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10月, 2014

  1. 給付型奨学金を増やして欲しい

    10月 31, 2014 by dolce

    家庭の所得が少ないために、大学へ進学できない高校生が増えている。
    勉学の意欲があり、優秀な生徒が進学を断念するのは残念でならない。

    自分の話で恐縮だが、母親一人で、田舎の小さな雑貨店をしていただけで、私が大学まで行けたのは給付型奨学金のおかげだ。
    給付型奨学金とは返さなくていい奨学金のことだ。

    授業料の4.5倍の奨学金をいただいた。
    現在、国立大学の授業料は年間約80万円。
    この水準だと、360万円の奨学金がもらえることになる。
    現実にはそうなっていない。

    別の比較をしてみよう。
    日本の景気がよくなり始めた1965年ころは、国立大学の授業料は1ヶ月1000円だった。
    その頃から現在の物価の倍率を調べると、約4倍になっている。
    すると、授業料は月4000円でなければならない。年額にして48000円になる。
    これで奨学金を計算すると、216000円(月額18000円)になる。

    まとめると、昔の水準と同じなら今の大学生(国立)は、毎月4000円の授業料を払い、毎月18000円の奨学金をもらって通学することになる。

    現在この国は所得格差が進んでおり、年間300万円に達しない家庭がかなり多い。
    一人大学へ行くとなると、この中から授業料80万円を引いて、220万円で生活しなければならない。
    もちろんアルバイトをすればいいのだが、あまりにもアルバイトが多いと、肝心な勉強時間がなくなる。

    こうして見てくると、今日の政策は「貧乏人は優秀でも大学へ行くな」と言っているように思えてしまう。
    貧乏人は進学できないとなれば、いつまでも貧困から脱出できない。

    kyouikuyosan

    (文部科学省2010年の資料より)

    国の支出はOECD諸国の中でも最下位である。

    貧困で進学を諦めている優秀な生徒がいると思うと、心が痛む。


  2. 頭の中のツリー構造

    10月 31, 2014 by dolce

    今、パソコンで一番多く使われれているOSはWindowsだろう。
    Windows以前はDOSだった。
    ほぼ同時期かその前にはCP/Mが存在した。
    では、その前は?
    OSは存在しなかった。

    OSがなくてコンピュータは動くのか?
    コンピュータを動かすのにOSは必須ではない。

    ではなぜOSが必要なのか、と言ったことは、もうわからないと言う人が増えてきたらしい。

    ■ツリー構造

    パソコンもOSのない頃は、データの保存はすべて一箇所だったが、データ数が増えると管理が不便になってきたので、図書館のように本の種類ごとに分類できるようにした。ここでOSが必要になった。

    格納の仕方は簡単だが、Windowsしか見ていない人には、この仕組がわからないらしく「確かに保存したのだが、データがない」という人が増えてきた。

    図書館では、本の種類ごとに、文学、宗教、化学、・・・と分けられているように、データも、マイドキュメント、ピクチャー、マイミュージック、・・・などのように分けられるようにした。

    Windowsではフォルダーの絵が見えるので、この中にデータを入れるように見えるが、Windowsの前のDOSでは真っ黒な画面に、コマンド(命令)で指令するだけであったので、どう分類されているかは頭の中にイメージを描いていた。
    だから、この頃の人たちは自然にこの構造が頭の中にできていた。

    commandpro

    データの格納のイメージは、次のように大分類から中分類、小分類と次々に分類を枝分かれで増やしていくことができる。
    Windowsではこのひとつづつの枝がフォルダーにあたる。

    tree

    この図を逆さまにすると「木」のように見えるので「ツリー構造」と言う。

    ■集合

    折に触れ「思考に集合の概念を」と言っているのだが、どうしてもこの意識がない人もいる。
    自動車のタイヤの話をしているのに、タイヤなら何でも構わず、パンクしたら自転車のタイヤでも交換すると言ってしまうようなものだ。

    「先生」と言えば、色々な先生がいる。非常に大きな集合である。
    「小学校の先生」と言えば「先生」より狭い集合になるが、それでも大きな集合である。
    安易に「小学校の先生」と言えば、すべての小学校の先生に当てはまるのかということになる。
    最も文脈から、○○小学校の先生と限定される場合もあるが、そうでない限り「小学校の先生は・・・」と切りだすと、責任は大変なことになる。

    syugo

    ■まとめ

    ツリー構造の分類はいくらでも増やすことができる。
    例えば、人を男女に分ける。血圧の高い人低い人に分ける。年齢で分けるなど分類は限りなく無限に近づく。
    だから、パターン化の数が少ないとは言えない。
    60億に達すれば、世界中の人、ほとんど個人にまで行き着く。

    デジタルカメラの進歩が急だが、初期の頃は「やっぱりフィルムでないと」という人がいた。
    「デジタルは荒い」という先入観ができたからだ。
    しかし、今のカメラで解像度で「やはりフィルム」と言う人を聞いたことがない。

    音についても同様、CDをイメージしたデジタル音を酷評した人も、ハイレゾになって沈黙してしまったような気がする。

    スマホを指導できないと言った先生は、社会の進歩から取り残された感がある。
    取り残されないまでも、頭は使っていないと、そこで固まって、歩いている人からも置いて行かれているようなイメージがある。

    何か意見を発しようと言う時、本日のツリー構造集合の概念があるかどうか確認して発信してもらいたいと希望する。


  3. 先生のタイプはいろいろ生徒のタイプもいろいろ

    10月 29, 2014 by dolce

    教育という言葉は幅広い。
    教育効果という観点から見れば、評価する人の価値観で評価は変わってしまう。

    児童・生徒が教育を受けた時点をスタートとして、その後を追跡調査してみると、教育をどう捉えるか感慨深いものがある。

    教育の価値を目先だけに注目して考えている人は、テストをやってみて点数がどうのこうのとの言葉が多い。

    薬にはすぐ効くというものがある。
    頭痛に悩まされている時、とにかく飲めば、すぐに痛みはおさまるという薬がある。
    これはこれで価値がある。

    教育に照らしあわせてみると、すぐに得点につながるというものだろう。
    教育を点数と考えている人には、こういうものの評価が高いだろう。

    しかし、はじめにも言ったように、教育の意味は幅が広い。
    だから、すぐ点数に結びつくというやり方も教育と言えなくもないが、それだけで幅広い教育の意味を示しているとは言えない。
    あえて教育と言うのなら、それは受験教育と言うべきだ。

    ところが、この狭い受験教育で頭がいっぱいの人もいて、教育といえば受験教育の成果が教育の成果になってしまっている人がいる。

    ■心に残る先生

    何度も例に出すし、出したいのだが、教育学のすすめ (1969年) (学問のすすめ〈13〉)斉藤喜博氏の著書だが「君の可能性」という章で読んだ島秋人の話は衝撃だった。

    生い立ちにも恵まれない島秋人は、学校でも厄介者で、先生に叱られると学校を飛び出し近くの河原で遊んでいた。
    そんな毎日を過ごしているうちに、卒業になった。彼にとっては卒業というより、追い出されたと言った方が適切だろう。

    進学はもちろん、職にもつけない島はある日、飢えに耐えかねてさまよっていると、一件の農家が見えた。
    忍び込んで食べ物をあさっていると、お婆さんに見つかってしまった。
    島は、あわてて逃げようとしたのか、お婆さんが騒ぐのを止めようとしたのかわからないが、お婆さんに手を出してしまった。
    お婆さんは衝撃で亡くなってしまった。

    島は、やがて逮捕され裁判にかけられた。
    判決は死刑だった。

    島は刑務所で刑期を待つだけの暮らしになった。
    ようやく心が落ち着いたのか、静かな日々を過ごすうちに昔のことが蘇ってきた。
    ここに至るまでに何もいいことのなかった島だったが、それでも一つだけ心に残った思い出があった。

    小学校の図工の時間に、先生が島の絵を見て「構図がよい」と言ったことだ。
    それは島にとって、刑務所生活に至るまでに、たった一度の褒め言葉だった。

    島はその先生のことが懐かしくなり、手紙を出そうと思った。
    島が手紙を出すと、先生からも返事が来て、手紙による交流が始まった。
    やがて、島の出す手紙には歌が添えられるようになった。

    手紙を受け取った先生は、その歌を見て、なかなかのできではないかと感じ、その歌をプロの歌人に見せた。
    すると、歌人からは「できがよいというより、天武の才能が感じられる」と評価された。

    先生は、島から送られてくる手紙の歌を集めて歌集を作りたいと考えた。

    やがて、それは歌集として出版されることになったが、島は刑期を告げられ処刑されてこの世を去った。
    島の死後、歌集は遺愛集として出版された。

    私はこの話を広めたいと思い、折に触れ紹介している。

    島が小学校にいた時の図工の先生は立派な教育者だ。
    ここには、学力とか点数に関係ない教育の世界がある。

    「構図がよい」と言えば、子どもの心に残るかどうかわからない。
    それは、同じ言葉を発しても、発する先生によって響きが違うからだ。
    ここに紹介した図工の先生は、島の心を捉えたわけである。

    島が処刑されたことは残念なことだが、教育に携わるものとしては、子どもはみな可能性を秘めているのに、狭い価値観で芽を摘んでいるのではないかという恐れである。

    以来、私は「教える」などと偉そうなことを考える前に「芽を摘んでいないか」と考えるべきと思うようになった。

    今出版されている君の可能性―なぜ学校に行くのか (ちくま文庫)にはこのことが書かれていると思う。

    すぐ点数を上げることの上手い先生、教え子が大人になってから思い出す先生、先生もいろいろなタイプがある。
    子どもも、すぐに才能を発揮するこどももいるが、卒業後に力を出す子どももいる。
    子どももいろいろだ。


  4. 個人の発言力~恥を知るために

    10月 28, 2014 by dolce

    一人の力は小さいものだという人もいるが、そうとばかりは言えない。
    たとえば、日銀総裁の発言によっては株式相場が変動する。
    投資家が動くからだ。

    ただ、このような公的な立場の人の発言でなくても、人は動く場合がある。
    このようなことを考えているうちに、人に影響を与える発言力の分類が浮かんできた。

    1.看板を背負った発言

    先の日銀総裁の発言のようなものだ。
    人はなぜ影響されるかと言えば、日銀総裁は金融を緩和するのか、引き締めるのかというかじ取りの権限を持っているからだ。

    大企業の社員も取引では看板を背負っていると言える。
    名刺に社名が印刷してあるから、取引が成立する場合がある。

    2.実績や実践に基づく発言

    何の肩書もない人の発言でも、人に影響を与えるものがある。
    無名の人の発言でも影響を与える。
    わかりやすい例を挙げれば、価格.com満足度・レビューである。
    つまり、実際に買った人の使用体験記である。

    経験も同様、体験記に入る。

    3.自己顕示欲による発言

    人は歳をとるにつれ、地位や名誉が欲しくなると言われる。
    これには個人差があると思うが、地位や名誉もなく、あっても社会的認知度の低い肩書では寂しいというか、自己の顕示欲だけが高く、そうかと言って誰も認めてくれないので、発散する人。

    現実に、こういう人に会うと、本人は話したくてたまらないので、相手をする方は閉口する。

    ブログはこういう人たちに、役立っていると言えるのかも知れない。
    ブログはガス抜きにもなっている。

    ————————————————————

    「恥を知れ」という言葉があるが、自分も振り返ってみて、発言が1~3のどれにあたるのか、時々は考えてみようと思った。

    3.はさすがに恥ずかしいと思うので十分注意する。

    問題なく恥ずかしくないのは、2.の体験や実践である。
    しかし、自分は体験も実践もしていないのに、人のそれを批判するのは恥ずかしい。
    批判ならまだいいが、嫉妬が入ったり嫌味を言うのは最低だろう。

    「男は40過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言われるので、自分の顔を見てみることも大切だ。


  5. 美味しい秋刀魚の焼き方

    10月 27, 2014 by dolce

    秋刀魚を美味しく焼くには、いい秋刀魚を選び、火加減を上手く調節することことです。ハイ終わり・・・では人をバカにした文章になってしまう。
    これでは、秋刀魚の選び方もわからないし、焼き方もわかりません。

    たとえうまく行かなくても、実際に行ったこと、つまり実践記録は役に立ちます。
    だから、たいしたことはないですが、私の秋刀魚の焼き方実践記録を紹介します。

    秋刀魚の季節になって、私も旬の魚を食べてみたいと思いました。
    焼き魚というと、ガスコンロの真ん中についているグリルを使う人も多いようです。

    かつて、メーカーの人からガスコンロの説明を聞いたことがあります。
    そこでの説明で忘れられない言葉があります。
    「実は、これで焼くと美味しくないんですわ」
    と言われたことです。

    売る立場の人が言ったので驚いたのです。
    正直と言えば正直です。
    それで、ガスを使うことは敬遠していました。

    秋刀魚の美味しい焼き方と言えば、昔から、コンロを使って炭火で焼くというのが定番ですが、そういう環境がありません。
    そんなことをしたら、近所から苦情がきます。

    便利なものが好きな私は、少々高い電子レンジを買いました。
    調理メニューに「魚の塩焼き」というのがありましたので、さっそくその説明に沿って使ってみました。

    ちょっと凝った電子レンジになると、電子レンジだけでなく、グリルとかフライパンなどの機能がついています。
    魚を準備して「焼き魚」というボタンを押して、どのようにして焼くのだろうと観察していると、始めはグリル機能で魚の外側を焼きます。
    この理由は外側を焼くと、皮が焼けて、旨味を逃がさないようになるのです。
    次に電子レンジで焼くということです。

    電子レンジは真ん中から焼けてきますから、焼け残りはありませんし、先に焼けた皮で旨味が逃げません。
    こうして焼けた魚を食べてみたところ、これが大変美味しい。

    以来、焼き魚は電子レンジと思うようになりました。
    電子レンジでの焼き魚のいいところは、煙が出ないところです。
    しかし、においまで封じることはできません。

    こうして、魚を焼くことにしたのですが、この電子レンジが故障してしまいました。
    修理不能ということで、新しいものを買いましたが、技術は進歩しています。

    今度の電子レンジは、ゆでたまごもできます。
    みんなに話すと「だめだよ」と言われますが、大丈夫、うまくできます。

    電気メーカーの人たちは、美味い料理を作るのに日夜研究しているのですね。

    さて、新しい電子レンジを使うときに、説明書を見たら「秋刀魚は塩をふり30分おく」とありました。
    そして「出てきた水分を拭き取る」と書かれていましたが「20パーセント砂糖を加えると美味しく焼けます」とあったのは収穫でした。

    今回は、秋刀魚の塩焼き体験を書きましたが。

    「秋刀魚を食べるときは美味しく焼くべきです」なんて言う、当たり前のブログは書かないでもらいたいと願うばかりです。
    そうならないためには「自分の行ったことをそのまま書けばいい」のです。

    退職した方は経験豊富なわけですから、現役時代を思い出して、体験記を紹介していただきたいと思います。


  6. 褒めるタイミング

    10月 26, 2014 by dolce

    褒めて育てると言われるが、どういう時にどのように褒めているのか、そしてその効果はに応えた文章は少ない。
    斎藤喜博氏の著作は、一般論や観念論ではなく、演説でもない。実践に基づいた場面ごとの、子どもに対する声かけが具体的に記されている。
    最近流行りの、声をかけるなとは正反対の教育実践である。

    「褒める」に言及したものはあるが「やたらに褒めてもだめだ」とか「褒める」という言葉の意味を説明しているなどは、書いた人自身はわかっていないのではと思わせる。
    褒めることの効果を発表して欲しいものだ。

    これはカラヤンとベルリンフィルの練習風景である。ハイドン/交響曲第101番

    褒めるというのは「認める」ということでもある。

    ある努力に対して、指導者が「それでいい」と認めることでもある。
    指導される方は、認められることで、自分の努力が間違いのない努力であったと確認できる。

    これは指導者側から見たら、変化を判断するということであり、そんためには変化を見逃さない、いわゆる「判断力」が必要だと言うことである。

    私は公務員のバンド(吹奏楽)を指導しているが、これは同好の人が集まって作ったクラブ活動ではなく、給料をもらって仕事として活動している人たちの集まりである。
    彼らは辞令一つで配属となる。
    だから、音楽が好きなのか、仕事だからやっているのかわからないところもある。
    初心者に近い人も入ってくる。

    演奏するということは、ハッタリでごまかすこともできない。
    だから、初心者に近い人は練習の時、不安を抱えている。

    いつ「そこのところを、ちょっとやってみていただけますか?」なんて言われるかも知れない。
    一斉指導では、人前で恥をかかせないということは大切なことである。
    だからミス、を聞こえなかったふりをすることも大切である。

    しかし、時に、いい音を出した時は「今のところは素晴らしい音ですね」と褒める。
    これは、褒められた側にとっては自信に繋がるし、自分がやってきた練習が認められたということで、喜びが増す。

    褒めるというのは単に認めるではなく「強く認める」ということであり、指導される側は「強い承認をもらった」プラス「喜び」である。

    そういう私も学生の頃、よく指導してもらった先生に「そうだ!、それでいいんだ!」と大きな声で言われた時、びっくりもしたが、それで自信のついた覚えがある。

    指導者は、褒めるためには変化を見逃さないという判断力が大切である。
    音楽の場合は、音を判断するわけだから、音を判別できない人は指導できない。

    子ども同士のグループで練習させると、間違いのない練習をしておれば、練習効果というものがあるので、ある程度レベルは上がるが頭打ちになる。
    判断に限界があるからだ。

    実際「今のところは音がおかしい」と言っても、始めは何がおかしいのだろうと言う感じの人もいる。
    しかし、おかしいところを指摘されると、そのうち聞き方のレベルが上がってくるので、わかるようになる。

    だから、先生が必要なのは「判断してくれる人が必要」ということなのだ。
    先生なしでは平均化されるかも知れないが、レベルは上がらない。
    これは、音楽以外の科目でも言えることである。

    プロ野球は来年のシーズンに向けて、コーチの入れ替わりがある。
    優れたコーチは選手の素質も見抜くし、欠点を具体的に指摘する。
    そして、欠点の解消のために行う練習がメニューになる。コーチの言うようにできた時は、もちろん褒める。
    指導される側は偉大なコーチに褒められるほど、喜びが大きく、励みになる。

    先生(指導者)は「あの人に褒められて嬉しい」と言われる人を目指さなければならない。

    学校でも、優れた先生が必要であり、子どもだけに任せっきりでうまく行くとは考えられない。
    気になる子どもには、すかさず声をかけるチャンスを逸してはならない。

    君の可能性―なぜ学校に行くのか (ちくま文庫)


  7. 耳あたりのいい言葉に酔うな〜魔球のような文章

    10月 25, 2014 by dolce

    ある投手の投げるスライダーは、ボールが途中で一瞬消えるとバッターが言います。
    実際はボールが消えることはなく、バッターの手元で急に変化するボールのことです。

    このように、文章も筋を追って読んで行くうちに消えてしまうものがあります。
    こちらは魔球と違って、完全に消滅しています。

    例えば「一人も見捨てない」という言葉が登場します。
    耳あたりのいい言葉です。
    だから、教育に関心のある者を惹きつけます。

    期待するのは、どんな工夫をしているのかと言うことです。
    ところが最後まで読んでも、何もない。
    まるで詐欺のような文章です。

    国の年金収支の悪化で、支給年齢を引き上げようという意見もあり、このため「年金は逃げ水」という皮肉った言葉もありますが、耳あたりのいい言葉だけが存在し手立てや結論の示してない文章も、逃げ水のようなものです。

    論理の飛躍もあります。
    グループを作って、さあ問題をみんなでやりなさいと指示すれば、落ちこぼれがなくなり、コミュニケーションも高まり・・・何でもバラ色というのは、新興宗教にも近いイメージを持ちます。

    このような作文が焦点のないつかみ所のないものになってしまうのは、結局、耳あたりのよい言葉に酔い、抽象的な言葉で修飾しているからだと思います。
    少し話が飛びますが「美味しい麦茶の作り方」という文章が目に止まったので、興味を持って読みました。
    まず「美味しい麦茶」というところに惹かれたわけです。
    この言葉が期待を産んだわけです。

    期待とは、読む側にとっては「美味しい麦茶にするための具体的方法」つまりキイとなる言葉が知りたいわけです。
    すると「煮てはいけない」と「少々インスタントコーヒーの粉末を入れる」という言葉がありました。
    こう書いてあると、読んだ方には満足感があります。

    このような文章は借り物でない限り、実践しないと書けないでしょう。
    仮定、実践、考察が必要です。

    先輩面をしたい人、退職したい人はご自身の実践を語ってください。
    途中でボケてしまう文章、魔球のような文章はがっかりするだけです。
    実践なら失敗も役に立ちます。

    「荒れた学校を再生するために校則を細かく定めた」・・・これでよくなったとは信じられませんし、これは「仮定」の部分だけではありませんか?
    同様に「授業をしっかりやるようにした」・・・当たり前のことですが、そこまで至る過程が不明で、論理が飛躍し過ぎます。
    「思いやりのある・・・」などの心を使ったキャッチフレーズもついそれだけで酔ってしまいそうですが、そのために何をやって、効果の検証はどうしたのかが必要です。

    毎朝、職員が校門の前に立って声をかけたとか、そうしたら無口だった生徒が、あるとき声をかけてきたとか具体性が必要です。


  8. 少子化は教育の質を上げるよい機会

    10月 24, 2014 by dolce

    少子化は人口の減少をもたらすとして、とかく悲観的な意見が多いようだが、悪いことばかりではない。
    質を高めるチャンスでもある。

    安倍内閣は教育に力を入れると言っているが、その本気度はズバリ、どの程度予算をつけるかでわかる。

    少子化の影響で、学校の児童・生徒数は減っている。
    かつて、政府はこれを機会に1クラスの定数を減らすと言っていた。
    これは、教師一人あたりの子どもの受け持ち人数を減らすということである。

    児童・生徒数が減少しても、教員定数を減らさないのであれば、それだけで児童・生徒一人あたりの教育予算は増えたことになるが、現実はどうだろう。
    財務省は35人クラスを40人クラスに戻そうとしている。これは、18000人の程度の教員数を減らせるとし、教育予算削減を打ち出しているのだ。

    現在でも、日本はOECD各国の中でも教育予算はビリに近い方なのに、安倍首相の平均には持って行きたいとの希望には逆行している。

    ■この国の予算はどうなっているのか?

    約一千兆円の借金があるとしばしば報道されている我が国の国家予算だが、本当に金がないのか?
    それにしても、円は高い(円高)。
    円が高いということは、世界中から見たら円は安全な通過と見られているということである。
    財政破綻の可能性もあるというのに、どういうことだろう。
    この理由として、日本国民の預貯金が1500兆円あるからだと言われる。

    ■埋蔵金の話はどうなった?

    民主党が政権を取った時、埋蔵金の話が出てきて、霞ヶ関が隠しているなどという話も出てきたが、最近は全くこの話は出てこなくなった。
    御用学者ではない、信頼できる経済学者の話によると、埋蔵金は少なくとも400兆円はあると言っている。
    これに国の資産を合わせると、1千兆円はあるという。
    外国から見たら、意外に円が強いのは、これらの資産が根拠になっているのではないかと思う。

    消費税を2パーセント上げるかどうかの話題がある。
    消費税2パーセントによる税収は5兆円だが、400兆円もの埋蔵金を持っていることを考えると納得がいかない。

    この国の政治は、災害があると復興税などと名目をつけ、税収を増やし、その実その中から復興とは関係ない方に流用している(この額は、最近大臣が辞めた理由の金額と比べたら比較にならないほど大きい)。

    徳川家康は「百姓(※1)は殺さぬよう生かさぬよう」と言ったそうだが(※2)、現代は「国民は殺さぬよう生かさぬよう」ではないかと思えてしまう。

    ※1:百姓は放送禁止用語にあたるということだが、伝統的な言い伝えを原文通り紹介する意味で用いた。
    ※2:家康は実際はそう言っていないという人もいる。

    ■財務省の定員40人に戻せは教育に逆行

    少子化で学校ごとの児童・生徒数の減少は教員一人あたりの受け持ちが少なくなるよい機会である。
    35人でも日本は定員が多い方である。ドイツでは10人ぐらいで20人を超えるクラスは少ないようだ。

    少子化で統合してしまう最大の問題は、通学距離が長くなり、通学の途中で児童・生徒が犯罪に遭う可能性を高くすることである。

    先生の質という問題も言われるが、基本的には先生一人当たりの児童・生徒の受け持ち人数を少なくすることは、一人一人にに目の届くという意味からも、教育の質を高めるための王道である。

    下村文科大臣が、35人クラスを40人にという財務省の案に反対している唯一の救いである。


  9. 朗読や会話は演奏と同じである

    10月 24, 2014 by dolce

    朗読や会話が演奏と共通するのは、ともに音声を発するところである。
    朗読や会話そのもの意味とは別に、音声はその響きだけで別の意味も持っている。

    声に出すことで、その人の「人となり」が現れるわけで、その響きから聞き手は影響され、感じ取るものがある。
    演奏も同じで、声や楽器を使って楽譜に書かれていることを音に出しているわけで、その音の中にその人の人格、主張、教養が表現されているわけで、聴衆はそれらを感じ取る。

    朗読は、文章を見て句読点に注意して、抑揚をつけて声に出す。
    演奏で楽譜を見て音にする行為もまるきり同じである。

    だから、私は先生による朗読は大切だと思っている。

    子どもにも朗読させるのだが、それだけで終わってしまってはいけない。
    先生の朗読を子どもが聞くことにより、先生の心を子どもが感じるのだから。

    小さい子どもは、お父さんやお母さんに物語を読んでもらうのが好きである。
    子どもの時、なかなか寝つけない時、父母に物語を読んでもらった人も多いだろう。
    そういう親の行為が「子どもを育てる」ということである。


  10. 本当に意見を聞くべき人とは

    10月 23, 2014 by dolce

    人生の選択を迫られるような大事な時には、誰の意見を聞いたらよいだろうか。

    意見を聞く人の立場地位、及び経験をチエックすべきである。

    こう書いてみれば、しごく当たり前のことだが、現実は必ずそうとも言えない例があり、後悔先に立たずと嘆くはめになる。

    ■決断してしまってから相談をもちかける人

    そんなバカなと思う人もいるだろうが、意外に多いと私は感じている。

    「家屋敷を売ってマンションに引っ越した方がよいだろうか」という相談は慎重にすべきだと思うのだが、相談にみえた時はすでに契約をしていたという例があった。
    もとに戻そうという場合、早期ならできなくはないが、手付金の倍返しというルールがある。
    よくある例は、パソコンを買ってしまってから「買う前に相談すればよかったですね」と言われることだ。

    売る方は一生懸命だから、買う方は煽られてついつい買ってしまうのだろう。
    パソコンは高い買い物だから、慎重に考えた方がいいと思うのだが、その場で決断してしまうのだ。

    一旦契約をしてしまっても解除できる、クーリングオフ制度もあるが、すべての商取引においてできるものではないので注意が必要だ。

    ■相談は誰にすべきか

    その道の専門家に聞くべきだろう。
    ただし、専門家の場合、商売が絡んでいる場合があるので、利益誘導に気をつけねばならない。
    公平な立場で相談に乗ってくれるかどうかがポイントだろう。
    トラブルの解決が関係するときは、事案によっては弁護士が必要で、素人が行うと弁護士法に触れる場合があるので注意。


    身近な人に相談する場合、何でも知ったかぶりする自己顕示欲の強い人も気をつけるべきだろう。
    よくわからない場合は、一度「もしもの場合はお願いできますか?」と言ってみる。
    たいていは、これでハッタリは見破れるが、それでも安請け合いをして、いつまで経っても何も進展がない人もいる。

    そういうことを考えると、その人はどういう資格を持っているのか、どういう仕事をしているのか。
    現在の立場、地位、評判を調べてみること。

    教育上の相談なら、学校の先生などの教育関係者が浮かぶだろうが、中にはまれに担任をさせてもらえない人、時に授業もやっていない人もいる。そういう場合、なぜその人はそういう立場にいるのか調べてみること。

    最近は詐欺に遭う人も多い。プロの詐欺師でなくとも、詐欺的な人もいる。
    最後は自分が決定するのだが、それでも「1日待ってみる」というのも懸命なやり方と思う。

    学校の先生は特に騙されやすいという、詐欺とペテンの大百科のような本を読んで、基本的な知識を知っておくこともいいだろう。