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1月, 2015

  1. プロ意識を持つ人のプロレベル

    1月 31, 2015 by dolce

    プロという意味には、職業としている、専門的に優れているという二つの意味がある。

    プロという言葉が格好いいと思うのか、あるいは自称プロと名乗ることで、オレはお前たちと違うのだと差別をしたいのか、そうでもしなければ自尊心が保てないように見える人もいる。

    最近は派遣社員らしき人物が、背中に「STAFF」と表示された征服か名札をつけて、コンサートホールにやってくる。

    打ち合わせの時「ピアノは大丈夫ですか?」と聞いたら「新品だから大丈夫です」という返事がかえってきた。

    なんだか不安な感じがしていたが、本番の時、その不安が現実になった。

    調律がしてないのである。

    「ピアノは大丈夫か」と言えば、調律のことにきまっている。

    最近は、プロの格好をすればプロになれると思っている者がいるようだ。

    ここでのプロの話とは、給料をもらっているという意味でのプロではない。

    プロレベルの専門性があるかという話である。

    コンサートホールで演奏者と関わりを持って、通用する仕事ができるには、最低でもピアノが狂っているかどうかぐらいはわかっていなければ話にならない。

    また、大体、そう簡単にプロになれるものではないと考えるべきである。

    「オレはプロだ」なんて言わなくても、他人から見たら仕事ぶりで「さすがプロ」とわかる。

    プロに見てもらいたくて、自分からプロなんて言うやつは、プロではない。仕事ぶりで区別がつくほどのことはできないから、自分から言うのだろう。

    誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒める人間に似ている。

    こう考えてくると、現代の学校の先生はプロと言えるのか?

    私の見たところでは、玉石混交というところだ。
    (プロと言える先生は、お手盛りの世界ではなく、学校外の世界から講師として呼ばれるような人である)

    プロになりたいから学校の先生になったという人もいる。

    学校の先生になればプロになれるという意味ではない。

    画家になりたいのだが、画家という仕事は経済的に不安定だから、先生として一応安定した経済環境を持ち、本命は絵を描きたいという人だ。

    私の知っているこういう人は、子どもの指導には手を抜かない。

    というか、自らが絵と真剣に向き合っているから、これに子どもが刺激されるという面が強い。

    学校の先生もプロという自負があるのなら、自らプロなんていう情けない姿を見せることなく、他人から見られたら「さすがプロ」と感じられるようなものを持つべきである。

    国語の先生であれば、当然、字はうまくあってほしい。
    さすがと言われる文章を書いてほしい。
    話し方ももちろんである。

    社会の先生のプロとは何だろう?

    数学は?

    理科は?

    英語は?

    音楽は?

    美術は?

    技術・家庭科は?

    保健・体育は?

    思い浮かぶ先生がいるか、考えてみよう。

    そういえば、一斉授業は子どものレベルを上中下に分け、中を基準に授業をするから上下は捨てられていると考えている情けない先生がいるとわかった。

    これなど、およそプロの先生とは言えないと思うが。


  2. 「教育」という言葉をめぐる混乱(2)~実行あるのみ

    1月 30, 2015 by dolce

    何も興奮することはない。

    この国の学校制度、教師が気に入らなかったら、学校へ行かない選択もできる。

    ただし、学齢期の子どもが学校へ行きたいと言えば、保護者がこれを妨げることはできない。

    子どもの教育を受ける権利を妨げるからである。

    近年、不登校が増加し学校へ行きたくないという子どもが増えている。

    これに対し、学校が登校を促すのはいいが、就学義務違反などの言葉を使って親に圧力をかけるのは間違っている。

    弁護士多田元さんの話
    保護者に就学義務をふりかざすのは過ち

    憲法26条のもとで、子どもは学ぶ権利を持っており、保護者と国などは、その学ぶ権利に適切に対応する教育を子どもに提供する義務があるという理解は確立している(最高裁大法廷76年5月21日判決)。義務教育としての学校制度は、子どもの学ぶ権利を平等に保障するためのものだ。それは、学校以外の場で学ぶことを否定するものではない。世界人権宣言26条は「親は、子どもに与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」としており、それはわが国憲法や子どもの権利条約の理念とも調和する

    現行の学校制度が気に入らないとして、親として、子どもの教育を受ける権利は守るとして、小学校への就学を拒否した例としては、古い話だが、映画監督の羽仁進氏の娘、羽仁未央がいる。

    小学校卒業の時期には、卒業証書が送られてきたそうである。
    (卒業認定は校長の権限事項である)

    「学校の先生」は職を全うする上での「肩書きとしての先生」である。

    教えを受ける者が、師として先生と思うかどうかは別の話である。

    日本の学校制度は、国が義務教育制度を設けている責任上、国民に対して教育を受ける機会を提供しているわけである。

    これは、昼食の時食堂がランチサービスをやっているようなもので、ランチが気に入らなかったら、自分で別メニューを選べばいいのと同じようなものである。

    義務教育としての学校は、一応、全ての栄養素に偏りなく教育のメニューを用意しているというものなので、全ての子どもや保護者に気に入ってもらえるかどうかはわからない。

    だから、もっと専門的な指導を受けたいと思うなら、自分が先生として尊敬できる先生を探して教えてもらえばよいだけのことである。

    さらに、日本という国が気に入らないというなら、

    日本国憲法 第22条

    2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない

    により、好きな国で生活することもできる。

    どうするかは、本人の決断と実行あるのみ。


  3. 天動説な人

    1月 30, 2015 by dolce

    ものの考え方が、自分中心な人がいる。

    世の中の何でもが、自分中心で回っていると考えている人である。

    昔は太陽が地球を回っていると考えられていた。

    これが天動説であるが、思考が自分中心な人はこれと似ていることから、こういう人を天動説な人と私は考えた。

    利己主義と言うと角が立つような気がするので、天動説な人と言ったら多少は柔らかくなるかなと思う。

    天動説な人は、常に自分が中心に立っているという意識があるので、物言いもそのような言い方になる。

    でも天動説の反対、つまり地動説な人から見たら、それは誠に奇妙に映る。

    あなたは、天動説な人ですか?それとも地動説な人ですか?


  4. 自由こそが最も大切なこと

    1月 29, 2015 by dolce

    私が出会った校長は、ほとんどいい校長だった。

    ほとんどいい校長だったというのは、よくない校長もいたということ。

    よくない校長とは、いわゆる「色気」のある校長。

    色気とは「sexy」という意味ではない。

    「オレが」という、どこかに自分の名前を刻みたい人である。

    ほとんどのいい校長は、先生たちを自由にしていた。

    自由にしていると、不思議に先生たちはよく勉強した。

    先生だと、生徒たちも自由というか、自主性を発揮した。

    学校中に自由な空気がみなぎっていた。

    こうして、先生になってみたものの、将来はと考えた人たちも、ずっと先生をやろうと決心したらしい。

    先生たちの自由な研究心は学校を超えて、勉強し合った。

    こういう自主的な研究会は、私自身も先輩たちと30年以上今も続いている。

    私が最も年下なので、すでに退職した先輩もいるが、退職したから研究会から外れたわけではない。

    夏休み、年末、正月といった休みが多い時は、教え子が加わったりする。教え子の中には先生もいる。

    宿泊で語り合ったり飲んだりする。

    人間は誰かに言われなくても、勉強をするのだ。

    勉強をするのだ。

    色気だけの人は有名になりたい人が多いようだが、肩書きをかざしても人は寄ってこない。

    世の中がおもしろいと思うのは、本当にいいことを覚えたいという人は、一見無名だが実は博学、指導がすばらしいという人を口コミで知っていて、訪ねる。

    とにかく、校長は色気のない人がいい。

    (sexyな人はいいかも知れないが)

     


  5. 「教育」という言葉をめぐる混乱

    1月 29, 2015 by dolce

    「教育」とは辞典によれば以下の意味である。

    教え育てること。知識,技術などを教え授けること。人を導いて善良な人間とすること。人間に内在する素質,能力を発展させ,これを助長する作用。人間を望ましい姿に変化させ,価値を実現させる活動。(ブリタニカ国際大百科事典 )

    「教育」が必要かどうかは、自身またはその保護者による。

    ピアノが弾きたいとと思った時、独学でやると決めたら、ピアノの先生によって教育されることは強制されない。

    先生が必要と思えば、先生を見つけて教育を受ける道を選べばよい。

    人生をどう生きるかは、自分の自由である。

    学校教育も同じ。

    憲法はは、子どもに教育を受ける権利を保障している。
    だから、親は子どもの教育を受ける権利を奪ってはいけない。
    憲法では、親(保護者)に対して子どもに教育を受けさせる義務があるとしている。

    ここで混乱しているのは、学校に行くことを法律は義務化していないし、学校の先生に教わることも義務化していない。

    だから、子どもを学校に行かせなくても、教育を受けさせればいいのである。
    子どもが教育を受けたいと希望すれば、それを親が邪魔してはいけない。

    子どもはみな学校へ行かねばならないということもない。

    不登校は、子どもの意思でそうしているのなら何も問題はない。

    つまり、教育を受けることについては、学校は絶対の存在でもない。
    学校の先生だけが先生でもない。

    だから、現行の学校や先生に目くじらを立てる必要はない。

    現行の学校や先生に不満があるのなら、自前で教育を考えればよい。


  6. 私が懸念すること~子どもをダシにして恥ずかしくないか?

    1月 28, 2015 by dolce

    学校は研究指定を受けて、研究発表に向けて、研究校として、諸準備を始めることがある。
    研究指定は文部科学省や県の教育委員会などからである。
    指定を受けず、学校独自に自主的に取り組むこともある。

    ここで問題は、研究校と言えば聞こえはよいが、これらの研究が儀式化している場合があること。

    教員の膨大なエネルギーを、何の役にも立たない教育ごっこのような儀式で費やすことである。

    そういう場合は、多くの教員が本来の地道な教育実践に目を向けず、目の前の子どもたちでさえ放り出して、発表のための膨大な資料づくりのために疲弊していく。

    教育をすべき学校で、教育を行わず教育とは関係ないことに人材や経費を使う。

    こういう大いなるムダは、閉ざされた学校という場から隔絶されている国民からは、見えないことが多い。

    では、なぜこういうムダが行われるのか?

    ひとことで言えば、バカ校長の存在である。

    教育の見識など少しもない頭の悪い校長が、ただ有名になりたいだけで、たくさんの犠牲のもとにこの儀式をやりたがる。

    典型的な例の一つが、大津の中学校で生徒が自殺した例。
    この学校、なんと道徳の研究校だった。
    この学校の校長は研究発表を終えた後、教育長になっていった。

    私がこのようなことを言うのも、中身のない論理を打ち上げて、結局、学校ごっこに終わるのではないか、という懸念を感じることがあるからである。

    何のことを言っているのかと言えば、何度読んでも、何度聞いても得体のしれないことを流行らせようとしている人(たち)のことである。

    自分たちだけの被害で終わることならいい。

    問題は子どもも巻き込んで、貴重な時間を浪費させることだ。

    道徳の研究をやって、自殺者が出たなんて、この影響は如何なるものだろうか?

    こういう、中身のない学校ごっこが子どもに与える影響は「自分のためなら、人を犠牲にしてもよい」ということをしっかりと教えたことだ。
    子どもは、しっかりこういうことを学んだのだろう。

    今、宗教のごとく伝播させようとしている教育(?)実践に携わっている学校は、校長自ら旗振りをやっているのだろうか?
    それとも、授業が楽になる(かもしれない)と思った教員たちが飛びついているのか?

    こういう不安を私が持ち始めたのは、教祖の考えがあまりにもお粗末と感じたからにほかならない。

    本屋でたくさん本が並んでいたと教えてくれた人がいた。

    本が出ていたら、それは権威の証になるのか?

    そう考える人がいたとしたらおめでたい。

    大学の先生がよくやることだが、本を売りたいがために、本を書き、自分の講義を受ける学生に教科書として買わせるという人がいる。

    学校で研究主題にしようと決めたた時(研究主題としてまともかどうかわからないが)、は先生全員は買うだろう。

    いいものかどうかは、どうでもいい。
    教員の仕事は、成果が上がるかどうかは問題ではない。
    ムダなことでも、やっていれば給料がもらえるのだ。
    むしろ、真剣になって異端者と思われない方がいいから黙っている。

    そう言いたいほど教祖はお粗末。

    ———————————————————————

    「一人も見捨てない」は人道的するのではない、正しいからそうするのではない「得」だから行うと言っているが、それは「誰が」どのような得をするのか?

    「安易に人を切ることを容認する集団は損になる」の「人を切る」とは具体的にどうすることなのか?

    (私は最近、常識のない迷惑ばかりかける人とは付き合わないことにしましたが、これは切ったことにならないののですか?)

    (親は得があると考えているから、子どもを切らないのか?)

    教育は損得で計算して実践するのですか?

    人は損得勘定で人と付き合っているのですか?

    得にならない人には「見捨てないふりをする」ことが大事なのですか?

    人生は損得の取引ですか?

    ———————————————————————

    これらはすべて、教育とは逆行するものだと私は思うのですが。

    いろいろな教科の先生がやってくるそうですが、それで普遍性があると言えるのですか?

    一体、何人がやってきたのですか、普遍性があると言うには、一般に、何年もかかり社会に認知されることが大切だと思うのですが。

    学校には研修旅行という制度があり、実態は慰安旅行であり回り持ちで自分の番がやってくるというものがあります。

    一応「研修」と名がついているので、どこかの学校を訪問し、形式的なレポートを提出して済ますという制度があるのをご存知ですか?

    ————————————–

    以上は一部ですが、大学の先生と言うには余りにも社会常識に欠けると言わざるを得ません。

    得意の言い回しは「・・・は方法ではなく、考え方です」ですね。

    「魚を焼く」は方法ではなく、考え方ですと人に言ったらどうなのでしょう?

    「深いです。私でも十年かかりました」というのもありました(十年もかかったら、子どもは卒業しています)。

    「牛乳の飲み方は奥が深いです。私だって十年もかかりました」と人に言ってみたらどうでしょう?

    不思議な言い回しはたくさんありますが、今回驚いたのは「一人も見捨てない」は損得を考えてやるということです。
    しかし、そうは言いながら見捨てても、見捨てないふりをするという考え方です。

    同士の方々、大丈夫ですか?


  7. 人それぞれの見識

    1月 27, 2015 by dolce

    ブラウザ(インターネット・エクスプローラー)をクリックするとYahoo Japanが開くのを見て、ブラウザの中にYahoo Japanが入っていると思っている人がいる。

    Microsoft Officeをインストールした時、認証を行わないと使えなくなると言っても「このDVDは私が買ったものだ(だから、使えなくなるのはおかしい)」という人もいる。

    私はこういう話を聞くと、マンが天才バカボンで、故障したテレビを見ているシーンで「これはテレビの中の小人が怠けているのだ」と言っていたのを思い出した。

    みな、笑えてくることなのだが、このような認識を持っている時「お前バカだなあ」と言ってくれる人がいるうちはいい。

    でも、人間、偉くなるとバカだなあと言ってくれる人がいなくなる。

    そうすると、いい年をしても見識のないバカを演じて、修正のきかないまま年齢を重ねる人が出てくる。

    たいていの人はトラブルを好まないだろうから「バカなことを」と感じても黙っている。

    だから、学歴は立派でも「細胞分裂が終わった人たちは」とか「放射能は燃やせば消滅する」などと発言する人も出てくる。

    そう言えば「○○さんは、かいがされたそうで・・・」と発言した大臣は、もうこの言葉を修正しただろうか?
    つまり「怪我」を「かいが」と読んだのだが。

    ところで、人は年を取ると能力が落ちるのだろうか?

    老齢化が加速するこの日本では、確かに能力が落ちてきたと感じられる人はいる。

    だからと言って、人はみなそうなるのだろうか?

    指揮者は年の多い人が活躍している。

    それを見て、長年、音楽に携わってきたので、その功績に敬意を表し、いわゆる年の功で指揮をやっていると思っている人もいるようだ。

    80歳を超えた故サヴァリッシュが日本にやってきて、NHK交響楽団の指揮をした時、まれにみるいい演奏を聴いた。

    これを、年の功で敬意を表して指揮をしてもらっているとしか感じ取れないのは情けないことである。

    プロの世界は甘くない。若いとか年が多いとかは関係ない。老指揮者に敬意を払って聴きに行くというほど音楽界は甘くない。

    私はおもしろみのない演奏をするNHK交響楽団はあまり聴かない。
    最近、番組表に札幌交響楽団の演奏会が載っていたので、興味を持って聴いてみた。

    地方のオーケストラという先入観を持っていたが、これがとても素晴らしい演奏だった。
    始めて見たチェコから来た

    ラドミル・エリシュカ
    1931年、チェコ共和国、旧ドイツ領のズデーデン地方に生まれ、ブルノで育った。ブルノ音楽大学(ブルノ音楽アカデミー)卒業。

    とあるから、84歳だ。

    始めは空席が目立ったというが、翌日は満席だったという。
    やはり、わかる人はわかるのだ。

    芸術家は年とともにいい仕事をする。年を経て能力が高まるのだ。

    体力は衰えるが「体に比べ脳ははるかに寿命は長く・・・」とは専門家の話だが、最近はCTスキャンで脳の内部がわかるようになってきた。

    年とともに脳が活性化するか衰えるかは、脳を使うか使わないかの個人差によるのだという。

    スポーツの世界では、体力の問題で現役期間は限られるが、コーチや監督をする人は能力が高いので仕事をするのである。もちろん、年の功ではない。

    ということで「年を取ると能力が衰える」と考えている人は、見識が浅いと言えるだろう。

    少なくとも、人の上に立つ人がそんな見識では情けない。

    これは想像だが、小学生でも、年を取ると能力が衰えると考えている者は少ないのではないかと思う。


  8. これで大丈夫なのか?

    1月 26, 2015 by dolce

    1.理科の実験は意味がない
    2.子どもは将来英語を使うことはないと知っている
    3.クラスの2割の子どもが世論を決める
    4.子どもたちは受験が一番大事だと思い、勉強は点を取るものだと思っている

    などなど、こういう考えを念頭に教育の実践をしようとしている教師が私は信じられません。

    「『すきやき』は方法ではなく、考え方です」と言われて何のことかわかりますか?

    「私が『バカ』という時は心をこめている時です」と言われて喜べますか?納得できますか?

    何かすべてが逆だったり、あまりにも社会を知らないというか、日本の子どもをダメにして、日本壊す目的で送り込められたエイリアンのしわざなんでしょうか。

    信奉者はゾンビ化された人たちなのでしょうか?

    「学校の階段」というという映画がありましたが「教育の怪談」というSF映画ができそうな気もします。

    「感動は子どもの心によくない」と言った人に似ているような気がします。

    つまり、全てが逆のような。

    日本は大戦に敗北してGHQに占領され、日本人の怖さを知ったGHQが日本民族を骨抜きにしたように、今度は新手の破壊者を送り込んで、日本の弱体化を狙っているのでしょうか?


  9. 自由と放任は違う

    1月 25, 2015 by dolce

    自由は人間にとって大切なものだと思います。

    しかし自由があるということは、何でも自分勝手にできるということではありません。

    だから、人間に完全な自由はないという人がいますが、もし何でも自分勝手にできる自由があるとしたら幸せでしょうか?

    私はそういう世界には怖くて生きていけません。

    道路を車で好き勝手に走ってよいとか、腹が減ったら見える食べ物は好きにとって食べてよいとか、そんな社会で生きることはごめんです。

    人は自分一人だけで生きているのではないですから、自由の中にもきまりがなかったら、困るわけです。

    だから、人間は我慢して生きていると言っている人がいるようですが、これには私は驚いています。

    私の場合は、きまりがあることで安心して生きているという感じを持っています。

    きまりがあるから不自由、我慢して生きているという感じはありません。

    ところで、子どもは生まれてからどのように生きていくのでしょう?

    生きるための情報を、大人がすべて頭の中に詰め込んでやらなければならないのでしょうか?

    私はそうは思いません。

    子どもはこの世界に登場してから、自ら学んで自ら生きていきます。

    コンピュータには人工知能を持ったものがあり、それも、人がすべての知識を与えることなく、自ら知識を増やしどんどん賢くなって行きます。

    だから、やがて人間の知能を追い越すとも言われています。

    一方、私たちが日常使っているコンピュータは、自ら賢くなっていくということはありません。

    人が教えた以上のことはしません。

    私が、なぜこのようなことを言うのかと言えば、人は知能を持っていて自ら知恵をつけていく、自立して生きていくという考えを持たない大人がいるように思うからです。

    ■子どもは自由にすることがいい

    「あなたは犬派ですか、猫派ですか?」と聞かれることがありますが、私はどちらと決めることはできず、どちらにも魅力を感じています。

    犬は呼ぶと喜んで走ってくるように、人には従順です。

    犬は主人に呼ばれたから、しかたなく言われたことを聞いているということはなく、呼ばれたことを喜びにしているように見えます。

    猫の場合は、必ずしも人の言うようにはならないところがあります。

    私は、猫が人の思うようにならないというところに魅力を感じています。

    自分の生きたいように自立して生きているようで、そこがいいと感じています。

    子どもの場合も、生まれて間もないころは人に頼って生きていますが、次第に自分の意志で生きたいという自立心が出てきます。

    大人が思うようにならないなあと感じ始める時です。

    私はこういう子どもの時期に魅力を感じます。

    子どもは凄いスピードで自分の生きている世界から、必要な知識を吸収し自立していきます。

    だから、私は大人が思うように知識を詰め込み、思うように生きていくように期待するのは間違っていると思っています。

    それでも、子どもにとってはまだ学んで行かなければならないことがあります。

    それは、第一には生命の危険に関することです。

    だから、子どもはなるべく自由にしておくことがいいと言っても、大人が気をつけて見守らなければならないことがあります。

    例えば柵を作って転落しないように見守ることなどです。

    子どもを全く大人の意識外におくことは放任です。

    しかし、干渉しないで見守ることは放任ではありません。

    ソシオメトリーの理論で有名な、田中熊次郎氏は「教材の池」という言葉を使いました。

    教材の池とは、公園のように「この範囲では自由に遊んでいいよ」というエリアを作ることです。

    田中熊次郎氏によれば、大人が干渉しすぎて自由のないのは「いけない授業(池がない授業)」と言いました。

    私たちは、子どもに「いけない環境」を作っていないか「つめ込まないといけない」のか「自由と放任」を区別しているか、注意していかなければならないと思っています。


  10. 基本は一斉授業から

    1月 24, 2015 by dolce

    まずは子どもたちを前に、一人一人と正対する気持ちが大切だと思う。

    子どもたちから見たら、全員が教師から見られている、という意識を持つように話かけることができることだと思う。

    教師の意識の中にない子どもは、忘れられているとか、自分には関心がないのだと思われるだろう。

    そのような状態にならないように、全員に向かって話しかける、これが授業の基本だろう。

    これは、経験の多い教師なら簡単なことと言えるだろうか?

    ■「見捨てる」の主語は誰だろう?

    「見捨てる」という言葉を使う時、見捨てるは誰が見捨てるのだろう?

    もちろん「教師が」が主語である。

    だから、子どもが子ども同士のグループ内にいる時、そのグループから見捨てられるかどうかという話ではない。

    だから、子どもをどこかのグループに所属させ、そのグループ内でうまくやっているかどうかというのは「見捨てる」の主語ではない。

    見捨てる見捨てられないの問題は「教師からどうなのだ」ということである。

    問題のすり替えをやってはいけない。

    ■すべての子どもが目標に達したら「見捨てられない」ことになるのか?

    もちろんそういうことではない。

    子どもにとって、見捨てられないとは、教師が自分にどれほど心を砕いてくれたかということである。

    問題の焦点をはずさないように議論することが望まれる。