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3月, 2014

  1. アメリカの吹奏楽指導者

    3月 30, 2014 by dolce

    合歓の郷でアメリカの先生に会った時、アメリカで吹奏楽指導者になるのはかなりの難関であると聞いた。
    吹奏楽で使う楽器はすべて習うのだそうだ。

    先生といえば、学校の外に出ても、先生の殼が身についているような人を見ることがある。
    自分は「何でも先生」とは思わないので、自分がそういう殻をつけないようにしたいと思っている。

    外に出れば、自分が先生と仰がなければいけない人はたくさんいる。


  2. 変じゃないですか

    3月 29, 2014 by dolce

    「きまりは守らなくてよい」という人が、きまりを守らない人の批判をするのは、変じゃないですか?

    自己矛盾には気がつかない、という考え方になっていると解釈すればいいわけですか?


  3. 消費税

    3月 28, 2014 by dolce

    いよいよ4月から消費税は5%から8%になる。
    この8%への変更は国会で決議されたものである。
    これは、国会がきまりを守らなくてよいと決議したことになるのか?

    5%はこれまでのきまり、8%は新しいきまり、どちらもきまりと思うのだが、きまりの変更は、きまりを守らなくてよいと決議したと考える人がいるようだ。

    このような考え方をする人は「おかしい」と思うのだが、こんなことを言う人は、学校の先生の中にはいないでしょうね。

    とにかく、先生の条件を指導力とかなんとか言う前に、普通に正常な考え方ができる先生であって欲しいと思う。


  4. 「先生と指揮者」に対する異議

    3月 28, 2014 by dolce

    私が「先生と指揮者は似ている」と言うと「先生は指揮者と似ていない」と反論する人がいる。
    私は反論されると怒るという、そこまで単純な人間ではない。
    むしろ、反論に対しては興味を持つ方だ。

    しかし、先生は指揮者とは似ていないというなら、どういう認識のもとでそういうのかを説明する必要がある。
    そのためには、指揮者がどういうものか、どういう仕事をしているのかを知っていなければならない。

    だが、どうも指揮者が何であるかはわかっていないらしい。
    となるとただの反論のための反論であり、自らの不見識(要するにバカ)を疲労しているだけのことであり「あんたがそういうことをいうとね・・・」の類と同じということなのだ。
    何とも情けない。


  5. 根本的に考えが違うの次は?

    3月 25, 2014 by dolce

    「あんたがそういうことを言うとね、話がおかしくなるんだよ」

    これは「だから、あなたと私は根本的に考えが違うんだよ」に対して、追究しようとすると返ってくる言葉である。

    「だから」には「・・・だから」の「・・・」の部分が必要である。
    しかし、そこは答えない?答えられない?いずれにしろ「・・・」の部分はわからない。

    これは、要するに「オレはどうでもよい。何があろうとオレの好み(考え)は変えない」ということである。

    これでは、討論会自体の意味がなくなってしまう。

    結論、話し合いの相手とすべきでない人とということで、終わりにする。

    こういう返事しかできない人を、私はいかにも年寄りくさいと感じる。


  6. 先生と指揮者

    3月 24, 2014 by dolce

    かねてから、私は先生と指揮者は似ていると思うようになった。

    「勉強すれば先生になれますか?」

    と言えば、採用試験に合格して、肩書きとして「先生」はできるだろうが、名実ともに先生になれるかどうかはわからない。

    指揮者は自分の思う音楽を作るために、楽員に教えたりトレーニングをしたりする。
    しかし「指揮者」という意味で音楽に魂を入れることができるかどうかはわからない。

    学校の先生も、知識を授けたり指示したりはできるが、指揮者と同じく魂、すなわち「心」を動かすことができるかどうかはわからない。

    若くても「指揮者の片鱗」を示す人もいれば、何十年経っても冴えない人がいるのは先生も同じ。

    「ベテラン」と言えば聞こえはよいが、その中身は「ただ年を取っただけ」と言う人もいる。
    変な苔が生えて魅力がなくなって「(精神的)若さ」さえも失う人がいる。
    粗大ゴミにはなりたくないものだ。


  7. 実践しなくても書ける実践記録

    3月 14, 2014 by dolce

    果たして、その実践記録は実践しないと書けないものなのか、考えてみる必要がある。

    「子どもは熱心に取り組んでくれた」と始まってもよいが、それで終わってしまっては、実践しなくても書ける報告になってしまう。
    その熱心な様子が手に取るように、読者の眼前に浮かぶような報告でなければならない。

    はじめて「愛」の意味について訊いた朝のことを覚えている。まだ、語彙が少ない時だった。庭で早咲きのスミレを数本摘み、サリバン先生のところへ持っていった。先生は私に感謝のキスをしようとした。しかし、当時は母以外の人からキスをされるのは嫌だった。すると先生は、片手で私をやさしく抱き寄せ、手のひらに「ヘレンのことを愛しているわ」と綴ったのである。

    奇跡の人ヘレン・ケラー自伝より引用

    例えば上記のように書くことである。

    現場体験をしているのに書けないなら、観察力がないか文章力がないかである。
    どちらでもないとしたら、架空の話、つまり妄想を書いているのだろう。
    実践しなくても書ける実践記録を書いているのは、自分の恥をさらしているようなものである。


  8. 人動説

    3月 13, 2014 by dolce

    天動説があり地動説があり、今は人動説がある。

    jindousetsu

    すべて世の中は自分を中心に回っている。
    オレがダメだというものはすべてダメ。
    オレは宇宙を支配しているんだ。
    何でもお見通しなんだぞ。オイコラ頭が高い。

    指導力があるかどうか、オレがみてやる。


  9. 枯れ木も山の賑わい

    3月 13, 2014 by dolce

    この言葉は死語になってきたのかと思います。

    意味は

    枯れ木も山の賑わいとは、つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。

    故事ことわざ辞典

    ですが、企業ではこういう余裕はなくなってきているようです。
    昔は会社が費用を出してくれて、IT技術の勉強に行くということもありましたが、今はそんな余裕もないようです。
    生命保険会社も昔は暇な主婦を集めて研修を行い、資格を取るという面倒もみましたが、今では始めから資格のある人しか採用しないようになってきました。

    仕事のできる人は、何でもできるようで、できる人に仕事が集中するというのも世の常ですが、学校では文化祭などで準備などに役立つ生徒も一部に集中するようです。

    「枯れ木も山の賑わい」と余裕のあるのは、今は学校でしょうか?
    それでも暮れていけばよいとも言えますが、閑だからと言って余計な口出しはするという枯れ木にはなりたくないものです。

    せめて職場を楽しくする枯れ木でありたいものです。


  10. 教育に関するサイトです

    3月 12, 2014 by dolce

    教育関係を中心の投稿をします。
    よろしくお願いします。

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