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12月, 2014

  1. きまりのメッセージ性

    12月 31, 2014 by dolce

    きまりのメッセージ性とは何ぞやと言いたくなるようなタイトルですが、順を追って説明します。

    まず「きまり」とは大きく二つに分けられると思います。

    1.なくてはならないきまり

    2.なくてもよいきまり

    1のなくてはならないきまりとは、ないと生活に困るきまりです。

    きまりについては、人によっては、きまりがあることによりプレッシャー(精神的な圧力)がかかっているのだが、仕方がないので許容していると考えている人もいるようです。

    私はきまりのために圧迫を受けている感覚はありません。

    むしろ、交通法規があるために、安心して道路を通行できます。

    2のなくてもよいきまりとは、例えば、ある学校では「トイレに入る時はノックをすること」というのがあるそうですが、こういうのは特にきまりがあるかするとか、きまりにないからしなくてもよいというものではありません。

    学校においては、この2のようななくてもよいきまりを細々と作るところに問題があると思います。

    特に問題と思うのは、細々とどうでもよいきまりを作ることをよしとしているのではないかと思うフシがあることです。

    きまりの効果は「人の行動を制約する」ものです。

    きまりが多いほど人の行動の自由を奪うことになるわけです。

    きまりをたくさん作っておいて「行動を縛るものではない」というのは矛盾しています。

    生活指導の目的で、こと細かくきまりを作ることは、明らかに縛っているのです。

    ここで、私が一番問題にしたいのは、どうでもよいきまりを作って生徒に押しつけることにより「先生たちは君たち生徒を信用していないのだ」というメッセージが伝わってしまっていることです。

    これを、私は「きまりのメッセージ性」と言っているのです。

    生徒と先生の信頼関係が大切だというのに、暗に「信頼していない」というメッセージを送っているのは、教育に一貫性がないと言えます。

    そんなことをするから「校長は定年まで何ごとまで、御身大切に過ごしたいからだ」と腹を探られてしまうことにもなるのです。

    登下校の途中で買い食いをする生徒がいたとしましょう。

    それを見て、先生の方から先行して「買い食い禁止」というきまりを作ってしまうより、生徒たちに「先生はよくないと思うが、君たちはどう思うか?」と問いかけた方が、道徳的にもよい指導になると思うのです。

    各クラスで生徒たちが意見を出し合い、それを全校で集約するという活動をした方が教育になると思うのです。

    安全には配慮しなければいけませんが、教師が専制政治のように権力で先行するのはよくないと思います。

    私の実践では、どうでもよいきまりはどんどん廃止していきました。

    これには、生徒の方が呆れたかも知れませんが、生徒としたら「先生は信用してくれている」という空気が広がって問題は起きませんでした。

    そうすると、生徒を褒めてやることができます。それで生徒の方は気分を良くし、良い循環ができたと感じました。

    生徒指導で懲りた学校では、中学校では「1年のうちに厳しくしておかないと」と考え、きまりをこと細かに決めるところがあります。

    一見利があるようにも思えますが、逆に反抗心が芽生えるだけだと、私は感じました。

    生徒たちの心の中には「オレたちが抵抗できないからと思って・・・」というものが芽生えるようです。

    その証拠に、先生たちの指導をよく見ていて「強そうで抑えられない生徒には注意しない」との言葉が聞かれます。

    低学年のうちに圧力をかけるのは「弱い者いじめ」の心が伝わってしまうようです。

    低学年のうちに躾けたいなら、教師の方が時間を守るなど、生活の規律をきちんとすべきだと思います。


  2. 英語は必要か

    12月 30, 2014 by dolce

    「英語教育は必要か」ではなく「英語は必要か」がタイトルです。

    「英語は必要か」という言い方は抽象的です。

    ですが、今回はあえてこういうタイトルにしました。

    その意図は、抽象的な言い方は空想や妄想を生みやすい。

    つまり、はっきりしないから想像の範囲が広いわけです。

    そこで、このタイトルから「英語教育は必要か」と勝手に解釈し、そこから妄想を展開する人がいる可能性があります。

    ■決めつけをする人は利己主義者

    想像の範囲が広いから、いろいろ空想したり妄想するのはいいのですが、問題は自分の勝手な妄想を断定してしまう人がいることです。

    これは先生だったら非常にまずいことです。

    なぜなら、子どもは「そう言っていない」のに、勝手に決めつけてしまう恐れがあるからです。

    この勝手に決めつけてしまうというのは冤罪をつくる悪徳検事と同じ心理です。

    悪徳検事の場合は、真実を追求しようという気持ちがない。

    誰でもいい、誰かを犯人にすれば自分の手柄になるという感覚です。

    だから、決めつける先生は悪い先生であると言えます。

    もし、真実が大切と考えるなら確認をすると思います。

    アナウンサーは討論会では、間違いを回避するために「あなたの仰りたいことは◯◯ということですね?」と聞き返しています。

    学校の先生も、このようにすることが大切だと思っています。

    間違いのないようにするということも大切ですが、確認するためには相手の意見を要約しなければならないからです。

    先生には要約する力が必要と言えます。

    また、子どもの表現力がまずい場合、先生の要約でみんなによくわかるということもあり、表現した子どもにとっても勉強になるし、自分の言ったことが確かに伝わったという嬉しさがあります。

    決めつける人は、利己主義的な性格とも言えます。

    なぜなら「お前がどう言おうと、オレはお前が◯◯と言ったことにするんだ」という意思が見えているからです。

    いくらきれい事を言っても、本心は見えています。

    ■英語は必要か

    やっと本論ですが、英語は必要かと言えば、答えは「立場によって違う」と言えるでしょう。

    それは、人生をどう生きるかはそれぞれの人によって違うからです。

    英語が好きか嫌いかを問わず、英語が自分の進路を考えた時、成績に影響してくるとしたら、必要であると言えます。

    しかし、そういう自分の描く進路の効率を考えなくても「英語が好きだから」という理由も英語が必要な理由になるでしょう。

    見方を変え、学校の勉強全体を考えてみると、学校の勉強はレストランの定食のようなものとも言えます。

    定食は便利な反面、中身を選ぶことはできません。

    定食だけで物足りない場合は、別にオーダーする必要があります。

    とにかく、今の学校制度に順応して勉強する限り、内容の過不足について文句は言えません。

    もし不満があるなら、自炊するように自分で必要なおかずを作ることになります。

    国は義務教育として、学校へ行くことを強制しているわけではありません。

    義務とは、保護者が子どもに教育を受けさせる義務を課しているわけで、学区の公立校が気に入らなかったら、私立を探してみるとか、それでも気に入ったところがなかったら、保護者の考えで「教育を受けさせる義務」を果たせばよいのです。
    思い切って留学させるという手もあるでしょう。

    学校の勉強は定食ですから、自分の目的から考えて足りないものは、学校以外に勉強を求めればよいのです。

    具体的には、ピアニストを目指す人はピアノの先生につく。
    オリンピックの体操の先生を目指す人は、そのような施設を探していく。

    これらはすでに行われていることです。

    英語教育は小学校から強化されますが、そのことのいい悪いとか必要性を論議するより、自分の人生にとって必要かどうかで決定すべきと思います。


    しかし、人生経験の浅い子どもでは判断が難しいと言えます。

    だからと言って、親の好みで決めるのもどうかと思います。
    親の人生ではないからです。

    子どもの進路は子どもに決めさせる。

    これが一番大切で、どういう進路をとったとしても、子ども自ら決めた進路に後悔はないはずです。
    正確に言えば他人の責任にできないということです。

    だから、誰か(偉い人かもしれませんが)の「これからは英語が必要だ」とか「英語は必要ない」はその人の描く人生に基づいたものですから、子どもにとって本当にいいか悪いかはわからないと思います。

    一番必要なことは、子ども自ら決められるように「社会の目を開いてやる」ということだと思います。

    その意味では、子どもに一番近い大人は、親であり先生であるということになります。

    親や先生は社会を見る目を持っていなければなりません。


  3. 教育改革の要~バカを出世させないこと

    12月 28, 2014 by dolce

    昨日は入試改革に触れたので、本日は教育改革について書こうと思う。

    教育改革の案はいろいろあると思うが、バカが出世するような仕組みになってしまったら、改善にはならないと思う。

    では、どうしたら良いかということになるが、決断次第ですぐできることはネット活用である。

    具体的には、教員にブログを書くように義務付けることである。

    現在は自由意志で投稿しているが、義務にすればどの先生も意見を書いているということが、保護者にわかるので、先生が何を考えているかわかるようになる。

    ■ブログでバカさの程度がわかる

    ブログを書くには、作文力が必要だが、作文は考える力がなければ書けない。

    特にひどい作文の例としては、支離滅裂なものがある。

    文章がいくつかの文節からなっているが、文節ごとの関連性がなかったり、突如何の根拠もないものが出て来たりするのは頭の中が分裂しているのであり、いわゆる分裂症の疑いがある。

    こういう人は、文章の読み方も変で、全体をまとめること、つまり統合することができないので、いくつかの文節の一つにしか言及することができない。

    文章を見れば、その人の人間像が浮かび上がってくるのである。

    ■国民にどういう人が教育をやっているのかわかるようにすべきである

    衆議院選挙の時は、裁判官の国民審査があるが、これほど国民をバカにした制度はない。

    何を考えているのかわからないような人物を、審査せよというのだから、この制度を考えた人間はバカである。

    教員は公務員であるし、私立学校の先生も準公務員と考えてよいと思うので、主権者の国民としてはどのような人間が教育をやっているか知る権利はあると思う。

    ブログを書かせることにより、ゴマスリかどうか現実と照らし合わせてみればよい。

    ぶろぐ村には教育関係者の投稿がいくつかあるが、実直で誠実さを感じるものから、プライドだけで頭は空っぽと思われるもの、前述したように分裂しているもの、先生にしては頭が悪すぎるもの、頭がROM化しているものなどいろいろである。
    ROM頭とはコンピュータに使われる記憶用のメモリのうち、書き換え可能なRAMと書き換え不可能なROMうち後者のような頭の人のことを言う。昔で言う「石頭」に似ている。
    (ブログには誤りを指摘されても、訂正されないものがある。教育を語っているのに当用漢字に基づかない記述をしている人もいる)

    採用試験では「なぜ先生になりたいのですか」という質問はあると思うので、そこで言ったことも載せるといい。

    私が、本当にバカだなあと思った意見として「教員採用は採用試験で合格した無能な者を採用するより、コネで有能な者を採用した方がよい」というのがあった。

    こんな矛盾した考えを堂々と発表できるのは、相当なバカである証拠。

    ※普通に思考力がある人ならわかることだが

    「合格したが無能だ」とは誰が判定するのか?

    「コネで採用したが有能」とは誰が判定するのか?

    「だれにコネをつける」のか?

    の三つを矛盾と感じないバカである。

    ■バカが教育に携わらないことで、教育の信頼が築ける

    バカで肩書きばかりに憧れている者が教育をしていると、本当に教育に情熱を持った誠実な教師が迷惑をする。

    一般の人たちと話をすると「先生、先生と呼ばれ続けているので、偉いと勘違いしているのではないの?」とよく言われる。

    そうかもしれない。

    だから、オレが教えてやるという姿勢が身についてしまうのかも知れない。

    オレが教えてやるより、教師は「実践と考察」である。

    自分の実践を発表し、その結果が成功でも失敗でも、ありのままを発表してくれることが、皆の役に立つと思う。

    もっとも、実践の機会のない人、なかった人にはできないことだが。


  4. 入試改革の波紋

    12月 27, 2014 by dolce

    暗記に偏った現在の大学入試を改革しようという動きがあった。

    現在の小学校6年生が大学入試を迎える頃には、新しい入試に変わるということだ。

    この改革はこれまでの教育環境に様々な影響を与えることが予想される。

    ■頭脳から知能へ

    コンピュータには人工頭脳と人工知能がある。

    人工頭脳は通常、我々が使っているパソコンで、これは記憶したことしかできない。

    これに対して人工知能は推論ができる。

    推論には知能が必要である。

    現行の入試では記憶中心だから、知能を使わないということになる。

    こういう状態では、人間よりパソコンの方が有利で、人をテストする試験としては意味がなくなってきている。

    人工知能も将棋やチェスで人を負かすぐらい進歩しているが、人の知能と比べたらまだまだ能力は低い。

    それより、一時的な機械的な記憶量だけで人を選別するのは、その後仕事をする場合の能力の予想にならないということである。

    人が機械と競争していても意味がない時代である。

    ■考える力が試される時代へ

    考える力とは知能のことがあるが、まず何をおいても語学力が大切である。

    語学力の中でも、読解力、聞く力、作文力は最も知能を要する能力である。

    これは、教員が作るテストにも大きな影響を与える。

    これまでは、テストの採点は模範解答と照合するだけでよかった。

    こういう客観テストは記憶力に偏りすぎると言われながらも使われてきた。

    その理由は採点者によって差がでないというのが、最も大きな理由である。

    しかし、読解力、聞く力、作文力を問うテストでは採点者によって差が出る可能性がある。

    ここが、入試改革の最も大きな課題であると思う。

    記述式が多くなれば、受験者による回答の仕方に差が出るだろう。

    そうすると、採点者の読解力が低いと、正しく採点ができない恐れが出てくる。

    例えば、私の記事「何のための教育か」はどれほどの人が正しく読めているのだろうか?

    長文を読ませて、その要旨を書けというような出題は「まとめる」という知能的作業なので、少なくとも教員にあっては誰もが正しく読めなければ、児童生徒を教える者としては失格である。そうでなかれば、これこそ正に指導力不足教師ということになる。

    現役の教師なら正しく読めない人はいないと思うが、作者の立場で、一応要旨を示すと以下のようになる。

    高度に組織化されている今の社会では、自分に課せられた仕事を何の疑問を持たず機械的に処理することだけに慣れてしまっている。そうすると、何かまずいことをしていても気づくという力が失われて、他に害を及ぼしかねない。そういう危険性を回避するためにも、慣れた仕事に対しても批判する力を失わないようにしなければならない。

    これが、要旨の回答例である。

    そっくりこのように書かなくても、同様な文章にまとめられたら正解である。

    少なくとも、何かに反対している文章ではないので、例えば学習指導要領の批判と読みとった回答は☓である。

    記述式試験になると、教師の読解力が要求される。

    ■本当に教師としての力量が求められる

    論理的に読み解いていく問題ならまだいいが、文学的要素が入ってくると、採点はさらに難しくなる。


    しかし、そいう難しい要素が入ってくるほど「人間らしい」と言えるので、それを判断する立場の教師に要求される力が問われることになる。

    そういう意味で、本当に力のある人が教師をしなければ、価値あるものの得点が低く、逆に価値のないものに高得点を与えてしまって、才能のある者の芽を摘み取ってしまうかも知れない。

    塾や予備校も、問題集の答えの照合だけでよかったものが、それだけでは済まなくなる。

    塾や予備校は入試改革に向けて新たな対応を迫られる。

    予備校の講師も、簡単にはなれない時代がやってきそうな気がする。


  5. 何のための教育か

    12月 26, 2014 by dolce

    働き蟻や働き蜂は生まれた時から、決められたプログラムにより忠実に仕事をするようになっているのだろう。

    ひたすら働き続ける姿からは、時に仕事に対する疑問や新たな工夫をするということはないように見える。

    人の社会も高度に組織化が進んでくると、組織内の人は蟻や蜂のように黙々と仕事をするだけのように見える。

    今年も教育について、たくさんのブログの投稿があったが、人は何のために教育をするのか、今の仕事は他とどんなつながりがあるのかどの程度言及があったのだろう?

    ヒトラーのナチが政権を握っている時代には、ガス室で多くの人が殺された。
    そこで働いていたヘスという男はナチに雇われた一人のサラリーマンであった。
    彼は妻と何人かの子どもを持つ、家では良きパパであった。

    彼の仕事は毎日、ガス室のある館に勤務し、ガス栓を開くことであった。
    ガス栓を開くことで何が起こるのか、彼が知っていたかどうか私にはわからないが、ナチに命令された仕事を、何の疑問も持たず忠実に実行していれば、彼の家庭は幸福に包まれていた。

    現在の日本で働くサラリーマンが、他人に害を与える仕事をしているということはないだろうが、果たして自分の仕事が他とどのようなつながりがあるのか、どれくらい認識をもっているのだろうか?

    こういうことは、学校教育に携わる教員も例外ではない。

    組織のコマとして黙々と忠実に仕事をこなしていれば、平和であるが、それが教育の名のもとに、誰の利益になっているのだろうか?

    ■教育は立場の違いによって違ってくる

    「教育とは何か」と問われても、私には答える術はないが、誰が何のために教育をするのかと問えば、自ずから答え方ははっきりしてくる。

    (1)国の立場からの教育

    国としては税金を払ってくれる国民が多い方がよい。多額納税者も歓迎するところである。
    税収がなければ国が成り立たないから、税収が多くなるための労働者を育成したいという考えが働く。
    特に、何の疑問も持たず労働者としてひたすら働いてくれる国民がいい。

    (2)政党の立場からの教育

    政党としては、自分たちの勢力の維持、拡大が保てるための教育が望ましいという力が働く。

    (3)国民の立場からの教育

    平和で幸福な人生。真実を知るための知恵をつけてくれる教育が望ましい。

    —————————————————————————————–
    このように3つを並べてみると、(1)(2)(3)の立場からの教育が必ずしも一致するとは限らない。

    例えば、政権批判は与党にとっては望ましくないし、身を削ってまで働いて税金を収めたいと考える国民は国にとって望ましくない。

    個人を大切にしない教育は国民にとって望ましくない。

    教育は立場のエゴが強くなると、歪んだものになる。

    だから、教育が歪んだものにならないためには、国や与党に対する批判が言いやすい教育をする必要がある。

    国が悪くなる時は、批判的な国民の口を塞ごうとする時である。

    戦前は、そういう教育が行われたということを知らない人が増えてきたのでは、と思う今日では改めて「誰のための教育か、何のための教育か」を問いなおす必要があると思う。

    何の疑問も感じない、プログラムだけを忠実に実行することをよしとする働き蟻、働き蜂であってはならないし、そういう子どもの育成をしないようにしなければならない。

    そういう意味では、先生に従順な子どもがよしとする圧力を子どもにかけないようにすることも大切である。

    ■学習指導要領は経典ではない

    教員(教師)は学習指導要領を常に批判的に見ることが必要である。
    批判的に見ると言っても、いつも反論しろと言っているのではない。

    学習指導要領は与党の意見が反映しやすい可能性があるから、政治に都合のよいエゴが反映されていないか批判的な目をもってみる必要があるということ。

    経典は無条件で従うものだが、学習指導要領はそういうものではない。

    戦前、軍国主義教育に進んだ文部省を忘れてはならない。
    学習指導要領は経典でもないし、憲法でもない。


  6. 頂上まで登ったら、あとは降りるしかない

    12月 25, 2014 by dolce

    登山中は上を向いて上を目指している。時折、下を見ることもあるかも知れないが、意識はいつも上にあるのだろうと思う。

    ところが、頂上まで達したらそれ以上登るところはない。

    だから、頂上まで登ってしまった人は絶えず上から目線になるのだろうと思う。

    これは実際の山ではないから、本人の意識にあるものだから、本人だけが頂上にいると思っていることになる。

    そういう人が黙っている時は、他人から見てもどのあたりに登ったつもりでいるかはわからない。

    しかし、発言すると、上から目線であることがわかるので「あの人は頂上に達したと思っているんだ」ということがわかる。

    人生の登山も、実際の登山のように見えるものならいいがそうはいかないので、まだほんの裾野しかいないのに、頂上にいるつもりで話す人を見ると滑稽でその様子が話しのネタになったりする。

    話し言葉は消えてしまうので、録音でもしない限り残らないが、ブログは記録に残るので、話題としては信ぴょう性が増す。

    場合によっては証拠になる。

    実際、偉そうにバカな考えをブログに残したために、言い訳のしようがなくなって職を失った人もいる。

    韓国で「ナッツリターン事件」が大事になり、副社長が自分の会社を追われることになった。

    もとはナッツ一袋である。

    この事件は記録がないが、大勢の乗客がいたので、これが証拠の役目をする。

    ナッツごときでクビとはまさに「口は災いのもと」である。

    ナッツ発言の当事者は態度が「上から目線」であった。

    そのことは、余計に反感を買う元となった。

    本人は頂上にいて足を踏み外し、まっ逆さまにふもとまでころげ落ちたようなものだ。

    ■小さな山の頂上で叫んで、どのくらいの人が聞いているのだろうか?

    本人は日本中、いや世界中に号令しているつもりかもしれない。

    しかし、少なくとももっと上の山に登っている人には聞こえない。

    こういう構図がブログに残れば、道徳のよい教材になるかもしれない。

    「うさぎとカメ」の話は絵本にもなっているが「頂上を極めたつもりの人」という題で、子どもに絵を描かせてみると、おもしろい絵を描くかもしれない。

    コンサートホールの楽屋の通路を歩いていたら、一人でギターを弾いている老人がいた。

    それを見た若者が、老人の傍に行き「ギターはこう弾くものだよ」と教えたらしい。

    その老人は世界的な演奏家だった。

    若者の指導を黙って聞いていた老人も大したものである。

    知らないということは強い。


  7. 60歳定年の意味

    12月 23, 2014 by dolce

    定年は何歳が適当かという意見を言いたいわけではない。

    60歳とか65歳は組織の制度上で決められたことである。

    なぜ定年制が導入されたかは、人は採用した時点で良い人材であったかどうかはわからない。

    つまり、少しでも良い人材を求めようとするのだが、実際は働いてもらわないとわからない。

    こういうことは、プロ野球のドラフトを想像するとわかりやすいかもしれない。

    1位で採用した選手が必ず活躍するかどうかはわからないし、育成選手であった人が活躍するかも知れない。

    人を採用することは、当たり外れがあるわけだ。

    もし外れだった場合、定年制があれば、そこで「ご苦労様でした」でさよならできるというのが、定年制の意図であったという説明を聞いたことがある。

    それなら、いい人材は継続して働いてもらえばよいのだが、現在は、一応「ご苦労様でした」ということになっている。

    ■人は何歳まで働けるのか?

    どこかに七五三という言葉があって、これは教員は退職後何年まで生きているかという数字だそうだ。

    校長が3年、教頭が5年、平が7年ということだそうだが、これはもっと昔の話だろうが、言いたいことは校長が早いということだろう。

    そう言えば、校長経験者が退職後旧に元気がなくなるという現象は感じるような気がする。

    全く時代感覚や常識から外れたことを言っている人にも会う。
    外れているんだが、偉さだけは残っている人もいる。

    バイキングなのに、どっかりと席に座ったままの人もいた。
    誰かが持ってくるのが当然と思っているようだ。

    ところで、65歳ぐらいが仕事からリタイヤする年齢だろうか?

    また、クルト・レーデル氏の言葉を借りると「音楽がわかってくるのはなかなかです。70歳ぐらいで『まあこんなものか』と感じるのがせいぜいです」ということだ。

    指揮者は老齢の人が務めていることも多い。
    それを見て「年の功」でやっていると思っている人がいた。
    私が「とんでもないことです」と言ったら、少しは理解したようだが、そういうことを言っている人は、指揮者の違いも音楽の違いもわからない部類なのだろうと思う。

    音楽の世界に年功序列はない。

    近年亡くなったNHK交響楽団の名誉指揮者・ウォルフガング・サヴァリッシュは久しぶりにNHK交響楽団を訪れて指揮した時は80歳を超えていた。

    私はNHK交響楽団の演奏でよかったと思ったものは、ほとんどなかったが、この時の演奏はすばらしくよかった。
    NHK交響楽団があれほど集中して真剣に演奏したのは珍しい。

    音楽に関心のない人にはわからないかもしれないが、歳とともに円熟さを増した指揮者からは人間的なオーラのようなものが出て、それが楽員に伝わるとでも説明しておこうと思う。

    ジャン・フルネは95歳で亡くなるまで現役指揮者であった。

    もちろん、指揮者としての力量が優れているので、仕事があったわけで、指揮者はサラリーマンではないので、どこからもお呼びがなければ自然廃業である。

    ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」はブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の録音が名演奏として定番になっている。

    ワルターは80歳を超えて引退宣言をしたのだが、レコード会社からこの名指揮者の芸術を残したいといことで、交渉した。
    ワルターは健康上の理由で断ったのだが、それならということでワルターの住居の近くにオーケストラを作って録音しようという企画で、コロンビア交響楽団が結成され実現した。

    50年ぐらいは前の録音なのに、未だクラシックフアンを魅了している録音である。

    ■引退年齢はその人の生き方による

    最近は認知症が話題になり、老齢人口の増加とともに健康が大きな問題になっている。

    認知症と言えば40ぐらいの人にもある。

    しかし、芸術家は歳が多くても若々しいと感じる。

    違いは何だろう?

    私は「頭を使わなくなる」からだろうと思っている。

    近くで懇意にしている女性は、特に芸術家でもないが85歳でも元気である。
    合唱団に参加しているし、バレエに外国語にと勉強している。


    健康そのもので、昨年、交通事故で車に跳ねられて路上を転がったが、骨折もせず少しの入院で帰ってきた。
    この女性、昨年から猫を飼いだし、私が訪問すると猫に向かって「私が死んだらね、この人に飼ってもらうんだよ」と言っているので、私にしたら女性が長生きしてもらうように祈っている。

    教員は勉強が仕事とも言えるが、毎年同じようなことを繰り返して、頭を使わなくなると早く衰えるのではないか。

    日本の老齢の問題は、頭を使わなくなることではないか。

    定年制は廃止し、頭が大丈夫なら働き続けることができるようにすれば、毎年増加し続ける福祉関係の予算の対策になるのではないか。

    出世ばかりに目移りして、ゴマスリで頭が働かなくなった人を退職させれば、ボケ校長もなくなるだろう。


  8. 集中力には波がある

    12月 22, 2014 by dolce

    年末はコンサートなどのイベントが多く、演奏機会も多くなっている。

    演奏で大変なのは、本番にいかに集中力を高く持っていくかということである。

    特に、参加したイベントで他の出し物が多く、自分の出番を待つ時である。

    今回参加したイベントでは、前が手品であった。

    演奏が自分だけの時は、準備は始めからできるのだが、そうでない時は前出演者が終わってから準備をしなければならない。

    そういう、もろもろのことがあって、出番を迎えるというのは、自分のところだけに集中すればよいのだが、何かゴタゴタしている感じで落ち着かないと精神も不安定になる。

    演奏はただするだけなら簡単ですが、演奏者は最高の演奏をしたいと常々思っています。
    しかし、外的環境の影響を受けて集中できないと、よい演奏はできません。
    人の精神は、集中力に波があるのです。

    集中力の波コンピュータのプログラミングに取り組んでいる時、難しいところに差しかかると、頭を使っている時、集中力の波があります。

    集中力が最高に達した時に解決したことは、あとで考えてみると他人が解決したことのように思えることがあります。
    自分が解決したのに、どう考えたのかわからなくなります。
    私はこういう経験を通して、自分で解決したことでも、記録をとっておくことの大切さを知りました。

    子どもが勉強に集中できないのは、夫婦仲が悪いとか心配事があって揺れているということを考えてみるべきだと思います。

    ■人の集中力は揺れている

    集中力は揺れている(波がある)ので、いい仕事をする(勉強の成果を上げる)には、落ち着いた環境が必要です。

    そういう意味では、今日、子どもを取り囲む環境は必ずしも良いとは言えないと思います。
    学校に何かを持ち込み過ぎて、落ち着かない環境であると感じます。

    子どもにとっては何の利益もない研究とやらを、大人の都合で持ち込んでいるのもその一つではないでしょうか?

    オーケストラの演奏では名演と言われるものがありますが、それは優秀な指揮者が優秀な楽員を統率してこそできたものです。

    昨日はNHKで札幌交響楽団のコンサートを放送していましたが、指揮者ラドミル・エリシュカ(83歳)の卓越した統率力で素晴らしい演奏をしていました。
    このオーケストラはこれからますます良くなる予感がしました。

    100年に1度ぐらいではないかという歴史的名演も、100人に及ぶ楽員と名指揮者によって遂げられたものです。

    小澤征爾氏の師匠でもあった、名指揮者シャルルミンシュの残したブラームスの第1交響曲の録音は、1968年の録音にも関わらず、未だに名演の筆頭として挙がってきます。
    作曲家のブラームスがドイツ人なのに、最も人気ある演奏をしたのが、フランス人のシャルルミンシュ率いるパリ管弦楽団であるというのも、おもしろい感じがします。


    シャルルミンシュはこの演奏をするにあたり、楽員が余計なアルバイトなどしないように、生活にも注文をつけたと言われます。

    ソ連時代の指揮者エフゲニ・ムラヴィンスキーがレニングラード管弦楽団(現在、サンクト・ペテルブルグ管弦楽団)を率いて録音したチャイコフスキーの交響曲第6番も1960年の録音ですが、今も人気の筆頭です。
    ムラヴィンスキーがレニングラードとともに来日した時、聴きに行きましたが、ものすごい集中力を感じました。

    ソ連時代ということで、全てが国営なので演奏家は演奏だけに集中できるという環境にもあったでしょうが、80歳を超えたムラヴィンスキーの統率力を感じることができました。

    ■落ち着いた学習環境を


    現代は受験勉強が勉強そのものというか、学問であるという錯覚をさせるところがあります。

    受験勉強が学力を高めるもののように、頭の中が汚染されてしまっている教師もいるような気がします。

    そういう教師は塾へ転勤したらいいのではないかと思ってしまいます。

    受験もそうですが、頻繁に変わる時間割を見ていると、子どもが落ち着かないのは当たり前とも思います。

    もっと落ち着いた環境で、集中できるようにすることと、子どもが全力を出し切ったという実感を持つように、集中できるように持っていける教師の統率力を高める必要もあると思います。

    それには、教師自体が「集中とは何か」を知る必要もあると思います。

    それには、身近で体験できる芸術に触れて、感性を磨く必要があるのではないでしょうか?

    子どもの感性は鋭敏であることが多いです。

    そんな中で教師が鈍感であったら、子どもは犠牲者になるような気がします。


  9. 指揮者は統率力のお手本

    12月 21, 2014 by dolce

    日本では年末にベートーヴェンの第九を演奏するのが恒例になっています。

    オーケストラと合唱を合わせると、200人ぐらいの大編成です。

    こういう大勢を統率する名指揮者をみていると、これは統率のお手本と言えます。

    最近は合唱にアマチュアを参加させる企画も多くなっています。

    私の地域も、プロオーケストラを招いて、合唱にアマチュアを加える演奏会が毎年続いています。

    アマチュアの参加は、いきなり本番ということはなく、何回もの練習を経ての参加ということになっています。

    参加した人は、練習も含めてその魅力にとりつかれ、毎年参加するという感じになっています。

    ベートーヴェンの第九は音楽フアンならよく知っているように、ベートーヴェン最後の交響曲です。

    それだけに、ベートーヴェンの集大成という感じもします。

    私は教師(先生)は指揮者に似ていると言っていますが、もう少し正確に言えば、指揮者は先生ができるが、先生が指揮者をできるとは限らないということになります。

    そういう意味では先生(教師)は、自分の技量を高めるにはオーケストラを聴きにいくべきだと思います。

    そこには教育の全てがあると私には思えます。

    できることなら、練習風景から見るといいと思いますが、プロの練習風景は特別に縁故でもない限り、見られないでしょう。

    合唱でもそうですが、演奏者が何人かいてその前に指揮者がいて、音楽を演奏するということは形こそ真似できますが、どこまで本物になっているかどうかは、実際の演奏を聴いてみないとわかりません。

    指揮者が変わると、音も変わっていしまうのは指揮者の違いを端的に表していますが、このことは教師にも言えると思っています。

    同じ内容の授業をしたとしても、教師が違えば生徒側の受け取り(理解)も違うことです。
    以前に書いたことですが、ある曲の指導をしている時、指導者がよく理解しているほど生徒の理解も早いということです。

    そんなことは当たり前だと言う人がいるかもしれません。
    それで、もう少し詳しく説明すると、例えば4拍子の曲があれば、指揮者の役目としては、正確に4拍子を振れば最低限の役目を果たしたことになりますが、曲そのものの解釈をきちんとしていないと、生徒も演奏が困難になるということです。

    つまり、指揮にハッタリは通用しないということです。

    演奏者が生徒(アマチュア)でなく、プロの場合は「この指揮者ダメだな」と思うと、演奏者だけで指揮者を放っておいて演奏してしまいます。

    こういうのを、オーケストラがバラバラになると言いますが、バラバラになると言っても、俗に言う学級崩壊になると言うことではありません。

    生徒が先生の授業を静かに聞いていても、授業に魅力がないと、生徒の頭の中は学級崩壊と同じということです。

    私が小学校で最後に受け持った学年は3年生でしたが、初めて習うフォークダンスを女の先生の1回の説明で全員できてしまったという話をしました。4年生は前年経験しているのに、何回も練習してできるようになったとも話しました。

    こう言うと、私が自分の指導の自慢をしているようにとる人がいるかもしれませんが、そうではなく、子どもたちの家庭の躾もよかったし、前年の担任の指導もよかったということです。

    子どもでなく大人も同じだと思います。

    つまらない授業では、心の中では「早く終わらないかな」と思っている人もいるでしょう。

    学校は全校合唱をする機会があると思います。
    この時は、その学校の音楽の先生の実力が明らかになってしまうようでもありますが、結果は全て音楽の先生の責任とも言えません。

    その他の先生の影響もあるのです。

    学習がしっかり行われていて、知的な感じがする生徒の中学校では混声4部合唱をしているところが多いような気がします。

    それができなければ、混声3部合唱です。

    それもできなければ、斉唱ということになります。

    「声が小さい」なんて先生の罵声が飛ぶような中学校は、普段の生活もそれなりという気がします。

    なぜ歌わないか、本質を見極める必要があると思います。

    合唱もオーケストラも、格好はつきますが、いい指揮者になると音楽の密度が高くなると言えます。
    100人が一つになるということです。


    だから、良い指揮者のCDはよく売れるし、コンサートもチケットは早々に売り切れるわけです。

    音楽の先生でなくても、ある程度の音楽の鑑賞力は持つべきだと思います。
    それで、生徒を観察する目も肥えると思うのです。
    つまり、神経が鋭敏になるわけで、そうでないと、生徒の発している大切なサインを見逃している鈍感な先生になってしまうような気がします。

    私がクラシック音楽が好きになったのは、中学校時代の理科の先生の影響ですが、その先生は電気科を卒業した先生だったので、ご自分でオーディオセットを作りました。

    その先生の魅力的な授業に惹かれて、数人で先生の家に遊びに行ったことがあります。
    そして、先生の自作の装置の音に衝撃を受けました。
    音も音ですが、その時聴いたジャン・マルティノン指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のチャイコフスキー「交響曲第6番『悲愴』」にも衝撃を受け、すっかり虜になってしまったのです。

    鮮烈な衝撃を受けたせいで、真空管の6B-Q5という型番、P-610というスピーカーの型番も覚えてしまいました。
    だから、私は「感動があると記憶に残りやすい」と言いたいわけです。

    そも頃、ジャン・マルティノンという指揮者は来日してNHK交響楽団を指揮しました。
    評論家の間では「N響からどうしてこんな音が出るんだ」と話題になりました。

    授業の密度が高くなり、学習効果が出るのも名指揮者と同じようなところがあると思うのです。


  10. 教師の大切な能力~統率力

    12月 20, 2014 by dolce

    教師はいずれかの教科を専門に担当する。
    小学校では一応、全て教科を受け持つことができる。

    そういった、教科の知識や技術は学ぶことができるが、その他に、教師に要求される大切な能力として、統率力というものがある。

    某楽器メーカーの主催による吹奏楽の勉強会があった。

    そこでは、ある小学校の吹奏楽部が招待された。

    司会者が始めに話したことは

    「いやあ、わたしがまず驚いたのは、この子どもたちを静かに座らせておく学校の先生の力です」

    ということだった。

    合唱でも吹奏楽でも、それなりに指導している先生には確かにそういう力がある。

    特に小学生であれば、クラスが蜂の巣をつついたような状態になり、それが放課ならともかく、授業中もそういう状態になってしまうことがある。

    不思議といえば不思議であるが、先生によっては、子どもがピタリと落ち着いて席に着く。

    別にその先生が怖いわけではない。

    先生もその状態がごく普通の状態であり、自然に授業に入る。

    教育実習生が来た時、私が教室に入ってさあ授業という時、子どもたちはサーッと席に着いた。

    それを見た実習生が「やっぱり違うなあ」と言ったのを覚えている。

    これは、合唱や吹奏楽など常日頃指導している先生にとってはあたりまえのことである。

    ベテランの先生の中にも、自然に子どもが静かになる先生もいる。

    これは、ベテランの先生が長い時間のうちに身につけたものかも知れない。

    では、そういうベテランの先生が合唱部の子どもを落ち着かせられるかというと、必ずしもそうは行かないだろう。

    集団が静かに落ち着いて話を聞こうとする雰囲気にさせるのは、統率力の象徴的な姿である。

    私が教師と指揮者は似ていると言うのは、指揮者には間違いなくそういう力がある。

    しかし、指揮者になるために、そういう統率力を学ぶという機会はない。

    だから、クルト・レーデル氏は指揮のテクニックで「勉強すれば指揮者になれますか?」の問に対して「勉強しても、必ず指揮者になれるとは言えない」と答えている。

    だが「学べることはすべて学ぶべきである」と答えている。

    ■教師として大切なこと

    クルト・レーデル氏の言葉を借りれば「先生になるためには、先生として学べる必要な学問はすべて学ぶべきである」ということになるが、これは先生としての必要条件ではあるが十分条件ではない。

    それに加えて統率力があれば十分条件が揃ったと言えるだろう。

    この統率力については、私は前々から興味を持っており、どうしたら統率力なる力を持つことができるのかを考えてきたが未だその決定的な答えは見つかっていない。

    しかし、これだけは言えるような気がするというものはある。

    1.大学時代、クラブの部長をやったり指揮者をやったりして苦労してきている者は例外なく、教員になってからも小学生や中学生をうまく統率している。そして、授業にもその力は出ている

    2.お坊ちゃん、お嬢さんで過ごしてきた人には統率力を感じない


    などである。

    子どもを静かにさせるには恐怖政治をすればよいかもしれない。

    しかし、それでは子どもは萎縮してしまい、全力を出させることはできない。

    統率力のある人は、子どもはのびのびしているのに、けじめを心得ている。

    ■子どもも大人も同じ

    実は、必要なときに静かになるかどうかは大人も同じである。

    これはオーケストラの練習をみるとよくわかる。

    大人の場合は、子どものようにうるさくはならないが、指揮者に統率力がないと、空気が退屈になり、話を聞いていない。

    プロのオーケストラでも、名指揮者になると練習でも本番でも全体がすごく集中する。

    これが、名指揮者たる所以とも言える。

    ■武者修行

    時代劇には修行に出た武士が、道場を見つけては腕試しをするという場面がある。

    私もそんなつもりで、中高、一般のバンドやオーケストラに頼まれた時は、自分の統率力がいかほどか試すつもりで出かける。

    始めの紹介の時は、黙っていると、紹介者がとにかく大げさな紹介をするので、私は「何も言わないでくれ、ただのおじさんが来たでいい」と断っておく。

    静かに従ってくれなっかたら、それが私の実力だと思っている。