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11月, 2014

  1. 普段着の授業

    11月 30, 2014 by dolce

    人間は外に出ると、少なからず何らかの緊張状態に置かれ、本来の力を発揮できなくなる。

    外出した途端にストレスがかかるわけである。

    ある俳優は、いろいろな役をやっていると、どれが本当の自分かわからなくなってくると言っていた。

    しかし、俳優でない人は演技をしていないかと言うと、そうでもないと私は思っている。

    人は無意識のうちに演技をしていると思う。

    演技をしているということは、本当の自分を見せていないということである。

    人は自分を言葉ではいくらでも繕うことはできるが、実践するとなるとそうはいかない。

    ブログも繕うことはできるが、繕いはいつかボロが出る。

    それより、指導効果が実のあるものにするには、指導される側が演技をしていない状態でなくてはならない。

    ある学校の研究発表に参加したら、授業はまことによどみのないスマートなものだった。

    あとで、同行した人と話をした。

    「みごとな授業だったね」

    「あなた、知らないんですか?」

    「え?」

    「シナリオができているんですよ」

    「・・・・・」

    公開授業では、教師の発言、子どもの発言のシナリオが作られていて、授業自体が演劇ということなのだ。

    一体、誰のための研究発表なのか?

    教育は子どものためと言いながら、実態は教師のためなのだ。

    教師のために子どもは奉仕している。

    学校は税金を使って、国民のために仕事をするはずなのだが、教師は給料をもらって、さらに子どもに奉仕させている構図が見える。

    子どもが教師のために授業に協力しているのなら、子どもの方が報酬をもらうべきだろう。

    教師はなぜそういう芝居にエネルギーを費やすのだろう?

    校長の性格にもよる。

    校長が、いわゆる色気の多い人だと、売名のために教師に協力させる。

    どこかの中学校は道徳の研究発表をやり、その後、校長は教育長になっていった。

    話しにならないのは、その学校からいじめで自殺した子どもがいたことだ。

    学校がこんな芝居をしている以上、教育改革といくら叫んでも教育改革にはならない。

    一番の問題はそういう実のないイベントを続けることではない。

    一連のそういう流れを子どもが学習することで、子どもが大人の醜さを学んでいくことだ。

    いや、それはそれで反面教師になるではないかという考えもあるだろう。

    確かに、そう言えなくもないが、この教育の成果は、子どもが教師を信用しなくなることだ。

    たいていの子どもは、在学中にこの教育を身につけ、教師に嫌われないように従順に芝居に参加する。

    努めて先生に恥をかかせないようにする。

    ■子どもに演技をさせないようにする

    まあ、やや誇張して話をしたかも知れないが、多かれ少なかれ、演技は存在する。

    だが、演技をしているうちは指導効果はないと考えているから、私は極力それを排除するように努める。

    それには、まず指導する側が演技をしないようにしなければならない。

    指導者が演技をしなければ、子どもの方も次第に演技がなくなる。

    どのくらい流行っているのか知らないが、例の「学び合い」も学校中あげてお祭りのようになると、子どももその空気を察して、演技で協力するから、下手をするとその演技を見て感心することになるかも知れない。

    余談になるが、大学在学中、教育実習に行く前の指導を受けた時、指導教官に

    「君たち、わずか三週間だけいい子になるのは難しいことではないぞ」

    と言われたのを思い出した。

    私は努めて子どもの本音を出させようとしているので、子どもが先生に遠慮なく質問したり反論したりするのを歓迎している。

    本当に子どもがその気になって何を言うかわからないとなると、警戒警報、つまり予防線を張る人がいるが、そういう態度そのものが子どもの意欲を削いでしまう。

    PanandDaphnis「わからないことはわからない」

    「調べてきます」

    「先生が間違っていました」

    率直に言えばいいのだ。

    「先生、あれは馬ではなく羊です」

    私がギリシャ神話を間違えていたところを生徒に指摘されたことがある。

    「先生が間違えていました。ありがとう」

    生徒の方は、かえって親近感を持ったようだった。

    ドビュッシーに「牧神の午後ヘの前奏曲」は文字通り牧神が出てくる。

    目の前の課題に対しては、子どもも教師も一体となって、解決に向かう。

    教師は格好をつけていないで、普段着で取り組むことによって、子どももありのままの姿で思ったことを言うようになると言うのが私の考えである。

    これは、教師と子どもが慣れ合いになることではない。

    大人相手の指導でも同じである。

    市の職員から成る吹奏楽では「わからないと思ったことは、率直にわからない」と言ってくださいと話したら、意図をすぐに理解してくれて「確か学校で習ったはずだが」と思うようなことでも、遠慮なく質問が出るようになった。

    大人になるに従って、見栄は強くなる人もいる。

    しかし、人前でも「わからないと感じたら、わかりません」と言うことを言えるようにする。言える雰囲気を作る。

    どうかすると、中学生でも見栄というか変なプライドがつきまとう。

    具体例をあげると、楽譜にはいろいろな記号が書かれている。それらはどういう意味か一応解決しておかねばならない。

    だから、あらかじめ子どもには意味を調べておくように言う。

    ここは自己診断の意味もある。

    まず、わかることとわからないことをはっきりすることは、学習のスタートである。

    もちろん、わかったつもりでも、わかっていないということはあるが、それこそ勉強になるところである。

    ferumata例えば、つい先日問題になったことだが

    「先生、ここのフェルマータ何拍伸ばしますか?」

    という質問があった。

    どうも、ある音楽教室では便宜的だろうが、フェルマータの音を伸ばす時、拍数を決めているようだ。

    もちろん、フェルマータの拍数を決めるのは間違いである。

    フェルマータはバスの停留所の意味があり、ここで止まるということである。

    だから、フェルマータの時は拍を数えない。

    新聞に外国の街を写した写真で、停留所にフェルマータの記号が写っていたことがあった。

    「わかった」は「本当にわかった」ではないことがある。

    自己診断は大切である。

    試験では「適当に伸ばす」と書けば点はもらえるだろうが、実際はどうするのかというと、必ずしもできない。

    だから試験はあくまでも試験であり、点数を取るだけのものになってしまうことがある。

    試験用の答えだけで終わることなく、実になる勉強をすることである。

    そういうために、教師は必要である。子どもだけに任せることは危ない。

    フェルマータを「適当に伸ばす」と書いて○がもらえるのは、学力ではないと思うのである。


  2. 誠実性が求められる教育の仕事

    11月 29, 2014 by dolce

    子どもを動かす力は「如何に誠実であるか」であると、私は思っている。

    なのに、如何に不誠実がまかり通っているかが、教育の世界ではないかとも思う。

    多いのは「空虚な言葉」である。

    七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき

    は、中務卿兼明親王の詠まれた歌と言われる。参照:道灌の山吹伝説

    実はなくても花は美しくていいのだが、美しくもなく実もないではどうしようもない。

    ■借りてきた猫

    cat客演指揮者のように、客演指導者であったり、今日はよそ行きという場合がある。

    非日常と言った方がよいかもしれない。

    そういう状態の時は、人は本来の姿を表さない。

    ここまでの言い回しでは、読者は、いろいろ想像はしても、何のことか今ひとつピンとこないだろう。

    そして、ここで文章を終わると、不満の気持ちが残るだろう。

    しかし、そういう文章は多い。

    なぜ多いのか?

    実践がないからである。

    だから空想を述べているに過ぎない。

    空想は「花は咲けども実のひとつだになき」と同じである。

    誠実ではない文章である。

    「借りてきた猫」という言葉があるが、ネズミに困った人がよそから猫を借りてきても、猫は環境の変化に緊張して、周りに警戒ばかりしていてネズミを取らない。

    それで、あまり動かない。こういう猫の状態を「借りてきた猫」と言う。

    だから、子どもが本来の状態を表すのは「借りてきた猫」状態でなくなった時である。

    学校では授業中ではなく、放課に子どもはそういう姿をあらわす。

    だから、私は放課には職員室に閉じこもらず教室にいた。

    始めは、先生がいるということで、子どもは「借りてきた猫」であったが、慣れてくると、先生の存在を気にしなくなる。

    そうなった時、子どもの姿がよくわかる。

    吹奏楽の指導で初めての学校へ行くと、子どもは、知らない人が来たということで「借りてきた猫」状態になる。

    こちらも初対面ということで、いつもより丁寧な言葉を使ったりする。

    ある日、私の行う練習を恩師が見ていたことがある。

    恩師は

    「だめだめ、いつもの先生と違う」

    と言った。

    つまり、私が「よそゆき」の練習をしていて、遠慮しながら指導しているというのだ。

    ■よそ行きでは儀式に終わってしまう

    研究授業は儀式になりやすい。

    いや、子どもが学校にいるという状態がすでに非日常である可能性が高い。

    子どもにとって先生は権力者だから、子どもは少なからず先生に警戒心を抱いている。

    そういう状態では、叱られないように、褒めてもらうように、機嫌を損ねないようにという配慮が働いている。

    独裁的傾向が強い先生の下であるほど、子どもはそういう配慮を強くするだろう。

    先生は先生の方で、よそ行きというか、教育的な美語を使って授業をすることになる。

    わかりやすく言えば、心にもないことを言ったりする。

    つまり、学校では子どもも先生も本音ではなく、よそ行きで語るから、互いに儀式をやっていることになる。

    互いに役を演じていると言ってもよい。

    研究授業となれば、子どもも先生に協力する。

    それは、先生にもいい気分になってもらわないと、事後の付き合いが悪くなるかもしれないから。

    子どもはそこまで心理分析をしないが、人間には本来、適応能力というものがあるので、穏便にという心理が働くものと思われる。

    私が教育実習で小学校に行った時、研究授業が終わったあと、何人かの子どもたちがやってきて「先生、よかったよ。あがってなかったよ」と気遣ってくれたことが痛く心に刺さっている。

    かくして、学校では本音の出にくい儀式に終わりやすい。

    こういうことで平和に過ぎていく学校生活を、私は自分で「学校ごっこ」と言っている。

    ■学校ごっこを脱するには

    世の中に本音と建前は多いものだが、子どもも先生が本音と建前を使い分けていることを知っている。

    しかし、それをとりたてて悪いこととは思っていない。

    本音と建前がまずいのは、子どもが本音で言っても建前と解釈してしまうことである。

    「先生だから、ああ言うんだ」と思ってしまうと、一応了解したという態度を示せばよいということになる。

    もっとはっきり言えば、建前は聞かないでもよいと思ってしまうことだ。

    そういうことを子どもが身につけてしまうのは、先生の一部始終を見ているからだ。

    先生という存在は子どもにとって、良くも悪くも影響のある存在だ。

    子ども自身が大人になっていく上でのモデルでもある。

    ところが、本音と建前の使い分けをしない先生が登場すると、子どもはびっくりする。

    そして、先生の言うことは本音なのだと認識すると、子どもは先生の言うことをよく聞くようになる。

    つまり、子どもの心が動くということである。

    ここで初めて学校ごっこではなくなる。

    ■自分が手を汚さないことは気楽である

    野球の試合を外野席で見ているようなものである。

    無責任であろうが何であろうが、自分には責任がかかってこない。

    学校で言えば、担任もしない、授業もしない、役職でもない(形式だけの役職)という立場にある人だろう。

    気楽ではあるが説得力もない。

    私が吹奏楽やオーケストラ、合唱など子どもと一緒に活動する音楽が好きなのは、音楽そのものが好きであるということもあるが、本番では子どもと一緒になって責任の一端を担うからである。

    子どもと一緒になって舞台に上がり、責任の一端を担う活動は、そうあるものではない。

    この世界では建前は通用しない。

    日頃、偉そうに言っても、舞台でそれなりの指揮をしなければ、信頼は崩れる。

    もっとも、日頃の練習で変な指揮をしていると、本番で子どもは指揮を見なくなる。

    舞台上では、本来は子どもにとって指揮だけが頼りなのだけれど、いいかげんな指揮では心配なので、子どもは指揮を見なくなる。

    そして、演奏は縮んでしまう。ごまかしのきかない世界である。

     巧言令色鮮し仁

     


  3. 学校へ行く義務はない

    11月 28, 2014 by dolce

    正確に言えば、子どもには学校へ行かなければならない義務はありません

    日本国にはそういう法律はありません。

    しかし、保護者は子どもに教育を受けさせる義務があります

    だから、保護者は子どもを学校に行かせなくても、教育を受けさせる義務を果たせばよいのです。

    保護者に、子ども学校へ行かせる義務を課したのは、昔は子どもが幼くして奉公という形で働きに出されたことがあり、そうすると働き先の使用者が学校へ行かせないなど、子どもに教育を受けさせない場合があることを想定したためです。

    子どもが教育を受けたいと言えば、保護者はそれを止めることはできません。
    子どもは教育を受ける権利を持っているからです。

    子どもに学校へ行きたくないという意思があり、保護者も学校は必要はないと思えば、子どもが学校へ行かなくても問題はありません。

    実際に、学校の意義を認めないと言い、子どもも承知で学校へ行かなかった有名人の例もあります。

    現在の学校の意義を認めない方は、子どもとよく話し合ったらいかがでしょうか?

    学校だけが教育の専売特許ではありませんから。

    保護者は子どもが教育を受ける権利を妨げないよう、くれぐれも注意してください。


  4. まずは情報が確実に伝わること

    11月 28, 2014 by dolce

    日本は外国に新幹線の技術を売ろうとしています。

    日本人の国民性というか、きめ細かい丁寧な技術開発が信頼を得ているようです。

    同様に、日本の水道技術もレベルが高いそうで、外国への売り込みが行われているようです。

    水道の場合、水質は大切ですが、途中での漏れが少ないことも大切です。

    その点では、日本の水道は配管途中での漏れが大変少ないことです。

    ものごとを発展させるには、新しい発想、新しい技術も大切ですが、これまで培ってきたやり方を確実に行うことも大切だと思います。

    ■指導の開始は教師の発言から始まる

    学習は教師の指示から始まります。

    始めの言葉がしっかり伝わらなかったら、水道で送る水が漏れていて、目的地に届かないようなものです。

    音大に進学した生徒に、オーケストラの練習の時間のことを聞いたことがありますが、その中で私が「プロとアマチュアの違いは何か」と質問したら「2回同じことを言われないことです」という返事が返って来ました。

    指揮者が来て、どのように曲を作っていきたいかを演奏者に伝えますが、2回めの練習の時、前回に言われた指示を守らないと、みんなに馬鹿にされると言っていました。

    そして、次の時には座る席がないとも言いました。

    私は、これは大切なことだと思い、プロに限らず守るべきであるし、子どもの時からこういう姿勢を身につけて行くことは非常に有益なことだ思いました。

    それ以来、子どもにはそういう気持ちを伝え、実践することにしました。
    三角柱の緑、黄、赤で表示するのは集中して先生の話を聞く習慣をつける意味もあります。

    私は小学校3年生を担任したことがありますが、運動会で3、4年生がフォークダンスをやることになりました。
    4年生はすでに前の年にやっていました。
    4年生の担任の先生が「3年生の子たちは始めてだから、よく説明を聞いてくださいね」と言い、踊り方の説明がありました。
    そして、説明の後、3,4年生同時に踊りましたが。4年生は3分の1ぐらい踊れませんでしたが、3年生は1回の説明だけで、全員できてしましいました。
    4年生の担任は「あなたたち、去年やったのにどうしてできないの?」と言っていました。

    3年生では、音楽でリコーダーが始まります。
    私は一斉授業の他、アンサンブルのためのグループを作り、授業を進めました。

    リコーダーの指導はどういう方法をとったかというと、教科書の他にリコーダーの練習書を使うようにしました。
    この練習書はやさしい曲から難しい曲まで、順に1から88まで番号がついていました。

    私は始めにこの本の使い方を説明し、後は「笛のテスト」という時間をとって、一斉に演奏させるのではなく「自分で練習して、できたと思う子はテストを受けるように申し出なさい」と言いました。

    すると、自信のある子どもからテストを受けるようになりました。
    演奏を聞いて、合格と判断するとその曲の番号に判を押してやりました。

    すると、授業以外でもテストを受けたいという子どもがいたので、放課にも受け付けることにしました。
    自主的にテストを受ける者が続々と続くようになり、強制はしませんでしたが、全員がテストを受けるようになりました。

    この練習書は小学校卒業までに全部できれば十分(というより、終わりの方は中学生でも難しい)ですが、3年生のうちに最後の88番まで終わってしまった子どもが2人いました。
    それで、この2人は保護者に話して、中学校で習う領域をやらせました。

    大勢に等しく同じ指導をしても、進歩の度合いには違いが出ます。
    楽器を演奏するということは、技術的問題も含んでいますから、頭では理解できていても、指がそれに追いつかないという場合もあります。

    人は個人差がありますから、大勢を集めたらみな違う個性が集まったと考えられます。
    単純にできるできないの分類ではなく、優秀な者でもその優秀さは違います。

    そういう違いは、特に音楽の場合は知識だけでなく、音を通じてよくわかります。
    つまり、人間の差は、世界トップクラスのオーケストラ、ウィーンフィルやベルリン・フィルの一人一人にも言えることです。


    教師は確実に全員に分け隔てなく教えなければなりませんが、人の成長はまちまちになります。
    だから、学校ではその学年の終わりにはどこまで進歩するかわかりませんが、一番大切なことは、誰もが進歩し続けることだと思います。

    学校では学年の区切りがありますが、勉強は一生であり絶えず進歩し続けるということが大切だと思います。

    国によっては、学年ごとに審査をして進級できるかどうかわからないところがありますが、日本の義務教育は年数主義という方法をとっていて、学年は単なる通過点に過ぎないのです。

    そうではないドイツでは落第がありますので、これはまた日本とは違った事情があります。

    ICT時代と言われますが、そのICTも情報の伝達が不完全であれば、目的地に届かない水道水のようなものです。
    情報の伝達は機器だけではなく、人間の意識の問題として、子ども側の態度としては「先生の話をよく聞く」先生側は「どの子どもにもよくわかる声、言葉で話す」という態度や精神の問題を確認したいものだと思います。


  5. わかるのレベル

    11月 27, 2014 by dolce

    今回は「わかる」のレベルについて考えてみたいと思います。

    ■わかるの意味は深い

    ひとことで「わかる」と言っても「どの程度」という深さがあります。

    簡単なところでは「声が聞こえる、聞こえない」というわかるがあります。

    会話をする時、聞こえないでは話になりません。

    また、聞こえても「わかる」かどうかはまた別の問題です。

    英語が聞こえても、意味はわからないということがあります。

    しかし、日本語なら日本人がみなわかるということでもありません。

    いわゆる「難しい話」になると母国語でもわからない場合があります。

    だから、教師が子どもに対して、わかったかどうかを確かめる時、聞こえているのか、内容を理解しているのかどうか注意しなければなりません。
    順序としては、まず聞こえているかどうかが最初になります。

    広い場所で「わかりますか?」と聞く場合は「聞こえているか」を確認し、必要に応じて、大きな声で話す、拡声器を用意するなどの手段をとることになります。

    「わかる」という言葉の意味(中身)は、時と場合により区別して考えねばなりません。

    ■子どもが「わかった」と言えばわかったのか?

    sannkakuchu「わかった」という言葉は、気安くよく使われる傾向がある。

    「長方形の面積は縦✕横です。わかりましたか?」

    「ハーイ」

    わかった子どもは三角柱の緑色を出す。

    全員、緑色を出しているか確認する。

    これは「一人も見捨てない」という教師の姿勢だ。

    全員、緑色を出していたら「わかった」のか?

    いや、子どもは「わかった」と表示しただけで、本当にわかったかどうかはわからない。

    そこで、確認のためにいくつか問題を出してみる。

    とりあえず3問。できた人から緑色を出しなさいという。

    全員、緑色を出したのを確認して、答えの確認をする。

    全部正解の人は緑。

    このようにして、ダメを押す。

    全員が緑色になったら、面積の計算はわかったのか?

    いや、ことはそう簡単ではない。

    ここまでできたとしても、縦✕横の作業ができただけである

    これで終わってしまうと、単に縦✕横の作業を身につけただけで、面積の求め方を理解したかどうかはわからない

    理解したという時にもわかったを使うから「わかった」はややこしい。

    なぜこんなことをいうかと言えば、質問の相手は子どもに限らず大人にでも「なぜ縦✕横で面積は計算できるのですか?」と質問した時、どのくらいの人が答えられるのかと思うからである?

    「学校でそう習ったから」は、もちろん答えにはならない。

    答えられない人は、おそらく、始めに習ったことを忘れている。

    始めに学ぶことは基礎・基本である。

    基礎・基本は大切だと口癖のように言う人は多いが、実際、どれほどその大切さがわかっているのだろう?
    そして、どれほど身を持って感じているのだろうか?

    面積の求め方の理論は、一辺が1cmの正方形を単位としてそれがいくつあるかを数えることが基本である。
    そして、これは積分の理論に継承されることが含まれている。

    小学校の教員免許状を取得するための学科は、小学校レベルのことを習うわけではない。
    私が算数科の教育法を学んだ時は積分も出てきた。

    小学生に積分を教えるわけではないが、小学生に算数を教えるには教師として、そのぐらいの深さが必要ということである。

    そのぐらいの力があるから、教育現場では教える教師は意識していないでも、教えられる者からは信頼、迫力という空気のようなものを感じるのだと思うのである。

    教師にはそういうものが必要だと思っている。
    しかし、子どもだけの4人ずつのグループを作って、そういう教師の代わりになるものが出現するかというと、とてもそうは思えない。
    流行っている『学び合い』を懐疑的に感じるところである。

    私が大学で教育史を学んだ先生は、著書「家庭学習のさせ方」で「英語を教えてもらうなら、大学教授をやっているような英語の先生のところへ遊びに行かせなさい」と書いていた。

    「英語を教えてもらいなさい」とは書いてなかった。
    つまり、そのくらいの人なら、ただ英語の先生をやっているだけでなく、英語が好きな人に違いない。そういう人の所へ行けば、英語の楽しさを子どもは感じて好きになるだろうということであった。

    某、民間学習塾は先に挙げた縦✕横の作業を訓練させるように鍛えて、学校でのテストの得点を上げるやり方で人気を呼んでいる。
    しかし、これは通っている子どもの保護者がは「点は取るようになるんですがねえ」と言う。
    つまり、応用力が・・・ということである。

    作業ができるだけでなく、どの程度深く理解しているかが試される良い例は、コンピュータのプログラミングである。
    答えを出す手続きを完全に、プログラミング言語に直さなければならないかである。

    「次の図の面積を求めなさい」という問題があったとしても、その図形は長方形とは限らないし、三角形とか円とかきちんとした図形とは限らない。自然にある池や海のような形をしているかも知れない。
    その時、作業を覚えているだけではお手上げである。

    プログラミングでは常にアルゴリズム(問題解決法)を考えねばならない。問題解決学習のことではない。

    子どもだけのグループ学習では、せいぜい民間の作業を覚えさせる、パートタイマーでこと足りる程度しかできないだろう。
    真の理解が要求されるアルゴリズムの発見にまで至らないだろうと思う。

    その程度でよいなら、何もわざわざ学校に行く必要もないだろう。
    何のために学校へ行くかといえば、先生がいるからだろう。


  6. わかるように話す

    11月 26, 2014 by dolce

    教師がわかるように話すことは当然ですが、話がわかるかどうかは聞き手の問題ですから、よくわかるように話したつもりでも思いの外、聞き手はわかっていないということがあります。

    中学校で15年勤務した教師が小学校へ転勤してきた時「子どもが、オレの話難しいと言うんだ」と言っていたことがあります。
    長い中学校の勤務で、話し方が中学生向けになっていたことが想像できます。

    私の家には掃除ロボットがありますが「起きて、起きて」と言うと「ハーイ」と返事をし「きれいにして」というと「ハイ」と言って掃除を始めます。
    しかし、明瞭に話さないとロボットは動きません。「わからないよー」と言う時もあります。

    ロボットですから人間ほどは利口ではありませんが、子どもに話す時も教師はわかりやすく話さなければなりません。
    以上は、明瞭な発言をするとい言うことですが、授業では論理的な判断を求める発言を、教師が求める場合があります。

    そういう時、教師の発言そのものが論理的におかしい場合は、子どもは理解不能状態にも陥ります。

    子どもが教師の話がわからないのは、教師がおかしな発言をしているのではないかと、子どもが緑、黄、赤の印を出して表明することで教師自身の話し方のチェックにもなります。

    大人同士の会話でも最近は、使わなくてもいい英語をわざわざ使っているような気がすることがあります。
    気になるのは「リスペクト」です。なぜ、尊敬と言わないのでしょう?
    もう慣れっこになった感じもありますが「リアクション」という言葉も、私は気になります。

    こういう、言葉を使うことに慣れっこになると、子どもの前でも無意識のうちに使ってしまうかもしれません。
    英語でなくても「全然すばらしい」という言い方は、教師がすべきでないと思います。


    教師自身が正しい日本語を使うことは、教師として当然だと思います。

    正しい日本語の使い方を前提として、学習内容の理解へ進むことができるものと思います。

    私はテレビをよく観る方だと思いますが、アナウンサーの話し方に注意しています。
    民放では変な話し方をする人もいますが、それは外注のアナウンサーが増えたせいだと聞きました。

    一部の例外を除いて、放送に登場するアナウンサーの話し方は発音が明瞭で洗練されています。
    教師も話すことにかけてはプロなのですから、子どもに対しては話し方のお手本にならなければなりません。

    NHKに「ためしてガッテン」という番組がありますが、これは授業のようだと感じながら私は観ています。

    「以上・・・がわかった方はボタンを押してください」という場面もあります。

    このように、説明の確認をする場面や、どちらが正しいかを考えさせる場面で、赤、青や○☓の表示を出させるということもテレビではよくやっています。

    表示を出させるということは、聞き手が漫然と聞いているということを防ぎ話に集中させるという効果があります。
    そういう意味では、ICT機器を使わなくても簡単なカードで表示させるということで、代用できます。

    「一人も見捨てない」ということは、まず教師が何を言っているのか、全員の子どもに聞き取らせることが第一歩だと思います。

    言っていることがわかってもわからなくても進んで行くということは「先生はわからない子がいてもいいのだ」という気持ちを、子どもに抱かせることになるかも知れません。


  7. 一人も見捨てないは、まず意識の問題

    11月 25, 2014 by dolce

    教育において子どもを一人も見捨てないのは当たり前のこと。

    安部総理は教育に力を入れると明言していましたが、その中身において一人も見捨てないという意識は当然含まれているはずです。

    ところで、一人も見捨てないとは具体的にどういうことでしょう。

    教育についてあれこれ語る時、私が気になることは、聞きばえのよい言葉ばかりを並べて、一向に具体化に迫らない人の発言です。

    来月は衆議院選挙があります。

    候補者の意思を確認することは大切ですが、選挙用の国民にとって響きの良い言葉だけ連呼して、果たして実行力があるのかどうかわからないような疑問のある人を選ばないようにしなければなりません。

    これと同様に、教育についての発言もよく吟味しなければなりません。

    私は「学び合い」という手段を全面的に否定するものではありません。

    しかし「学び合い」と言ったら、それで「一人も見捨てない」が実現するものでもないと思います。

    ここのところは非常に重要で「一人も見捨てない」という言葉が聞きばえのよい言葉だけに、この言葉を殿下の宝刀のように使う人の実践には注意しなければならないと思います。

    特に抽象的な言葉で止まっているような発言は要注意です。

    城の堀の前で叫んでいるだけで、いっこうに本丸に迫れない侍のようなものです。
    これは妄想を言っているだけと同じです。

    ■一人も見捨てないへのアプローチ

    私は精神面環境の二つを考えます。
    (これで「一人も見捨てない」と抽象的に叫んでいる段階から一歩進んだと言えます。話はとにかく少しでも本丸に近づくことが大切です)

    1.教師が一人も見捨てないという気持ちを常に持つこと

    これなくしては、どんな方法を使おうとしても実効はないと思います。
    教師の気持ちの問題ですから、外からは見えません。
    しかし、子どもは常に「自分は先生から見捨てられないか」を考えていると思います。
    (特に、子どもが叱られた時は配慮が必要です)
    だから、折にふれて子どもには声をかけてやることは大切だと思っています。

    私は小学校に勤務した時、全部の子どもを見捨てないという気持ちを持って授業をしていました。
    まずこういう気持ちは大切ですが、気持ちだけでは自己満足かもしれません。
    それで、子どもにボール紙で三角柱を作らせ、三面にそれぞれ、赤、緑、黄の色紙を貼らせました。
    そして、授業中に先生の説明がわかったら緑を出す、わからなかったら赤、考え中は黄と表示させるようにしました。

    全員が緑を出してくれるように、意気込んで授業をするわけです。
    ところが、全員が緑を出してくれるようにするのは思ったより難しい。

    でも、丁寧に授業をやったつもりでも、理解されていないということがよくわかりました。

    ボール紙の三角柱はボロボロになってくるので、何回も作りなおすのですが、このことを知った保護者の中に大工さんがいて、木で作った三角柱を子ども全員分、ある日届けてくれました。
    これには感激しました。

    2.子どもを取り巻く環境

    経済的環境のことです。
    今の日本は経済格差が進み、貧困家庭が増え、学齢期の子どもの6人に一人は貧困です。
    貧しくても勉強はできると言っても限度があります。
    特に、母親だけの家庭では親が二つから三つのパートタイムで働いており、三度の食事を満たすのに懸命です。
    深夜の帰宅になることから、子どもの寝顔しか見ないという親も多くなっています。
    「貧しくても勉強はできる」と脳天気なことを言っている教員は、自分の給料の半分を寄付してください。
    担任もできない。授業もしないというタダメシ喰らいの教員は全額を寄付してください。

    ■愛情と公平な環境

    「一人も見捨てない」と言うなら、全ての子どもにわけへだてなく愛情を持つこと、全ての子どもが経済的不安なく勉学に集中できる環境づくりに努めてください。

    ■目は口ほどにものを言う

    人間の表現は言葉だけではなく、視線、態度に現れます。
    そういう点では、実際に対面して話を聞くこと、映像を見ることは大切です。
    言葉だけでなく、話し手の全てから来る情報を受け取りましょう。
    誠実感、品性も情報です。


  8. アクティブ・ラーニングは「学び合い」学習と同じですか?

    11月 24, 2014 by dolce

    同じとは思えませんね。

    アクティブラーニングとは以下のように説明されている。

    教員が一方的に知識を教える「講義型」ではなく、学生自らが課題を解決したりプレゼンテーションをしたりする授業。「能動的学習」と言われる。中央教育審議会の大学教育部会が公表した「審議まとめ」は、主体的な人材は「受動的な学修経験では育成できない」とし、求められる教育は「アクティブ・ラーニング」による双方向の授業と位置づけている。

    (2013-10-21 朝日新聞 朝刊 東特集D)

    文部科科学省が学習の方法論にまで見解を示すのは未だかってなかったことであるが、それだけ現行の学習方法の停滞感を持っているということだろう。

    要するに、受け身の教育から学生自ら能動的に学習に取り組むように促しているということで、具体的にはグループを作ってグループ内の討論を活発化させる形をとる。

    すると、時々耳にする「学び合い」学習と同じなのかと思う人がいるかもしれない。
    しかし、私は違うものだと思う。

    「学び合い」学習は3つの基本を理念としているとというそれは以下(順不同)。

    1.子どもは有能であるというこども観察
    2.教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授は子どもに任せるべきという授業観
    3.学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場である

    アクティブ・ラーニングはただ黙って講義を受けるだけの学習から脱却することを主眼としているが、児童・生徒や学生が教授をするようには言っていない。

    「学び合い」学習がどうにも不思議に見えるのは「子どもは有能である」ということから出発していること。
    ただ「有能」と言われてもわかるだろうか?
    私には雲をつかむようで「はい、それでやりなさい」と言われても手がつけられない。

    子どもは有能だから、子どもに教授をさせなさいということなのだろうが、ただ「有能」という何を基準としているかわからない言葉だけで、教授に必要な知識や技能があるとしてしまうのだろうか?

    そうだとしたら、教員養成のための学科は何なのか?
    必要ないということなのか?

    子どもが教えることができるのなら、教科の免許制度も要らなくなる。

    理論が大切と言っているなら、子どもが有能ということの論理を示さなければならない。
    文部科学省も中央教育審議会も、こういう立場を支持することはないだろう。


  9. 日本語には日本語の美しさがある

    11月 20, 2014 by dolce

    日本語の朗読は楽譜を読んで演奏するのと同じだ。

    日本語の文章を朗読すると、日本語特有の響きがあって、作文に長けた人のそれは美しい。
    美しいのは響きだけでなく、書かれたものが視覚的にも美しい。

    こういったところは私の最も不得意とするところであり、美しい文を書く人に見習いたいと思っているのだが、なかなか上達しない。

    私が小学生で悪ガキだったころは、近所の男の子同士では走り回って遊んでいた。

    女の子たちは、やはり遊びが違っていた。天気のいい日はござを敷いたりして座って、どちらかと言えば静かな遊び。
    女の子はやさしいんだなと感じていた。

    そんな女の子たちをじれったく感じて、いじめてしまったこともあった。
    だから、すっかり嫌われてしまっていたと思っていた。

    夏の暑い日、その日は女の子たちは近くの家でお菓子を作っていた。
    彼女たちは、いじめでひどい目に遭ったのも忘れたのか、お菓子に誘ってくれた。

    悪ガキとしては恥ずかしいのだが、お菓子の魅力に惹かれてありがたく招待を受けることにした。

    ままごとのように座ると、私より数年年上の女の子が、偶然傍にあったうちわを見ながら

    「夕立のふるふる山を下りけり」

    と読んだ。

    うちわを見ると、山道を蓑をかぶった男が走っている絵が描かれていた。

    うちわは偶然あったもので、その俳句を知ったのも偶然だった。

    私が俳句というものを偶然知ったのもこの時だった。

    それ以来、五七五のリズムと短い語数だけで、急な夕立に遭った旅人が、あわてて走る姿が頭の中に広がったこの句が忘れられなくなった。

    きれいな句だと思うのは、今になってであって、そのころはとにかく心に残ったというだけである。

    句を読んだ女の子は、みっちゃんと呼ばれていたが、もうずいぶん前に病気で亡くなったことを知らされた。

    残念ながら私には俳句や短歌などのセンスがない。

    でも、少しでもその心を磨くようにしたいとは思っている。

    ■先生の朗読

    国語の時間に先生が、俳句、短歌、詩を朗読することは大切なことだと思っている。
    いや、小説やその他の平常文などの文を先生が朗読するのは大切と思う。

    先生の朗読には先生の解釈が込められている。
    だから、先生の朗読の声次第で、子どもへの伝わるものが違ってくると思うのである。

    先生の朗読はプロの演奏家による演奏と同じだ。

    NHK-FMに「クラシックカフェ」という番組がある。私の好きな番組だが、このアナウンサー、高山久美子さんの朗読が素敵で、番組をより引き立てている。

    ■日本人の音楽と外人の音楽

    日本人のベートーヴェンとドイツ人のベートーヴェンが違うのは、日本語とドイツ語の違いが基にあると教えてくれてくれた人がいる。


    日本語はドイツ語と比べると平板であるように、日本人の演奏もそうなりがちであるということである。
    同様にフランス人の音楽はフランス語の響きと関わりがある。

    オペラの本場はイタリアだが、日本語に訳すと印象は変わってしまう。

    国語の勉強は読み書きだけでなく、日本語の持つ響き、表現の美しさにも力を入れてもらいたいと思うし、もし、国語の先生がそういうことに関心がなかったら、国語の授業は味気ないものになってしまうだろう。

    子どもが、先生の朗読を楽しみにしているということもあるのだ。


  10. いずれ問題になりそうなこと

    11月 19, 2014 by dolce

    小渕大臣の辞任は衝撃的なことであったが、政治家の金の問題は命取りになることがまたも明らかになった。

    そんなことはわかりすぎるほどわかっていたはずだが、政治家として昔から地盤のあった人にはアキレス腱だったのかもしれない。

    日本は民主国家ということになっているが、本来かくあるべきということが伏せられていることは案外多いのではないか。

    議員に頼めば交通違反ももみ消しなんて話もあった。

    当然、けしからんことである。

    昔は因習で見過ごされてきたことが、正義に照らし合わせ、次第に許されなくなってきたことは、真の民主化に近づいているのか、それともあら探しか。

    たとえあら探しとしても、法に照らして不正なら、誰ももみ消すことはできない。

    政治家の金の問題は繰り返されているが、教育界にいる者にとってもよそ事ではない。

    教員がよく集る飲み屋がある。

    そこは、社会の窓のようでもある。

    そこで話題になったことがある。

    ■事実上、何も仕事をしていないのに給料だけもらっている教員

    この教員は役つきではない。いわゆる平教員である。

    なのに、担任はない。授業もない。

    それでも、給料はもらっている。

    なぜ担任がないのか、なぜ授業もしていないのか?

    管理職から見たら、危なくて担任も授業もやらせられないのかもしれない。

    無断欠勤もある。

    それでいて、なぜクビにならないのか?

    こういう不思議な現象が事実として存在する。

    校長としては当然指導しなければならないし、教育委員会も知らないわけはない。

    何か特別な理由があるのだろう。

    校長も教育委員会も触りたくない理由があるのかも知れない。

    ■公的予算は厳しく精査されるようになってきた

    国会議員の定数や報酬についてうるさくなってきた。

    国や地方自治体が金に困っていることが大きな理由だ。

    バブル期は少しぐらいのムダも無視されていたが、事実上何もしていない公務員にタダ飯を食わせることは許されないだろう。

    タダ飯を食っている奴が偉そうなことを言えば、同僚としてはさらにおもしろくない。

    やがて、タダ飯公務員はやり玉にあがることになると思われる。

    憲法では「国民として最低限の生活は保証されている」から、ただ放り出すことはできないにしても、少なくとも、生活保護以上の収入を得ることは世論も許さないだろう。