葉を忘れるなという警告だと、私には聞こえた)

    市の職員からなるバンド(吹奏楽団)を指導するとき、メンバーの中には初心者もいる。

    そういう職員には全くの初歩から教えなければならない。
    この時、当然のことだが、間違ったことを教えてはならない。

    中高のバンドでは、たまに間違ったことを教わっている生徒がいる。
    一番多いのが、トロンボーンとホルンの音階。
    中学校で間違って教えられてきた者は、高校では苦労している。
    ゼロからスタートするより悪い。間違いを修正するのに相当時間がかかるからである。

    ■ICT時代に間違った知識を披露するな

    先生が間違ったことを教えてしまう原因は、先生という肩書きをもらうと「自分は何でも先生」という錯覚を持ってしまうからだ。

    パソコンやインターネットを少しぐらいいじっただけで、わかったと思わないことが大切だろう。

    本当に、それを子どもに話していいのか一度、立ち止まる必要はないか?

    インターネット利用を全員が同時に、一定の利用方法を指定するなんてあり得ますか?ありえません。

    あり得ます。

    例えば、ACCESSを使っている時は、オペレーター(使用者)とACCESSの関係は一対一で、複数の人がACCESSに同時に命令を出すことはありません(できません)。

    しかし、一般の銀行のネットワーク処理では、何万人もの人がATMからコンピュータに同時に同じ処理を要求することは頻繁にあります。

    こういう時に、問題が起こらないように処理をするように、プログラムが作られています。これをトランザクションと言います。

    トランザクションの利用が必要となるのは、複数の更新処理を連続して行う際に、すべての処理が成功したときにのみデータベースへの変更を有効としなければ ならないような場合です。トランザクションを利用することで、何らかの原因によって、一部の処理が正しく実行されなかったときには、すべての更新処理を キャンセルし、作業全体を取り消すことが可能になります。

    ————————————

    一斉にタブレットにソフトをダウンロードしてパンクした事例がありましたね。あれもインターネットを旧時代的に利用した事例です。新時代では、「非同時化」なのです。

    「新時代」っていつの時代のことでしょう?
    少なくとも、今日のネットワーク環境で、ソフトを一斉にダウンロードしたために、サーバー(コンピュータ)がダウンするすることはありません。
    ダウンロードの要求が多くなれば、サーバーが遅くなるだけです。

    もし、タブレットにダウンロードができないとしたら、タブレットのメモリに空きが不足していたのでしょう。

    そもそも、コンピュータは仕事を複数要求されても、それを同時に処理することはありません。
    必ず、順番に処理をします。それも、一つの仕事が終わってから次の仕事に移るのではなく、少しずつ順番に処理をするのです。

    今は大抵の家庭にはルーターがありますが、ルーターは何台ものコンピューターの要求を、あたかも同時に処理しているように見えますが、非常な高速で順番に処理をしているのです。

    世界中はネットワークでつながっています。
    こういう世界で、同時な要求が起こらないことの方が奇跡です。

    インターネットの基礎を学びましょう。


  6. 似たような人はいるものだ

    2月 22, 2015 by dolce

    人を見て、あの人は○○タイプなどとパターン化することは、気をつけねばならないことだと思う。

    なぜなら、パターン化は単純にすることだからでもある。

    しかし、パターン化がいけないとも言えない。

    学問は様々なものの共通部分を見つけることでもあり、見つけた共通部分で分類することにより、発展してきたからである。

    例えば、昆虫は頭、胸、腹の三つの部分に分けられ、足が六本、羽根が四枚のものを言うとされている。

    パターン化(分類)で注意すべきことは、考えがパターン化以上に進まないことである。

    簡単な例では、人は男女に分けられるが、そのことによって「男は○○だ」「女は○○だ」と決めつけてしまって、男なのに・・・だというような考えに及ばないことだ。

    以上のようなことに留意しつつも、私は「○○型」と呼んでもいいような似た類型の性格を持った人に興味を持ってきた。

    ■ヒトラー型の人

    私がヒトラー型と呼びたい人は次のような性格を持っている。

    1.自己顕示欲が強い
    2.自分がトップでなければ収まらない
    3.利己的である
    4.他人の不幸を何とも思わない
    5.平気で嘘が言える
    6.才能はない
    7.話がうま
    8.悪いことは承知で平気でできる

    ほとんどよくない項目ばかり並んだが、注意すべき人として挙げた。

    ヒトラー型とはその名の通りヒトラーをイメージしてのことである。

    ヒトラーはプロの画家を目指していたが、自分にはその才能がないと思い知らされてから、政治家に進路を変えて、あのような人生を歩んだ。

    才能ある画家に嫉妬していたので、芸術性のない画家ばかりを擁護して、才能ある画家を弾圧した。

    当然、本物のヒトラーには会ったことはないが、ヒトラーを思い起こすような人に会ったことはある。

    やはり、才能がないことを思い知らされ、優れた人をいじめるようになったし、本音が出る時、後継者はどうするかという話に及んだ時「俺が死んだらあとはどうでもよい」と平気で言った。

    自分の名誉(出世)には執着があり、力のある人に取り入るのは「金の力が一番」と思っていたので、賄賂は平気で贈っていた。

    などなど、本当にそんな人がいるのかと思う人もいるかもしれないが、表面は「いい人」を演じていれば、意外に気づかないのではないか。

    道徳教育がどれほど効果をもたらすのかわからないが、人は悪いと知っていて行うということはある。

    金に憧れて、殺人を計画し保険金を取ろうとする人もいる。

    悪いと知らないからやるのではない。

    その人の価値観なのである。

    カトリック系の私立小学校で、シスターがおやつを持ってきた時、ある女の子は

    「先生、そのおやつ先に取らない子がいい子なんでしょう?」

    と言った。

    シスターがニコニコして教室を出ると、真っ先におやつを取った子がその女の子だった。

    この子の道徳の評価はどうなるのだろう?

    いずれにしても、人には自分のことを自分でもどうしようもない性格を持てあましている人もいるようだ。


  7. 音楽は数学とアナリーゼと感性

    2月 21, 2015 by dolce

    「音楽やってみえるんですか?音楽はねえ・・・」と苦手意識を示す人に会ったりすることがある。

    そうかと思えば、口に出しては言わないが、音楽は得意と言いたげな人もいる。

    最近は団塊の世代と言われる年代の人たちも、楽器を習い始める人が多くなった。

    音楽の指導は子どもも大人も同じように行えばよいのだが、大人の場合は十分時間を取ることができない場合が多いので、理論的説明を多くして、指導の能率を高めようとしている。

    そこで、音楽を学ぶ上で、音楽の構造を考えると、楽譜を読むアナリーゼの勉強感性を磨くの3つに分けられると思う。

    改めて記述すると。

    1.読譜
    2.アナリーゼ
    3.感性

    ここで、読譜(力)は楽譜自体が機械的に長さが決められた音符の集まりなので、音符の長さを数学的に割りつけていくという知的作業である。

    音楽が苦手と言っても、音符の長さを数学的に正確に並べていくということは誰でもできると言いたい。

    アナリーゼは楽曲分析と訳されるが、これは歴史や文化を学ぶようなものである。

    3つ目の感性だが、これが指導で一番難しいところだろう。

    指導していて感じたことだが「そこは短く」と言ったり「もう少し長く」と具体的に音の長さを指示したりするわけだが、言われた人によっては「以前は短くと言われたのに、長くと言われるのは矛盾しているのでは」と言う人もいる。

    もちろん、指導には一貫性が必要で、矛盾したことを言ってはいけないのだが、感性の領域になると説明しにくいということもあって、一見矛盾と捉える人もいる。

    それで、ある時期からは「音楽は言葉です」と言い。

    例えば「おはようございます」と話す場合、時と場合、人によりいろいろな言い方がある。
    いろいろあっていいのだが、ロボットが話すような言い方はよくないなどと説明している。

    しかし、ひとによっては、確かに言われたようにやったのだが、どうして悪いのかわからないと言う人もいる。

    お菓子を作る修行でも「これは甘さが足りない」と言われ、砂糖を足したら「こういう甘さではない」と言われるようなものだ。

    このように考えてくると、最近は言われたことをロボットのように守ってそれで事足りていると感じる人が増えてきたように思う。

    教育の観点で考えてみると、数学の練習問題を解いて解答と照合する。歴史や文化を知識として頭に入れるというような学習活動は多いが、感性を磨く場面が足りないのではないかと思うのである。

    ものは機能さえ足りていればよいというものではなく、茶碗一つをとっても大切にしたいという気に入った茶碗があったりする。

    最近中国からの観光客が多いようだが、ハローキティの絵がついた製品が多いのも、中国人には人気が高いからだそうだ。

    学校給食の食器も、ポチの皿のようなものではなく、子どもの心、つまり感性を刺激するようなものであってほしいと思う。

    学力検査で知的能力だけを問うのではなく、感性の教育も忘れないことが心を育てることになるのではないか。


  8. 得体の知れない「学力」という言葉

    2月 20, 2015 by dolce

    教育学大事典(第一法規)には「学力」について、以下のように記載されている。

    学力の概念は、一義的に規定されるうるような教育学的なコンセンサスをまだ確立していない。
    それは、学力の概念が教育の本質観・学校観・児童観・価値観等と不可分の関係にあり、概念規定をする考え方によって規制されるからである。
    また、学力はそれ自体歴史的・社会的存在として、時代や社会の歴史的に変遷していることも、一義的な規定の難しさの要因となっている。

    学力の一般的な概念規定としては、「学習によって獲得された能力」「生徒の学業成績としてあらわされる個人および集団の能力」などと定義されている。
    しかし、これらの定義は、形式的・操作的な定義であって、学力の内実を教育目的・教育内容・教育方法・教育評価等とのかかわりについて具体的・実践的に明らかにしているとはいいがたい。

    ・・・・・

    つまり「学力」という言葉は人によって捉え方が異なるということである。

    だから、学力について討論をすればさまざまな意見が出てくるのは当たり前と言える。

    ある人は「学力が上がった」と言えば、期末テストの点数の上下が学力の意味と考えている。

    また「学力テストを実施した」と言えば「学力テストと名付けたテスト」を行ったということであり、それは各人が思っている学力のテストを行ったのかどうかはわからない。

    そういうわけで「学力とは?」と言われても、各人各様の考えがあるわけで、議論をしたからどうのこうのというものでもない。

    もちろん、学力についてこういうものだという学術的根拠が、もともとあるわけではない。

    従って、学力について根拠ある答えがないと学力は上がらないとは、全くでたらめの放言である。

    学力が上がったかどうかは、自分が定義した学力に照らし合わせて評価すればよいことである。

    ただし、他の人からは個人が定義した学力について、異論はあるかもしれない。

    それより、問題なのは学術的にも、何にしても一般的に定義されていないものを、あたかも自分はよくわかっていると権威のように発言する者が問題である。

    言葉には、よく使われているが、実体がはっきりしないものはある。

    だから、きちんと議論をするには、議論で使われる言葉を明確に定義する必要がある。

    例えば、裁判においては「善意」とか「悪意」という言葉を使うときは「善意」とは「知らなかった」「悪意」とは「知っていた」という意味であると明確に定義されている。

    教育について議論するときは、時に明確に定まっていない言葉を持ち出し、あたかも自分だけが真の意味を知っている(根拠を知っている)ように振る舞う輩がいるので注意する必要がある。

    中身のない人、頭の悪い人は、自分を偉いように見せかけるため、言葉を悪用する傾向があるので気をつけよう。

    頭のいい人は難しい言い方をしない。それは頭がいいからこそ、易しく語れのである。


  9. 点数だけでなくセンスも褒めよう

    2月 19, 2015 by dolce

    オーディオシステムは電気製品ですから、物理の論理がもとになって作られています。

    オーディオショーで各社のブースを見て回ると、技術的特徴を解説した説明が紹介されていますが、デザインに惹かれるものもあります。

    特に、イタリアのメーカーはアンプの作りを見ると、普通は武骨に見える部品もデザインの一部として存在感を持っています。

    さすがデザインの国と思います。

    「これ素晴らしいですね」

    と外観について感想を言うと

    「ブティックの方がショーウインドウに飾るために買って行かれます」

    という返事だった。

    話を教育場面に移すと、とかく点数だけに関心を持ち、高得点の者だけを褒めがちということがあります。

    しかし、子どもによっては、給食の配膳が上手だったり、持物を大切にする、誰に言われることもなく、教室に花を飾るなど、点数には関係ないところに良いセンスを発揮する者がいます。

    こういうことが、ごく自然にできるというのも、素晴らしい能力と言えます。

    そういえば、高校時代を思い出すと、私のすぐ後ろの席のY君はいつも成績がよく、注目していましたが答案を先生からもらうとき「字が汚い」とよく叱られていました。

    テストだから、点数さえよければそれでいいのですが「字が汚い」とほとんどの先生に言われていたのには笑えてきました。

    人の能力には様々なものがありますが、点数以外のものも認めていくことを忘れてはならないと思います。

    海外のオーディオ製品は個性的なデザインのものが多いですが、日本の製品は概して、いかにも機械と感じるデザインが多いのは、国民性のせいかと思ってしまいます。

     


  10. 知識は大切だが知恵や感性も大切である

    2月 18, 2015 by dolce

    教育を行うにあたり、知識は大切だが、知恵や感性が伴わなくては成果は出ないだろう。

    最近はビッグデータが話題になるが、巨大なデータは存在するだけでは意味がない。

    活用してこそ役に立つものである。

    即戦力としてのある程度の知識を、個人で持っていることは大切だが、必要な知識を探索し活用する知恵は大切である。

    せっかくの知識も活用する知恵がなければ、宝の持ち腐れと言える。

    しかも、知恵を高めることは、知識を詰め込む以上に難しいことである。

    さらに、豊かな感性を持つことは、教育の現場での実践にさらに大切であり難しい。

    なぜなら、現場にいて子どもを見て問題点を把握したり、感情をくみ取る鋭敏な力がなくては教育は進まないと言えるからである。

    変な例だが、例えば、最近の電化製品は高性能になってきている。

    エアコンもただ暖房したり冷房するだけでなく、人の存在を感知し、さらに快適性の要素もデータとしてとらえ、心地よい環境を作るようにしている。その上無駄のない電力利用を考えている。

    これは、計算するコンピュータの性能アップによるものも大きいが、それ以前に環境を捉えるセンサーの性能によるところが大きい。

    教師も自ら人のいろいろな要素を感じ取るセンサーが貧弱では、問題点を見過ごしてしまう。

    認知症の進み具合は「人として最も鋭敏である機能が衰えていないか」をみるとわかると言われる。

    趣味に興味を見せなくなった。

    美しい花を見ても動じなくなった。

    美しい音楽を聴いても感動しなくなった。

    などである。

    これらは感性の問題である。

    認知症のため感性が鈍ったというのではなく、もともとそれらの感性が鈍い人がいるかもしれない。

    感性が鈍いと、子どもの心遣いにも無頓着になるだろう。

    優れた教育者は、教師としての知識や知恵だけでなく、優れた感性を持っていた。

    例えば斎藤喜博の著書を読んでみれば、如何に子どもの心や表現に敏感であったかがわかる。

    現場で子どもの心の動きや表現をくみ取れない教師は、教師の価値がないし、こういう感性は、本をたくさん読めば磨かれるというものでもないというところが難しいところである。

    これは、やはり指揮者に似ている。

    「勉強すれば、だれでも優秀な教師になれるというものではないが、学べることは学ぶべきである」は「勉強すれば、だれでも指揮者になれるとは言えないが、学べることは学ぶべき」と言われたのににそっくりである。

    知識だけで、優れた教師と自負するのは愚の骨頂である。