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9月, 2014

  1. 得意分野を持つ必要

    9月 30, 2014 by dolce

    得意分野と言うと、自分の自慢になるような言い方に見えるかも知れない。
    他に適当な言葉が見つからなかったので「得意分野」としたが、言いたいことは、自分が指導者として、集団を統率できる手段を持つということである。
    教育は机上だけで考えても、子どもに限らず大人でも、実際の集団を率いることはできない。
    我流でない理論に加え、実戦経験が必要である。具体的には、大学でクラブに所属しリーダーを経験することは、教職について役立つだろう。

    クラブ活動での経験は、活動そのものの経験が役立つのはもとより、一番役立つのは人間関係の苦労だろう。
    自分の経験で恐縮だが、私は大学のクラブで二年生から吹奏楽部の指揮者をする役目が回ってきた。
    伝統的には四年生が正指揮者、三年生が副指揮者という流れだったが、諸事情で二年生の私が正指揮者になってしまった。
    正直、私にとっては非常に荷の重いものであった。

    始めはみなが思いやりを持って対応してくれたが、毎年、コンクールの代表になることは必然とも言えることだったので、大会が視野に入ってくるころになると、遠慮のない激しい言葉が飛び交った。
    夜、床について寝ようとしても、あれこれ考えて、そのうちに夜が開けてしまったこともあった。

    しかし、こういう苦労があったせいか、教育実習で子どもの前に立つことは何でもなかった。
    そのせいか、指導教官から「君は初めてではないみたいだなあ」と言われたこともあった。

    若い時は、とかく天狗になりがちだが、私もそういうところのある生意気人間であった。
    だが、大学の先生は「お前たちは、将来、先生になっていくだろう。間違ったことを覚えていくと、子どもに害を与える」と言って、著名な内外の音楽家を招き、指導を受けることになった。

    世界的なレベルを目の前で見せられ、中高では、少々できるだけでおだてられいい気になっていた私の鼻はたやすくへし折られた。

    四面楚歌にも似たような生活を送って、先生になってからは、いつの間にか精神的に余裕が出てきた。
    子どもたちをなめていたのではない。
    音楽でもスポーツでも同じと思うが、この世界はハッタリは通ぜず、年令に関係なく実力の世界である。
    だから、子どもの能力を発見する力が多少なりともついたせいか、それが指導の大きな力になったのである。

    何よりも大きな力になったのは、人間関係で苦労したことが、大勢の子どもを率いることに役立った。
    曲がりなりにも、一応、指揮を経験して育った人間には、リーダーとしての雰囲気が身につくらしい。
    自分のそういうものは、自分では分からないが、他人の履歴を見るとよくわかる。

    というのも、大学を卒業して先生になったら、子どもたちを率いてコンクールなどに出てと考えていて、今度はライバルはいないと思っていると、何のことはない、大学時代に戦ったライバル校の学生が同じように先生になって出てくる。
    戦いの姿が変わっただけなのである。

    またしのぎを削ることになるが、その中に巻き込まれた子どもたちは、いい意味で先生の真剣な姿に接することになる。
    子どもも先生も真剣勝負である。

    練習やコンクールを見に来た親たちは「子どものあんなに真剣な姿を見たことは、今までありません」という。

    まさに「若い時の苦労は買ってでもせよ」であり、人間関係の難しさに対処する力、競争で培われる力は机上では得られるものではないだろう。

    ————————————————————————————–

    これらの経験で培われたものは、生活指導でも発揮される。
    某中学校は荒れに荒れて、小学生たちが怖がって、中学校に行きたくないと言い出した。毎日、何らかの非行が報告され、毎日、会議をして、先生たちは対策に追われた。

    ある日、教育長が中学校を改革するために英断を振るった。
    近隣地区の学校、教育委員会に日参し、指導力のある先生を送ってくれと頼み込んだのだ。

    吹奏楽部の先生も替えるということで、私も行くことになった。
    二年生八クラスだった。学年主任ともう一人が転勤せず、あとは全部が外部から来た先生が担任になった。
    当初は相変わらず、毎日のように問題行動があった。

    しかし、二年ほどですっかり落ち着いた学年になり、生徒たちは進んで清掃など行うようになった。
    いわゆる体罰などで指導したのではない。
    転任してきた先生はみな、教科も部活も指導に名をなした人たちばかりであった。

    机上の空論をやっていても、学校は良くならない。
    人を動かすことは、紙の上で計算できない。
    直接人と対して、そこから感じ取るセンスが必要である。

    こういう意味で、荒れた学校を正常化して全国的に有名になった先生もいる。
    京都市立伏見工業高校の山口良治先生はNHKでも放送された。
    ラグビーの指導は一流で、その上に先生としての資質を持った人である。

    いくらよい教育学を身につけていても、それを実践していく手立てがなければ、意味がない。
    その手立てが山口良治先生の場合、ラグビーであった。
    ラグビーで生徒たちを真剣にさせたのだ。

    先生は自分の道具として、生徒を真剣にさせる得意分野を持つべきである。

    教育は死なず―どこまでも子どもを信じて (1978年)若林繁太氏も立派な実践者である。
    他の高校では見放され退学になった生徒たちに光を与えた。
    この学校の実践に、保護者たちは涙を流していた。
    「ここの先生たちはほんとうに優しいんですねえ」と。


  2. 異常人格者の世界

    9月 29, 2014 by dolce

    神戸女児死体遺棄事件は多くの人びとに衝撃を与えた。
    「殺人事件」ではなく「死体遺棄事件」とされているところは、容疑者が逮捕されたとは言え、警察の捜査は殺人事件の段階ではないことを示している。

    とは言え、女児は何者かによって殺害された推定される。
    この事件を殺人事件と考えても、単なる殺人事件ではなく、猟奇殺人事件である。

    猟奇的というところが、人間の恐ろしさを感じさせる。

    satuzinnhyakkaもうずいぶん昔になるが、私は殺人百科という本を読んだことがある。
    これは、教育には人間を理解する必要があるとの考えで読んだ本のひとつである。

    殺人の動機は様々である。
    その動機は憎しみや、金欲しさのものなど事件解決の度に報告されるが、どうにも理解不能なのは、動機らしいものがわからないというもの。

    この本は特異な、つまり猟奇的と言われる、実際に起こった殺人について追究されたものである。

    「ヘスという男」というライトルを覚えているが、ヘスは第二次大戦中にナチのもとで、殺人工場に勤めていた人間である。
    彼の仕事は、毎日、ガス室の隣の部屋でガス栓をひねることであった。

    彼がガス栓をひねると、隣の部屋では何が起こるかは知っていたのだろうが、彼はナチに言われるまま忠実に働いていたサラリーマンであった。
    家庭に帰れば、奥さんと子どものいる良きパパであったそうだ。

    自分のやることで、他人がどうなるかなどと考えない、感知しない、黙々と忠実に仕事をこなすという姿は現代の平和な社会にも通じるものがあるかも知れない。

    タイトルは忘れたが、金持ちの使用人として働いていた男が、休暇をもらった時、主人に「お休みをいただいたついでに、お嬢ちゃんをご招待したいので、お連れしていいでしょうか」と許可を願い出たそうである。
    主人は、なんとなく気が進まなかったので、断ろうと思ったらしいが、特に断る理由も見つからなかったので、許したということである。

    使用人は自宅に幼女を連れて行くと、彼女を切り刻んで、何日もかかって鍋で煮て食べたそうである。

    ある殺人者の家系が紹介されていたが、系図の中にかなり多くの殺人者がいたのを見ると、このような事件を起こす家系があるのか?遺伝するのか?

    このように、理解不可能な人間の行動を映画にして、有名になったものとして、アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」がある。
    戦争などとは違った人間の怖さがある。

    実際、そういう人間が現実の社会に紛れて生活しているということは、こころしておくべきかも知れない。


  3. 無機的な心が増える懸念

    9月 28, 2014 by dolce

    無機的とは「無機物のように,生命の感じられないさま。また,温かみのないさま」のことを言います(weblio)。

    「やるべきことはやってますよ、何か文句あるんですか?」の態度に代表されるものです。

    セルフサービスの店(セルフの店)があります。
    開店したばかりのセルフの店に、2件ほど行った覚えがあります。

    私はセルフということを知らずに入りました。
    店員はいるのに何も対応しません。
    それで、何か要求すると「ウチはセルフですから」と言って何もしません。
    (当たり前かも知れません)

    初めての店で様子がわからないので、ドギマギしているのですが、店の方は勝手に「セルフですから」と決めたので、何もしないとしているわけです。

    私はセルフの店というのは嫌いになりました。

    以後セルフの店には行かないと決めていました。

    初めての地に所要で行った時、時間もなかったので近くの店で食事をしようと、目についたところへ入りました。
    普通のレストランのように「何になさいますか?」と店員が対応してくれました。
    テーブルに食事が並びました。
    一息ついて、気持ちに余裕が出て気がつきました。
    ここは「セルフ」の店だったのです。

    「あっ、すみません。ここはセルフだったのですね?」
    「はい」
    「申しわけなかったですね」
    「いいえ、よろしくお願いします」

    私は温かい気持ちになり、人の心を感じました。
    その日はずっといい気分でした。

    ——————————————————————–

    自宅は集合住宅で、外へ出るのはドア一つです。
    呼び鈴が鳴るのは、配達か予定の来客がほとんです。

    「ピン、ポーン」

    誰かな?

    ドアを開けると、隣のおばさんが皿に天ぷらを乗せて待っていました。

    「天ぷら食べられますか?」

    私はびっくりしました。
    忘れていたものが蘇ってきたようでした。

    そう言えば、田舎に住んでいたいた時はごく普通の日常生活でした。

    ——————————————————————–

    行きがかりに人が倒れていたとしても、声をかけないのは罪ではありません。

    「あなたが救急車を呼んでくれたら・・・」

    と遺族が言っても。

    「私に何か責任があるのですか?」

    というような口をきく人が増えてきたようで、人間味というものが失われ無機的になって来たようで、これからが不安です。

    「なぜこちらへ引っ越してこられたんですか?」

    「こういうところを探していたんですよ」

    「ほう、どんなところがいいんですか?」

    「人が温かいですね」

    マンションの販売広告を見ると、便利さを強調しています。
    住民がどんな人たちかというのも、環境ですね。
    でも、それを宣伝するのは難しい。

    先日、来客と話をしていて、昔のことにも及びました。
    突然

    「フーン、大変だったんだね」

    と誰かしゃべりました。

    誰が言ったんだろうと思ったら、ロボット掃除機でした。
    そんなことを話すと、説明書には書いてなかったのでびっくりしました。

    これからは、ロボットの方が人間的になり、人間がロボットのようになるのかも知れません。


  4. 生徒会を御用組織にしないこと

    9月 26, 2014 by dolce

    生徒会活動を先生が計画し、先生の意のままにすることは、教育活動の趣旨から言って間違っています。
    つまり御用組織化することが、子どもの手を奪うことになります。

    校則も先生が決めていしまうのではなく、一度、児童・生徒に任せてみることが大切と思います。
    先生は先生で案を作っておけばよいのです。
    児童・生徒の作ったきまりを、先生の案と比べてみることです。
    児童・生徒がまじめに考えたきまりと、先生の作ったきまりに大差がないことに気がつくと思います。
    結果に大差がないのなら、先生が作ってもいいじゃないかという考え方をする人がいますが、同じでも児童・生徒自ら作ったきまりは守る意識が違います。

    生徒にきまりは作らせるという経験をさせることが、生徒会(児童会)活動の最も大切なところと思います。

    生徒会(児童会)担当の先生には、みっともない姿を見せたくないという心理に陥る人がいます。
    生徒会(児童会)は活動の成功、不成功が目的ではなく、児童・生徒自ら活動するということが目的なわけです。

    誰かの助けを得ないで、自ら行うということで、子どもは自立し自信を深めていくものだと思います。
    先生のお膳だてでは、子どもは成長を阻害されるでしょう。
    阻害されることで、いろいろ問題行動も起こるのだと思います。


  5. 人間的な心を大切にする(3)

    9月 25, 2014 by dolce

    特に苦労らしき経験をしないで育った人にはわからないことがあるかも知れない。
    ようやく社会というものを意識し出す中学時代は、精神的にも不安定だ。
    「魔の中学2年生」と言われるように、少年犯罪は中学2年が多い。

    中学になって、突然のように半社会的な行動が起こるのはなぜだろう?
    私なりに感じたことは、テストによる順位付けが始まる頃から、問題行動が起こるように思います。
    テストは人の一部の能力の順位付けに過ぎないのに、生徒は「人間の序列」のような感覚でとらえていると思います。

    それは、先生がテストの序列が、まるで上等な人間~下等な人間の分類のように考え、口ではそうではないと言っても、生徒には人間の上下として伝わってしまう。

    これから社会に出て行こうとする生徒にとって、早々と階級が決まってしまうような気持ちになるのではないかと思うのです。

    脳科学の専門家の話によると、人の脳が能力を発揮していくのは30歳ぐらいからだと言います。
    しかし、学生時代に成績がよかった者は、自分は優秀なのだという意識が身についてしまうので、社会に出てからも「自分のやり方、考えが正しい」との殻から出ないことが、固い頭を作ってしまうと言うことです。
    学生時代の成績と社会に出てからの活躍を、追跡調査をしてみるとよいと思います。

    霞ヶ関の人たちは、未だに「あいつは学校で何番だった」という、成績の順位にこだわるという話も聞きました。

    中学時代、徒党を組んで、非行を働いてさんざん先生たちを困らせた生徒が、今中小企業の社長をやっています。
    中学時代はオール1でしたが、卒業後勉強して電気工事士の免許を取りました。
    彼の仕事ぶり、リーダーとしての資質が社長という地位につながったと思います。

    彼は、同窓会で係として献身的に働きました。
    その姿は、中学時代みんなに迷惑をかけたという気持ちが、現れているようでもありました。
    立派な名簿が配られましたが、巻末には彼の会社の広告が入っていました。
    印刷代を出したのです。

    中学時代は暴れまくった感じでしたが、先生たちの気持ちは彼の心に響いていたと思いました。


  6. 金にまつわる著書あれこれ

    9月 24, 2014 by dolce

    主婦が家計のやりくりに頭を悩ますこの頃だから、金銭に関する本が目立つのかも知れない。
    「学校では教えてくれないお金の・・・」とか「保険会社が話したがらない・・・」とか、少しでもお金のやりくりの工夫をと考えている人たちの気持ちをひこうとするタイトルが目立つ。

    それで、何か秘策があるのかと思って読んでみると、期待は裏切られる。
    結局、儲けだけを狙った本かと思ってしまう。

    金を預けるところは利率の高いところにする・・・・そんなこと当たり前。
    結局、読んでいっても何もうまいことはない。
    そう、あるはずがないのだ。
    お金の運用は、ローリスク~ローリターンからハイリスク~ハイリターンというのが基本で、利率が低いからメリットがないとは言えない。
    お金を預ける時の基本的知識は次の3つ。

    1.利率
    2.流動性
    3.安全性

    利率が高いものは、引き出す時手間がかかる。その代わり高利率。例えば定期預金。
    利率が低いものは、出し入れがし易い。例えば普通預金。

    お金の使い方、運用では保険が出てくるが、本当に保険を理解しているのかと思われるものが多い。
    例えば「保険は賭けである」と書いてあった。
    読んでいくと、死んで多額の保険金が入って来たり、入院して保険金(入院費)を貰えば得だが・・・ということらしい。
    だから、最小限にしておくとか、定期保険だけでいいなどと説明がしてあった。
    全く保険がわかっていない。

    今や利率は銀行預金より、保険の方が高い。
    この特徴を活かすと、銀行での積立よりお金は貯まる。

    これらの著書は、経済評論家、○○大学卒、○○顧問などと書いてある。
    肩書にごまかされず、自分で電卓などを用意して確かめることが大切だ。

    特に保険は奥が深い。かなり真剣に勉強しなければわからない。
    経済学部を卒業しただけの知識で理解できるものではないと思う。

    保険の勧誘員ならわかるかと言うと、会社の作ってくれた設計書を持ち歩くだけの勧誘員ではあてにならない。少なくとも、自分で設計できる能力は必要だ。


  7. 人間的な心を大切にする(2)

    9月 23, 2014 by dolce

    きまりは少ないほうがいいと、私は思っている。
    きまり(校則)の多い学校ほど、指導者の無能ぶりを表していると思っている。
    そして、きまりの多い学校ほど教育の場ではなく、それは収容所に近いものになっていると思う。

    「出るな歩くな家にいろ」とは交通安全標語で賞に入ったものだそうだが、家から出なかったら事故には遭わないだろう。
    校則をこと細かに決めて、行動の自由を規制するのは、これに似ている。
    これは校長に教育的センスがないか、退職までの期間何ごともないようにと願っているか、両方だろう。
    これでは、学校が子どものためにあるのではなく、校長のためにあるようなものだ。
    子どもは校長に奉仕するために学校へ行っているのではない。

    「人を信じる」という基本がなければ、教育はあり得ないと私は思っている。
    校則の多すぎる学校は先生が子どもを信用していない証拠である。

    日本の小中学校ではお菓子などを持ち込むことは許していないだろう。
    私が勤めていた中学校もそうであった。
    と言うか、特に決まりとして定めていなかった。
    だが、子どもは普段そういうことをするのは非常識と心得ていた。
    誰から言われることもなく、校則にもないが子どもがそうしていると言うのは、子どもが育つ中で身につけてきたことだ。
    では、なぜ子どもがそういうものを身につけて来たのかを考えてみることも、教育である。

    バレンタインデーと言うのがあって、その日が近づいて来ると、子どもも関心が高くなる。
    かつて、私の勤めていた中学校ではバレンタインデーに子どもがチョコレートを持ってきた。
    先生たちもその日は、お菓子を持ってくるななどと目くじらを立てることはなかった。
    生徒たちとしては、この日だけは許してくれると思っていたのだろう。

    職員室の扉が開いて、女子生徒がチョコレート持って来た。
    先生たちは小声で「おおっ」と言い、見て見ぬふりをしていた。
    多分、日頃、人気のある○○先生のところ持っていくのだろうと予想する。ところが意外、その先生のところは通り過ぎ、地味で厳しい先生の所へ持っていった。

    これは一体どういうことだろうと、一同思っただろう。
    これ自体、教師として、中学生の心の中を推し量る良い材料になった。

    次の日は、いつものような平然とした学校生活に戻った。

    けじめをつけるということが、うるさいお説教で教えるのではなく、日頃の教育活動の中で生徒の心に浸透していったものと思われる。

    中学生と言えば青春時代。
    少しはその心を汲んでやる余裕が欲しいと思う。

    教育の専門家を自負するなら「生徒職員一同一致団結して良い学校づくりを・・・」などと言わず、
    一致団結するための手立て、良い学校を作るための手立てを考え、実践すべきだろう。


  8. 人間的な心を大切にする

    9月 22, 2014 by dolce

    直接教えたわけでもないのに、自主的な行動をする。
    こういうところに「人間的」を感じることが多い。

    こういう意味での人間的行動には、良い行動も悪い行動もある。
    小説では登場人物が定型化されていて、良い人間は良い行動をし、悪い人間は悪い行動をするように書かれているものが多いが、実際の人間を明確に良い人間(善人)、悪い人間(悪人)に分類することはできない。
    だから、実際の人間は善人と悪人の間で揺れている、と考えた方がよいと思う。

    高校で吹奏楽部を指導していた時、就職の世話をした生徒がいた。
    生徒はどちらかと言えば無口で、内向的な感じだった。
    就職はできたものの、最近の若い人は辛抱が足りないので、すぐに辞めてしまう者も多いと聞いていたので、私は不安感を持っていた。
    「最近の若い者」と言えばわがままというイメージもある。

    確かに、練習を通じて感じることも多い。
    彼らとしては普通の生活かも知れないが、家庭そのものが昔と比べれば甘いと感じるので、仕方がないのかも知れない。

    彼女が就職してから間もなく、勤務状況を知ることができた。
    専務の話。

    「いやあ、こんな生活初めてですよ。7時半頃には出勤していましてね。事務所がきれいに掃除してあって、私が出勤するとコーヒーが出てくる」

    と上機嫌だった。

    出勤したらどうのこうのということは、誰も教えていない。
    彼女が自主的に行ったことなのだ。
    つまり、彼女の心がそうしたのだ。
    私もこの話に嬉しくなった。

    私も指導者の端くれとして、ただ喜んでいるだけでなく、こうした行動は、何がそうさせるのだろうかということが、やや大げさに言えば研究テーマになる。

    私の指導のポイントとして、まず時間を守るということを最重要にする。
    これは相手が子どもでも、大人でも同じだ。
    それには、はじめから守れそうにない時間は設定しない。
    もちろん、自分は時間を厳守する。

    子どもでも大人でも、時間が守れないのは、守れないということが体に染みついてしまっているからだと思っている。
    だから、学校の場合、時間を守ると校則で決めたからといって、守れるものではないと私は思っている。

    学習とは「過去の経験によって行動の仕方がある程度永続的に変容すること」であり、遅刻が多い者は、まさに遅刻が学習されてしまっているからである、と私は考えている。
    教育学は単位をとるためにあるものではなく、実践に活用されて意味がると思う。

    中学生では、自分のせいではなく、決まりが悪いように反発する者がいたりするが、私はこういう生徒と言い争いはしない。
    しかし、見捨てるということでもない。
    問題は決められた時間にあるのではなく、自分自身にあるのだということを、身をもって感じさせることが大切だと思っている。

    だから、本人が「これなら守れます」という時間に妥協してやる。
    その後、本人の行動を見ると、やはり遅刻してくる。
    遅刻が学習されているからだ。
    だから、これをとがめても意味がないと思っている。
    やや体裁悪そうに参加する態度を見て「悪いと自覚しているのだ」と察知する。
    あとは、本人が学習してしまった悪い習慣を、どれほどの月日をかけて解消するかだ。
    嫌味を言わず、見守る。
    守れた時「おっ、時間通り来たじゃないか」というと、私の経験では例外なく嬉しそうな表情をする。

    他の者たちの態度はどうか?
    これまで遅れて来た彼を叱らないことに「ひいき」と感じる者はいない。
    むしろ、やっと遅刻が直った彼に対して「今日は時間通り来たじゃないか!」との言葉に、ニコッとしている。

    これは、私のやり方の紹介の一部だが、一連の指導の中に、私自身の心理分析がある。
    こう書くと、生意気そうであるが、こういう私の指導方法が唯一と言っているのではない。
    私はこういうやり方をしているということであって、これも、いくつかの指導経験を通しての収斂(しゅうれん)の結果である。
    批判、質問等は謙虚に聞きたいと思う。ただし、嫌味の類は無視とします。


  9. 教員に求められる社会常識

    9月 21, 2014 by dolce

    CIMG2651来客の一人が私の部屋にあるオーデオ装置を見て

    「あっ、これ古いやつ」

    と言った。

    古いと言われたことが不愉快ということではない。

    なぜ古いと感じたのかに興味があった。
    それで「どうして、古いと思ったのですか?」と聞いてみた。
    すると

    「だって、今のやつ(製品)て小さいもん」

    という返事だった。

    この人は、昔のものは大きかったが、進歩して今は小さくなったと思ったのだ。

    そう言えば、最近の家電店でオーディオコーナーを見ると、製品はみな小さい。
    しかし、それらの製品は技術の進歩で小さくなったものではない。

    家電店では、一般家庭に売りやすいものしか置かない。
    30万円を超すと、家電では高い部類に入るので、並べても売れ行きはよくない。
    だから、家電店に並んでいるオーディオはせいぜい10万円台までぐらいのものが多いのだ。

    最近、人気が復活してきたアナログレコードの影響でプレーヤーも並べてあるが、価格は1万円台が多い。
    ところが、オーディオ専門店では数十万円から300万円ぐらいのものを置いている。

    昔は高価なオーディオがよく売れた。
    オーデイオは質が上がると、重く大きくなる。

    国産のオーディオの老舗であるパイオニアは、以前ほどの勢いはないが、伝統のオーディオの研究は進んでいて、発表会では高級品の出品をしている。
    私が1セット分を合計してみたら、約1800万円ぐらいになった。総重量は数百kgになる。
    最近の家電店では、こういうものを陳列しない。

    つまり、最近の家電店では売れそうにないものは敬遠して、安く、場所をとらないものを並べるようになったということだ。

    「あっ、これ古いやつ」は本人の見識のなさを表したものと言える。

    これは、オーディオの話だが、オーディオに限らずものの見方は見識の深さを表すと言える。

    オーディオぐらいで、見識の浅さを感じられてしまうぐらいならいいが、社会常識において「浅い人」との印象を抱かれるのは、先生の場合、保護者から軽く見られる原因になるだろう。

    昔と違って最近の保護者は高学歴になってきた。
    高学歴だからと言って、必ずしも教養が高いとも言えないが、知識のある保護者は増えている。
    先生と言えども昔取った杵柄(むかしとったきねづか )がいつまでも通用するとは限らない。

    例えば、社会の基盤である経済分野なんかどうだろう?
    最近、アリババの上場で話題になったソフトバンクは、会社としてはどれほど強い会社なのだろう?

    会社の強さと言うか、経営の安定度を示す指標に格付けというものがある。
    格付けという言葉に多くの人々が関心を持つようになったのは、金融ビッグバン以後だろう。

    格付け、つまり企業を格付けする世界的に有名な会社は、スタンダード&プアーズムーディズの二大格付会社である。
    これらの会社が有名になったのは、かつての山一證券が格付けを下げられたことで倒産したことだ。
    格付けが下げられ、即倒産というふうであった。
    格付会社が倒産させたわけではない。格付けは投資家が投資の適格度示す指標だ。
    山一證券はBBBという格付けから、一段階下のBBB-に下げられたのだ。
    これによって、多くの投資家が資金を引き上げてしまったため、倒産に至ったわけである。
    kakuzuke格付けを簡単に示すと、およそ右の図のようになる。
    AAAは最上位ランクで、一つでもAがつけば安定した経営をしていると評価されているということだ。
    しかしBランクのBBBより一つ下のBBB-になると投機的(ジャンク債と言う)という元本が返済されない恐れがあるという評価になる。
    山一證券の場合はBBB-に下げられたため、投機的という評価になったのである。

    あなたのお気に入りの会社の格付けはどうだろう?
    ちなみに、日本を代表する企業の一つ、トヨタはAA-である。
    業績不振が伝えられるSONYはスタンダード&プアーズBBBを、ムーディズBBB-をつけている。
    最近、アリババの上場で名前の上がったソフトバンクはBBB-である。
    なんと投機的(ジャンク債)である。

    格付けは企業規模ではない。経営の健全度である。
    資本が大きいからと言って、倒産の危険性がないとは言えないのである。
    株を売り買いする投資家がアリババの上場に関して、あまり騒がないのも、格付けを見てのことかも知れない。

    金融機関にも当然、格付けがある。保険会社にはもう一つ経営の安全性を示す、ソルベンシー・マージンという指標がある。
    ソルベンシー・マージンが低くなると、金融庁から業務停止命令が下される。
    あなたの保険会社は大丈夫か?

    中学生から、ソルベンシー・マージンを聞かれることはないだろうが「格付けって何ですか?」という質問はあるかも知れない。

    週刊エコノミストには「学校が危ない」という特集が組まれている。
    学校が危ないとする原因の一つに、先生の社会常識の問題が挙げられている。
    小学校での英語必修化にともない、先生はみな英語力を問われることになりそうだ。
    英語を習うとともに、社会常識が必要になるからだ。


  10. 「『貧困率』についての誤解」の誤解

    9月 19, 2014 by dolce

    経済評論家ともあろう人が、信じられないことを言っていた。
    私としては、ことさらアラ探しをしているつもりはないが、これは見過ごせない発言であった。

    今、わが国では所得格差が問題になっているが、その指標となるのが貧困率である。
    問題の評論家は、わが国の貧困率がOECD諸国の中で低い位置にあると朝日新聞が報道した記事を批判して「わが国の絶対貧困率でみると、わが国の貧困層は世界で最も豊かな位置にあるから、問題ではない」と言っている。
    そして「『貧困率』についての誤解」と称して意見を述べている。

    この意見を読んで、私はこの評論家はダメだと思った。
    レベルとしてはもう専門家とは言えない。
    数学者と名乗っているのに、九九ができないようなものだ。
    学歴は立派だが、経済学者としての力はほとんどゼロ。

    なぜ、貧困率という指標があるのかと言えば、国と国の経済的豊かさは単純に交換レートだけでは比較できないからである。
    例えば、日本のレストランで食事をした時、500円であったとしよう。
    同じ食事を別の国では、100円だったとしたら、この国では日本の5分の1で食事ができることになる。

    これを基準に考えると、日本ではこの国の5倍の所得がなければ、この国と同じような生活ができないことになる。
    だから、単純に交換レートの比較だけで貧富は決められないのだ。
    こんなことは経済の専門家(評論家)でもわかることだ。

    交換レートの比較だけでは、貧富がわからないことから貧困率という指標が考えられたわけで、貧困率とは、所得が国民の「平均値」の半分に満たない人の割合である。
    問題の評論家は、この貧困率の数字と所得を比較してモノを言っているわけで、全く話にならない。

    かつて、私はブログで、日本の貧困率はOECD諸国の中で非常に高く(順位が低く)、生活に困窮している人が多くなっていると書いたことがあった。
    そうしたら、コメントに「日本が貧困だとは何ごとだ」と文句を書いた人がいる。
    この人は貧困率と貧困の違いがわからないのだ。

    今回の経済評論家のレベルもそんなところだ。

    学校の先生も自分が教えている専門教科の名にとらわれて、自分は専門家と言えるのかどうか、時々は自問自答した方がよいのではないかと思う。

    そう言えば、ある音楽の先生は8分の12拍子の楽譜を、8分の6拍子に書き直して子どもに渡していた。
    音楽の先生なのに音楽の基礎がわかっていない。